『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 16
翌日、店長が言っていた新人の女の子と、たまたま送迎車で一緒になった。
ふだんなら、送迎車で一緒になったからといって、あまり他の娘と喋らないのだが、どういうわけか、年下から好かれる性分なのか、なるべく話しかけられないように、こちらがスマホの画面に視線を落とし、伝家の宝刀〝人見知り〟を決め込んでいると、新人の女の子が執拗に、こちらの顔を覗き込んでくる。
そのあまりに熱い視線に、思わずこちらから、
「え、えっと……。なんですか?」と、キョドり気味に話しかけると、
「あ、喋った!」と、失礼にも、当然のことを言って驚く。
そら、そんなにガン見されたら、だれだって声ぐらいかけるだろ。とは思いながらも、そこは、〝仏のななこさん〟の異名を持つわたし、そう簡単には、キレたりしない。
若干、相手のペースに調子を狂わせあれながらも、仕切り直して、
「な、なんですか?」と、改めて聞き直すと、
「あ、なんてひとですか?」と、舌足らずな口調で尋ねてくる。
計算なのか、ただの天然か、ふつうであれば、まずは自分から名乗ってから、相手の名前を尋ねるのが、礼儀というものだと思うのだが、わたしのほうが最近の主流に乗り遅れているのか、はたまた、この業界に入ってくる最近の新人さんが、単に世間擦れしていないだけなのか、悪びれる様子もなく、平気で失礼な発言をしてくる。
「な、ななこってひとですよ」
相手の口調に釣られ、舌足らずに答えると、
「あー! スティッチの人!」と、初対面の相手の顔を指して、まるで『奈良の大仏』でも見てはしゃぐ修学旅行生のように、とつぜん大声を上げて喜ぶ。
そりゃ〝仏〟ではあるかもしれないが、本物の〝大仏様〟になった覚えはない。仏は仏でも、仏違いである。
「あ、えーっと、色合いだけね……」
どこで、スティッチのマスクと、間違って解釈されたのか、夕方出勤したときにも店長に同じことを言われた。写メ日記のなかで一度も『スティッチ』というワードを出していないのに、こうも立て続けに同じ間違いをされると、自分が間違って日記に『スティッチ』と書いてしまったのではないか、という気になってくるから不思議なものだ。
「えっと、逆になんてひとですか?」
名乗らされたお返しに、同じ質問を返すと、
「え? 本名ですか?」
と、新人の女の子が意味不明なことを言う。
んなわけねーだろ。心のなかでツッコミを入れ、
「あ、源氏名で」聞き直すと、
「あ、キララって言います」と、これ以上ない満面の笑みで答える。
ふだん客の前でもあまり笑顔を見せないのに、不覚にもこちらまで釣られて笑顔なる。
最近の娘は恐ろしい。素でこんな笑顔が作れるとは、ウカウカしてるとおばちゃんも、いくら今は童顔で年齢をごまかせていても、すぐに指名客を横取りされてしまう。
ただ、わたしの客は塩対応好みのマニアックな客が多いので、若くて愛嬌があるという理由だけで、そう簡単に乗り換えるとは思えないが。
「キララちゃんかぁ〜」
先輩風を吹かせて、珍しくタメ口を利いてみてから、「大学生?」と、質問してみた。
「はい。そうなんですよ。大学一年生です。出勤が不定期なので、あまり出ないかもしれませんが、たまに送迎車で一緒になることもあると思うので、よろしくお願いします」
さっきまでの印象とは違い、今度は、そう言って丁寧に自分の自己紹介をする。
あまり深々とお辞儀をされるものだから、こちらまで、「あ、どうも。こちらこそ不束者ですが……」と、釣られて深く頭を下げると、とつぜんクスクスと含み笑いを浮かべたキララちゃんが、「ななこさんって、ヘンなひとですね」と、また失礼は発言をする。
「へ?」
発言の意図が掴めず、こちらがきょとんとしていると、今度はさすがに失礼なことを言っているのを理解したようで、
