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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 17

 生理休暇(生休)に入り、唐人町にある実家に帰省した。帰省したといっても、地下鉄空港線一本で、一人暮らしをしている祇園のマンションから二〇分足らずの場所にあり、駅からも徒歩五分圏内にあるため、正味、三〇分もかからずに実家まで辿りつく。

 唐人町商店街を抜けた先にある住宅地の一角にあるわたしの実家は、狭いながらも庭付き一戸建ての二階建て日本家屋で、わたしと妹の部屋はその二階にある。妹と部屋は一緒で、わたしが実家を出るまでは一緒に使っていたが、今は妹の一人部屋になっているため、実家に帰省した際は、昔、祖母が使っていた一階の和室が、臨時のわたしの部屋となる。

 八年前に亡くなった祖母の部屋には、仏壇はもちろんのこと、若い頃の家族写真や、もう何年も袖を通してない藍染めの着物、昔から祖母が愛読していた『司馬遼太郎』の小説などが、そのままになっており、まるでこの部屋だけが、八年前から時が止まってしまったようになっている。母曰く、「お婆ちゃんのモノを捨てるのって、なんか、お婆ちゃんの想い出まで一緒に捨てようみたいで、後ろめたい気持ちになるっちゃんねぇ……」と言っていたが、物持ちが良いことと、ただの片付け下手は、まったく別物である。

 祖母が生前、愛用していた三面鏡の上には、祖母が使っていたらくらくホンが、そのままになっており、試しに電源を入れてみると、意外にも携帯は問題なく立ち上がり、メールの受信ボックスを開いてみると、最後にわたしの送ったメールが消えずにそのままになっていた。メールは祖母がまだ病院に入院しているときに受けとったものらしく、文脈には、

〈おばあちゃん元気しとお? 来週の日曜日には会いに行くけんね〉

 と、書かれてあった。

 しかし、そのメールを受けとった直後に、祖母は危篤状態になり、約束の日曜日を待つ前に、祖母は病院で息を引きとることとなった。わたしと祖母が最後に顔を合わせたのは、その数時間後のことで、亡くなる前に過ごしていた大部屋の病室ではなく、窓もないような霊安室のような場所だった。知らせを受けてすぐに駆けつけたこともあって、祖母のからだはまだ温かいままで、まるで生きているみたいだった。

 手を握ると握りかえしてくれそうで、当時まだ中学生だった、わたしのお財布事情を気遣って、「あら、よく来たね。芳枝。お小遣いは足りとるね?」と、今にも声をかけてくれそうなほど、いつもと変わらない穏やかな表情をしており、本当に眠っているだけなんじゃないかとさえ思えた。

 お婆ちゃんっ子だったわたしは、そんな祖母を前に、泣き崩れるのかと思いきや、意外にも何の感情も湧いて来ず、祖母の遺体に覆い被さって、泣き崩れている父を目の前に、わたしは呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。ああ、なんだ、わたしって案外冷たい人間なのかもしれないと、そのとき初めて思った。

 ふだん父も母も、私たちの前では、祖母のことを、私たちに合わせて、「お婆ちゃん」と、呼んでくれていたのだが、そのときばかりは、やはり母親という存在に戻るようで、祖母の手を握ったまま、「おふくろ〜!」と、ふだん冷静な父が、感情を露わにしていた光景は、当時まだ中学生だったわたしには衝撃だった。

 当たり前と言えば、当たり前のことのなのだけれど、わたしや妹にとって、当然のように『お婆ちゃん』という存在が、父にとっては『母親』なのである。

 このあいだの電話の件で、母はまだ納得がいっていないらしく、というか納得も何も、まともな話し合いなどできていないのだから、当然と言えば当然なのかもしれないけれど、わたしが帰省してきてからというもの、とりあえずは家に入れてくれたので、勘当はされていないのだろうけれど、一言も口を利いていない。

 黙っていても実家に居たとき同様、わたしの分の食事は用意されているし、態々食卓に降りなくても、わたしの分の食事は、家族の誰かが、部屋の前まで運んでくれる。お風呂が沸けば、母親の代わりに、「お姉ちゃん、お風呂沸いと〜よ!」と、妹が祖母の部屋まで知らせに来てくれる。父親は何らかの異変に気づいてはいるみたいだけれど、父なりの優しさだろうか、とくにそのことに関して、触れてくる気配はない。

 帰省してすぐに母親に、「ただいま〜」と、声をかけたっきり、一応、「おかえり」という返事は返ってきたものの、その後、完全に話しかけるタイミングを失ってしまい、帰省してから、もう五日目になるというのに、会話らしい会話もないまま、まるで環境が悪化し、殻から出てこなくなるタニシみたく、わたしは部屋に閉じこもり、母親は母親で、その空気を察してか、自分からは話しかけて来ようとはしない。

 こんなことになるなら、初めから帰省などしなければ良かったと、考えないわけではないが、さすがこの状態で、悪化したままの親子関係を放置するわけにはいかず、今回ばかりはちゃんと話しておかないといけないだろうと、気合いを入れて帰省したみたまではいいものの、帰省したら帰省したでなかなか切り出せず、珍しく出した気合いも虚しく、この有様である。

