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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 21
夕方、お店に出勤すると、店長が電話応対に追われていた。なんでもわたしが休んでるあいだに、体調を壊している女の子が多数出たらしく、その予約のキャンセルの連絡や、代わりの女の子の手配に七転八倒していた。
「あ〜! ななこちゃ〜ん! よかった〜来てくれて! あら、やだ。なんか、ななこちゃんが女神に見えてきたわぁ〜……」
出勤早々、店長に泣きつかれ、どさくさに紛れて、抱きつこうとまでしてくるので、「ちょ、ちょっと、それはさすがに……」と、迫ってくるオカマを制した。
「なによ? 失礼ねぇ……」と、不服そうに店長が、口を尖らせ踵を返す。
「で、何かあったんですか?」
せっかくの抱擁を全力で拒否られ、寂しそうに事務所へ戻ろうとする店長の背中に、慈悲の心でそう声をかけた。
「聞いてくれるぅ?」
事務所の入り口で、足を止めた店長が、そう嬉しそうに振り返る。
「あ、はい。聞きますよ。なんですか?」
「あのねぇ〜」
壁にもたれかかった店長が、そう甘えた口調でため息を漏らす。今更だが、いくら心は乙女でも、屈強な体格をした男性が、内股で壁にもたれかかっている絵面は、それなりに迫力があるというべきか、薄気味悪さみたいなものがあった。
「はい」
「もう、今日だけで3人よ。3人!」
一丁前に主張だけは激しいのに、主語がないので、なにが言いたいのか、さっぱり伝わらず、「な、なにがですか?」と、親切に尋ね直してあげたのに、「なにがって、あんた知らないわけ?」と、逆にこちらが批難される。
「あ、すみません……」
とりあえず謝っておき、相手の出方を窺った。
「インフルエンザよ。インフルエンザ! 今、福岡でも猛威を振るってるのよ」
無知蒙昧なわたしに苛立ちながらも、得意げに自分の顎に指を押し当てた店長が、巷で得た知識を披露する。
「え? そうなんですか?」
カマトトではなく本気で知らずに、そう驚くと、
「はぁ〜? あんたって、ほんとお気楽なもんよね〜。世間がこんなに必死になって騒いでるっていうのに、そのことにすら気づいてないんだから……」
と、呆れ果てた店長が、皮肉を込めてため息をつく。
「まあ、とにかく。うちの店も、その猛威に晒されてるってわけ……」
「はあ〜」
実感が湧かず、今度はわたしがため息を漏らす。
「昼出勤の麻由子ちゃんもでしょ。夕方からのひらりちゃんに、二一時からのカノンちゃん……。今日だけで予約が入ってた本指名のお客さん、7人もキャンセルになったんだからぁ〜。なんでこういうときって、人気のある娘ばかりが、体調崩しちゃうのかしら? このままじゃ営業停止よ」
単なる独り言なのか、それともわたしに話しかけているのか、その境目が判らない。根本的に中身は女の子だから、ため込んでいる不満を吐き出したいだけで、そこに電柱が立っていようが、お地蔵様が鎮座してようが、あまり関係はない。聞き役として、上手く相づちを打ってくれる何かが存在していれば、それが生き物であろうと、今話題のAI(人工知能)であろうと、なんだっていいのだ。
「じゃあ、わたしはこれで……」
頃合いを見計らい、そう退散しようとマンションのドアを閉めかけたそのとき、
「あ、ちょっと待って!」
と、店長に呼び止められた。
「まだなにか?」
「『まだなにか?』じゃないわよ。今日のあんたのお客さん。午前中に聞いてたでしょ?」
「あぁ〜……」
すっかり忘れていて、思わず声が漏れる。
「え? で、誰ですか?」
「聞きたい?」
自分から話をふっておいて、なぜか店長が勿体ぶる。
「なんですか? 勿体ぶらないで、早く教えてくださいよ!」
気味の悪い笑みを浮かべた店長が、「じゃあ、良い知らせと、悪い知らせ、どっちから聞きたい?」と、さらに焦らして返事を濁す。
「じゃあ、悪いほうで」
どうせ聞くなら後味が良い方がイイに決まっている。わたしが迷わずそう即決すると、案の定、人の不幸を楽しむような、悪い笑顔になった店長が、
「一本目のお客さんが『垢舐め』で……」と、嬉しそうに赤札を突きつける。
「げ!」
思わず、崩れ落ちたわたしに、今度は〝マザーテレサ〟のような微笑みに変わり、「最後のお客さんが……」と続ける。
「最後のお客さんが?」
食い入るように詰め寄ると、
「あんたの大スキな、『マサキさん』よ!」と、人の幸せを妬む女の顔になった店長が、まるで、床に唾でも吐き捨てるように吉報を伝える。
飛び上がるほど嬉しくて、思わず叫び出しそうになる衝動を必死に押さえた。たぶん、その瞬間、思いっきり瞳孔が開いたんだと思う。どうかすると、涙まで溢れてきそうになっていた。
そして、その喜びは店長には、丸分かりで、『マサキさん』と、聞いた瞬間のわたしの顔をみるなり、「ケッ 良かったわね!」と、言わんばかりの女々しい表情をしていた。
もしわたしに、犬と同じ尻尾が生えていたのなら、嬉しくて尻尾をブンブンとふっていたに違いない。まあ、たぶん尻尾なんかなくても、今のわたしの感情は、周囲にダダ漏れなんだろうけれども。
「ほらほら、いつまでそうやって突っ立てるのよ。もう送迎車、下で待たせてあるから〜。垢舐めがいつもの安ホテルで、あんたのことお待ちかねよ」
余韻に浸っているわたしに、店長が水を差すように声をかける。
「分かってますよ!」
ひとときの幸せな時間を邪魔され、そう反発すると、
「じゃあ、一本目。頑張ってきてね〜♡」
と、他人事のように店長が、ふて腐れているわたしを送り出す。
ひとたびマンションの扉を開けると、冷房で涼んだ室内に、外の熱気が一気に流れ込んできた。湿気を帯びた空気がからだに纏わりつき、じんわりと汗が滲んでくる。
ドアを閉める瞬間、また事務所の電話は鳴り、「お待たせしました〜」と、店長が営業用の甲高い声で電話に出る。
マンションの外廊下から見下す福岡の街並みが、夕日に焼けていて、とてもキレイだった。
このあと、『垢舐め』に会うことだけを除けば、今の景色は天国にでもいるような光景だった。
もしかすると、天国と地獄はまったく同じ場所にあり、自分の感じ方次第で、その場が天国にも、地獄にもなり得るものなのかもしれない。
わたしは、「よしっ」と、気合いを入れ直し、夕日に染まったマンションの廊下を、エレベーターホールに向かって歩き出した。
建物の床を踏む、わたしのニュールの音だけが、軽快に響いていた。
わたしはなるべく垢舐めのことは、考えないようにしながら、そのあとに控えたマサキさんのことを考えることにした。逸る気持ちを抑え、まずはその前の垢舐めを、とっとと片付けてしまおう。
それが済みさえすれば、マサキさんと逢えるのだから。
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