「あ、ヘンなひとって、ヘンな意味じゃなくて、あの……、可笑しなひとだなってwww あ、なんか、フォローになってないですね! あ、えっと、その……、そう! 変わったひとだなって! あれ? なんか、一周回っちゃった?」
と、自分の発言を慌てて訂正しておきながら、さらに傷口をえぐってくる。
いや、なんていうか、あの、ある程度、自覚はしてるので……、もう大丈夫です。
宙に書いているはずもないのだが、言わんとしている答えを求めて、人差し指を唇に当てながら、宙を見上げて考える彼女の姿は、女のわたしでも、なぜかドキッとさせられ、そのプックリとした艶やかな唇を見ていると、こちらまでヘンな気分になってくる。
そんな趣味は全くないが、
「ねえ? キスしてみてもいい?」
次の瞬間、そう発している自分に驚いた。
「え? ……」
次は彼女のほうが、きょとんとなり固まってしまった。
送迎車の後部座席でなにをやっているのか、ふたりとも見つめ合ったまま動かない。まるでお互いが『隠れメデューサ』で、互いの魔力で、お互いを石にし合ってしまったように。
「え、えっと、い……、いいですよ」
一瞬、自分の耳を疑った。
「はぁ? な、なんて?」
あまりに驚きすぎて、思わずそう聞き直すと、「だから……」と前置きしてから、キララちゃんが、とつぜんからだをグッと寄せ、「ななこさんだったら、いいですよ。キスされても……」と、恥じらいながら耳打ちしてくる。
あっさりOKされたことにというより、その大胆さにドキッとさせられる。
今度はこっちが固まってしまった。もちろん本気で言ったわけではないし、半ばノリで言ってみたようなものだったので、その反応に、逆にこちらが困る。
「え、えっと、いや……、冗談だからwww」
誤魔化すように、そう言って、慌てて訂正してみた。ただ、相手はすでに、その気になっていたようで、さらに顔を寄せてくる。
「ちょっ、ち、近っ……。ちょ、ちょっと待っ、え、ええ?」
グイグイ迫ってくるキララちゃんの唇から逃れるように、からだを仰け反らせ、後退りすると、レザーのシートに汗ばんだ手のひらが擦れて、ギュギュっと不快な音を立てる。
後部座席の窓際まで追い詰められ、すぐ後ろにある窓ガラスに頭をぶつかった。生まれて初めての同性からのファーストキスを、こんな入店して間もない小娘に奪われるのかと、ギュッと目を瞑ったそのときだった。悪戯に耳元に顔を近づけてきたキララちゃんが、年上のわたしを弄ぶように、左耳を甘噛みすると、
「ななこさんって、意外とウブなんですね……www」と、小声で囁く。
そして、うっすらと含み笑いを浮かべたかと思うと、悪戯をして喜ぶ子どものように、「冗談に決まってるじゃないですかwww」と、あどけない笑顔を浮かべ、「でも、ななこさんがいいんだったら、わたしはいつでもいいですよ……」と、意味深な言葉をつけ足す。
一九の小娘に手のひらの上で転がされ、まるで初めてバージンを奪われた少女のように、後部座席のシートの上で、しばらく仰向けに倒れたまま、呆然と天井を見上げていた。
ああ、こういうのを世の中では〝魔性の女〟というのだろうか。
すでにキララちゃんの指名の客が待つ、ホテルの前に到着していたらしく、運転席から振り返ったドライバーさんが、
「キララちゃん着いたよ。このホテルの703ね……」
と、シートの上に四つん這いになったキララちゃんに伝える。ちょうどそのとき、わたしの上に馬乗りになるような恰好で、キララちゃんがわたしの上に跨っていたせいで、それを見たドライバーさんが、
「君たち、お仕事中に何やってんの?」と、呆れる。
もう笑うしかなくて、まるで事前に示し合わせたかのように、
「ええ、まあ、色々と……www」と、ふたり声を揃えて誤魔化した。
ふと顔を見合わせみると、急にさっきまでの自分たちの行動が恥ずかしく思え、堪えていた笑いが同時に吹き出していた。ゲラゲラと笑うふたりを見て、
「あのね〜……」
と、呆れ果てたドライバーさんが、肩を落とし失笑する。
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