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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 23

 一五〇分の苦行を終え、ショートの客を一本終わらせてから、マサキさんの待つホテルに向かった。約二ヶ月ぶりに会う彼は、やはり寂しげな目をしており、あまり感情を表に出さないわたしを、「久しぶり。会いたかったよ……」と、どことなく色気を含んだ、低めの声で出迎えてくれた。

 とり立てて言うことでもないが、わたしは彼の声が好きだ。何と言っても聴き心地が良いところがイイ。エッチのあとなんかに聴いていると、どういうわけか眠気すら襲ってくるから、彼のあとの客はいつもてきとうになってしまう。内心、申し訳ないとは思いはあるものの、彼と過ごす時間の居心地が良すぎるせいで、他の客に対して身が入らないのだ。本当に好きな人と過ごす時間は、すぐに過ぎてしまうのに、なぜ嫌いな客やどうでもいい客と過ごす時間は、あんなにも長く感じるのだろうか。

 浮かれまくっている胸中を、必死に隠しながら、

「お久しぶりです……」と、わたしが素っ気なく挨拶をすると、

 その反応に、「なんだよ。つれねえなぁ〜」と、マサキさんが不服そうに口元を尖らせる。

「そうですか?」

 いつものことだったので、そう惚けてみせ、「いつも、こんなもんですよ……」とつけ加えると、彼もとくに気にしていたわけではなかったようで、

「今日は? 忙しかったの?」と、すぐに話をすり替えてくる。

「え? あ、はい。そうですね。そ、それなりに……」

 垢舐めを片付けてから、ショート一本を終わらせて、移動中の車中で三〇分だけ休憩させてもらった。その間に、多少、小腹が空いたので、ドライバーさんに道中のコンビニに寄ってもらい、お腹が出ない程度に、軽めの軽食を済ませ、六〇分の客が、飲み物すら出さなかったので、自分でドリンクを買って、カラカラの喉と潤した。

 プレイ中、舐めたりしゃぶったりという行為が多いので、デリヘル嬢は、とにかく口と喉が渇く。そのため、仕事中は常に水分補給が欠かせず、多いときには、気づけば一回の出勤で、五〇〇ミリのペットボトルを、三本近く空にしていることだってある。というか、六〇分の客であろうと、大抵は客側がドリンクを用意してくれているので、自分でドリンクを買うことはあまりないのだが、運悪くそういう客ばかりが続いた日なんかは、一本の仕事が終わるごとに、こうして自分でドリンクを買わざるをえない。

「ふーん。そっか、ま、上がってよ」

 入り口付近で突っ立ているわたしを、そう相づちを打ちながら、彼が部屋のなかへと招待する。

「今日は、お休みですか?」

「あぁ、ここの所、まともに休みがとれてなくてさぁ。なんかムシャクシャしちゃって、つい……」

 彼がそう照れ臭そうに、ホテルのメニュー表を手にとると、見るともなく眺め始める。

「〝ムラムラ〟の間違いじゃなくてですか?」

 冗談半分にからかうと、

「ああ、そうとも言うかな? つか、それにしても腹減ったなぁ〜」

 と、しれっと話をすり替えてくる。

「ななこちゃんは? なんか食べる?」

 唐突に訊かれ、「いや、わたしはいいです」と、最近、太り気味だったこともあり、やんわりと断っておいた。

「あぁ、そお? なら、おれもやめとこうかな?」

 ぽっこりと出た、自分のお腹を触りながら、彼が独り言のように呟く。

「ところで、お時間は? 何分にされます?」

 忘れられていそうだったので、念のためにそう切り出すと、「ああ、そうだった! ごめん。何分にしようか? え〜と……」と、少し考え込んでから、

「ちょっと急なんだけど……、一、一八〇分とかダメだよね?」

 と、とつぜん思い切ったことを口走る。

「ひゃ! 一八〇分!」

 あまりの驚きに、思わず声が大きくなる。

「や、やっぱダメ?」

 事前に一二〇で聞いていたこともあり、ある程度、長丁場になるのは、それなりに覚悟していたが、さすがに一八〇分は想定しておらず、つい動揺してしまう。

「い、いや、ダメじゃないですけど……」

 言葉尻を濁しつつ答えると、彼がそれを真似て、「けど……?」と、心配そうに語尾を繰り返して訊いてくる。

「だ、大丈夫なのかな? って思って……」

 彼のお財布事情を気にして、そう恐るおそる尋ねると、「なにが?」とでも言うように、彼が首を傾げる。

 意味が伝わらなかったようなので、「お金、大丈夫なのかな? って……」と、とっさにつけ足すと、「あぁ〜」と、やっと理解したのか、メニュー表を持った手のひらを、拳で打って納得する。

「大丈夫だよ。先月呼んでない分、少し余裕があるから、今日は少し奮発しちゃおうかな? って……」

 嬉しいサプライズなのだから、もっと素直に喜べばいいのだが、根があまのじゃくなだけあり、そんな簡単なことすらできずにいる。

「じゃあ、電話しますね」

 事務的に彼にそう伝えると、やはり不服だったようで、「少しは嬉しそうにすればいいのに……」と、彼が嬉しそうに皮肉を言う。

 そして、なにかを勘づいたらしく、「あ!」と声を上げたかと思うと、

「も、もしかして、おれ、嫌われてるとか?」

 と、バツが悪そうに、自分のことをディスり始める。

「いや、そ、そんなんじゃないですって!」

 慌てて訂正するが、「いや、いいって、いいって、無理に慰めもらわなくても……」と、彼はいじけたふりをするだけで、一向に聞く耳を持とうとはしない。

「ほら、なんか逆に悲しくなるだろ?」

「だから、違いますって!」

 その姿はどこか、困っているわたしを見て、喜んでいるようでもあり、悪戯をして面白がる子どものように、彼が大声を上げて笑う。

「ははは。じょ、冗談に決まってるだろ?」

 分かってはいたつもりだったが、なんか腹が立つ。

 腹いせに、「ばーか!」と、持っていたバッグで、少し出かかり初めてた彼のビール腹に、一撃を喰らわしてやった。

「うぐっ……」と、彼が短い悲鳴を上げ、前のめりに蹲る。

「お、おまっ……。言っとくけど、一応、おれは客だぞ!」

 蹲る彼を尻目に、

「じゃあ、電話しますね」と、彼を殴ったバッグから、自分の携帯をとり出す。

 その背中で、「キャンセルだ! キャンセル!」と、まるで悪足掻きでもするように、マサキさんが嬉しそうに悲鳴を上げる。


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