 さすがにもう三日目にもなるので、どこかのタイミングで、この険悪なムードだけでも、どうにかしたいのだが、如何せんこうなると、どちらも引かない性格が邪魔をして、ちょっとした冷戦状態に縺れ込んでしまっている。

 それにしても、どこの家庭でも同じなのかは知らないが、親子というのはどういうわけか、根本的な性格は違うのに、似なくてもいいヘンなところだけが似てくるから、不思議なものだ。

 母親譲りの頑固さ。母親譲りの口うるささ.父親譲りのだらしなさ、父親譲りの堅実さ。妹に遺伝したのは、もちろん口うるささと堅実さで、わたしに遺伝したのは頑固さとだらしなさだけれど、言い換えれば、わたしには自分を貫く意志の硬さと、柔軟に物事を捉えることのできる柔軟な思考力があり、妹には四角四面に物事を捉える頭の硬さはあるが、その分、何事にも計画性を持って行動できる自己管理能力がある。長所は短所であり、短所は長所なのだ、常に長所と短所は表裏一体なのである。

 お婆ちゃんの本棚からてきとうに抜きとった、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』という本の一巻を手にとり、読むでもなく読んでいると、とつぜん和室の襖をノックする音が聞こえてきた。

「おい、芳枝……。ちょっとよかや?」

「……」

 予期せぬ来訪者の声に、一瞬、言葉に詰まる。

 黙り込んでいると、「ん? 居らんとか? 開けるぞ〜」と、心配した父が、返事のない部屋の襖を開けようとする。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

「ん? なんや、居ったんか。居るなら返事くらいせんか」

「はいはい! 今しようと思ったと!」

 閉まったままの襖に、乱暴に言い返す。

 なぜか昔から父だけには、乱暴な物言いをしてしまう。祖母もそうだったが、父は滅多なことでは怒らない。たぶんわたしのなかで、父に対する甘えみたいなもので、そういった安心感から、反抗期の子どもみたく、八つ当たりをしてしまうのだろう。そして、そんな父だからこそ、裏切りたくないという気持ちが先行して、未だに風俗で働いてることを言い出せずにいるんだと思う。

「おお、そうか。そりゃ悪かったな……」

「いや、わたしも、なんかごめん……」

 顔の見えない父に、何となくそう謝り、「で、何?」と、無愛想につけ加える。
「あ〜、いや、大した用事でもないんやけどな、久しぶりにふたりで少し話そうかと思ってな……」

「はぁ? 何? いきなり……」

 唐突に柄にもないことを言われ、こちらがドン引きしていると、「まあいいから、ちょっと入るぞ」と、こちらの返事も待たずに、父が部屋に入ろうとする。わたしは読んでいた司馬遼太郎の本を、なぜかとっさに背中に隠し、「ちょっと、まだいいって言ってないやろ!」と、すでに半分ほど開いた襖の隙間から、顔を覗かせる父に文句を言う。

「おお、悪りぃ悪りぃ〜」

 あまり悪びれる様子もなく、父はそう言ってから、ツカツカと部屋に入ってくる。すでにこちらの話など耳には入っていないようで、「お〜、この部屋に入るのも久しぶりやなぁ〜。おふくろが死んでから、片付けもしとらんもんなぁ……」と、感傷に浸りつつ、「お! これおふくろが、よく着とったやつやないね。懐かしかぁ〜」と、部屋を物色し始める。

「いったい何しに来たとよ? 話があったんやなかったと?」と、わたしが声を荒げて突っかかると、「おお、そうやった!」と、思い出したように、手のひらを拳で打つ。

 言葉にして訊けばいいなのに、父がわざわざ無造作に置かれた座布団を指差し、「ここ、座ってよか?」とでも言うように、態とらしくこちらをチラ見する。

 ふだんならなんてことない行動が、生理のせいか一々腹が立つ。イラ立ち紛れに、なんとなく何も答えずにいると、そもそも返事など待っていなかったようで、「よっこらしょ。あぁ〜……」と、まるで湯船に浸かるおじさんのようなため息を吐きながら、座布団に胡座をかいて座る。

 なんと切り出していいのか判らず、こちらが黙り込んでいると、

「なんか最近あったね? 元気なかごたぁ〜あるけど……」と、詮索するように、父が訊いてくる。

「なんかって?」

 それとなく惚けてみせてから、父の出方を窺った。

「いや、何もないならいいんやけど、母さんも心配しとるみたいやから……」

「心配?」

 ふと自分のしてることに罪悪感を感じ、そう聞き返すと、父のその先を続けた。

「ああ……、そりゃそうやろうもん。俺たちは家族ぞ。心配して当然やろうが……。何があったかは知らんけど、せっかく帰ってきとーとに、お前がそうやって禄に家族と顔も合わせんで、部屋にじっと閉じ籠もったままやったら、みんな心配するやろう。いいけん、ご飯のときくらい食卓に顔ば出さんね……」

 父は諭すような口調で、そうわたしに言ってから、「じゃあ、夕食んときにな」と立ち上がった。

 部屋を出る間際、「そうだ!」と、とつぜん声を上げた父が、閉まりかけた襖の向こうで、「一つ言い忘れとった……」と、思い出したように立ち止まる。

「何?」と聞き返すと、

「今日は焼き肉にするって、母さん言いよったぞ……」

 と、優しい捨て科白を残して去って行った。

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