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『翠』 12

 午前中まではすっきりにしない空模様だったのだが、出勤するころには昨日までの雨が嘘のように晴れており、つい志田さんに返そうと思っていた折り畳み傘を、カバンにしまい忘れそうになった。パート先の制服に着替えを済ませ、志田さんに借りていた折りたたみ傘を、エプロンの前ポケットに押し込んだ。女子更衣室のロッカーを閉めたとたん、これまで忘れていたはずなのに、いや、〝敢えて気にしないようにしていた〟というほうが、この場合は正確なのかもしれない。なぜだか理由も分からないがふいに、今朝、旦那に言われた言葉が、思いがけず蘇ってくる。

「もういいよ……」

 旦那に対する怒りというよりは、たぶん自分に対する無力感のようなものなんだと思う。何とも言えない感情が込み上げてきて、一度は引いていた涙がじんわりと滲んでくる。誰もいないことを確認してから、急いで制服の袖で瞳に滲んだ涙を拭った。一瞬、目が腫れているのではないかと思い、更衣室の脇になる鏡で自分の顔を確認してみたが、べつに気になるほど目が赤くなっているわけではなかった。とりあえず乱れた制服と髪を整えてから、女子更衣室を出ると、ちょうど倉庫に入ろうとする志田さんの姿があった。

「あ、すみません……」

 あまり地声が大きいほうではないせいか、声が届かなかったらしい。もう一度、呼び止めようと、「すみません!」と今度はさっきよりも声を張った。

「え? あ〜、麻倉さん。ど、どうしたんですか?」

 駆け寄って、「こ、これ……」と、借りていた折りたたみ傘を差し出した。

 本人的にはあげたつもりだったようで、

「え? あ〜、べつに良かったのに……」と、反応が悪い。

「いえ、そういうわけには……」

 こちらがしつこく食い下がると、

「じゃあ、まあ……」

 と、そう言って、仕方なく志田さんが傘を受けとる。

「そういえば、連絡とれました?」

 傘を受け取りながら、彼が聞き返してくる。

「え?」

 唐突な彼からの質問に意味が分からず、こちらが困惑していると、

「あぁ、旦那さんですよ。昨日、連絡とれなかったんでしょ?」

 と、彼が説明をつけ加えてくる。

 なんとなく〝朝帰りした〟とは言いづらくて、

「ああ、あのあとすぐに電話がありました……」と、一旦嘘をつき、べつにそこまで言う必要もなかったのだろうが、ヘンに詮索されても面倒だったので、それとなく、「なんか、急な残業が入ったみたいで……」と、つけ足しておいた。

「ああ、そうだったんですね……。まあ、それなら良かったです……。なんとなくあのあと心配だったので……」

 本心から出た言葉なのか、社交辞令でそう口にしただけなのか、取って付けたようなことを言う。

 取り立てて心配される覚えもなかったので、

「心配?」と、一度とぼけてみせてから、とりあえず相手の反応を窺うと、

「ああ、なんていうか、麻倉さんのことって言うと、なんかヘンですけど、麻倉さんの〝家のこと〟って言えばいいんですかね? なんとなく、気になってたので……」

 と、彼がたどたどしく説明をする。

「いや、べつに大した意味はないので、気にしないでください……」

 そして、照れたようにわたしの目を見ずに、そこまで話すと、

「それより〝これ〟わざわざ、ありがとうございました……」

 と、返したばかりの折り畳み傘を顔の前に掲げ、そそくさと足し去ろうとする。

「あ! ちょっと待ってください!」

 その瞬間、思わず、彼を呼び止めていた。なんでそうしたのか、自分でも判らなかったが、とっさにそう呼び止めていた。

「え、何ですか?」

 ふいに呼び止められ、ふり返った彼がこちらを見つめてくる。とくに理由もなく呼び止めてしまったせいで、ヘンな間が生まれてしまい、一瞬、居心地の悪い空気が流れる。次の言葉を待っているのか、きょとんとしたまま、彼が首を傾げてしまった。慌てて呼び止めた理由を探してみたが、その理由が上手く見つからない。

「ほんと、昨日は、ありがとうごさいました……。嬉しかったです……」

 ほとんど無意識に出た言葉だったのだろう、次の瞬間、そう口にしていた。

 自分でも驚くほど、素直な気持ちだった。

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