見出し画像

『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 14

 お堅い仕事の父には、やはりネクタイがいいだろうということで、買ったばかりの子猫を連れて、さっそく妹と五階の紳士服売り場に向かった。オープンして間もないこともあり、内装がキレイなのはもちろんのことなのだが、白を基調にした外観に、赤と青の配色で『KITTE』と書かれたロゴの感じが、どことなく『ハローキティ』に似ている気がした。

 エスカレーターを上がり五階に着くと、全体的に店内のレイアウトが低く、フロア全体が見渡せるつくりをしていて、パッと見で、どこに何のお店があるのか見渡せるので、買い物がしやすそうな印象がある。ただ、店舗全体が、基本的に若い女性をターゲットに、つくられていることもあり、紳士服売り場といっても品揃えは薄く、五〇代のおじさんが好むような品物は置いていなかった。

「阪急に移動してみようか?」と、隣の妹に提案してみたが、

「いや、最近、一段とジジ臭くなってきたけん、少しくらい若作りしとったほうがいいんよ」

 と、あっさりわたしの提案は突っぱねられ、結局、そのなかでも、まだスーツなどの取り扱いのある『ビサルノ』という紳士服店に入ることになった。

 店内には、阪急の所帯じみた品揃えとは違い、華やかさのある商品が、たくさん並んでおり、全体的に細身のシルエットのスーツが多くとり揃えられていることもあり、正直、最近お腹のお肉がぽっこり出てきたお父さんに、ここのスーツを着こなせるとは、到底思えなかった。

 ま、別に今日はネクタイを買いに来ただけだから、スーツの横幅は関係ないのだけれど……。

 圧倒されながら前方も確認せずに、前を歩く妹の後ろに着いて行っていると、とつぜん立ち止まった妹の背中にぶつかった。

「ちょ、ちょっと、急に止まらんでよ!」

 そう、前方の通路を塞ぐ妹の背中に、クレームをつける。ぶつかった反動でキャリーケースが揺さぶられ、驚いた子猫がカゴのなかで騒ぎ始める。

「おおおお! あ、ごめん、ごめん! だ、大丈夫よ!」

 暴れる子猫を宥めるように、猫なで声で話しかけていると、

「ねぇ。あれ良くない?」と、妹の芽衣子が目を輝かせて、わたしの肩を叩く。

「へ?」

 間の抜けた返事で顔を上げ、彼女の視線の先に目をやると、まるで新卒の新入社員が入社日当日に着けるような、淡いピンク色の細身のネクタイが飾られていた。清潔感を通り越して、最早、初々しさすら醸し出しており、あの初々しさを身に付けるには、五十路を越えた中年サラリーマンには、ちょっと酷な気がしないでもない。

 そして、ドン引きしているわたしを尻目に、妹が棚の上からそのネクタイをとり出すと、自分で使うわけでもないのに、「ほら〜、これ見てぇ〜」と、自分の首元に、そのネクタイを宛がいながら、「どう?」とでも言うように見せつけてくる。

 お父さんがこの場に居たら、苦笑いするような色を選ぶ辺り、やはり妹は母譲りの遺伝子を受け継いでいるのだろうか。

「え? いや、似合うのは似合うけどさ~。たぶん、あっちの紺のネクタイのほうが、お父さんには似合うっちゃないと?」

 口答えするつもりじゃなくて、お父さんのことを思って、そう助言すると、

「ハァ? お父さんの趣味に合わせとったら、どんどんお父さんジジ臭くなるやろ! これからどんどん腹も出てくるし、顔に皺も増えてくるし、今はまだ、白髪頭くらいで済んどうけんいいけど、あと十年もすれば髪の毛は薄くなってくるとよ! こんなときこそ、新しい風をとり入れていかんと!」

 と、わたしの提案を一蹴するどころか、お父さんが立ち直れないような毒舌を吐いて、その場に居ないお父さんを罵り始める。

「いやいや、そこまで言わんでも……」

 なんだか急に父親が可哀想に思えてきて、興奮する妹を制し、「お父さんだって、ほら、『最近休の日は、大濠公園の周りを走って、ダイエット始めた』って言いよったし……」と、それとなく父親を庇うと、

「あのね。お姉ちゃんは何も分かっとらん。あんなの休日にいくら走ったけんって、痩せるわけないやん! そもそも毎晩晩酌しとうっちゃけん、週に一時間そこら走ったけんって、なんも変わらんよ! てか、だいだいお姉ちゃんは、お父さんと一緒に暮らしてないけん分からんとよ。昔からそうやけど、お姉ちゃんはお父さんに甘すぎるんよ!」と、逆に物凄い勢いで捲し立ててくる。

 妹のあまりの剣幕に、最早何も言えず、二の句も継げないとは、まさにこのことを言うのだろう。開けてはいけない妹のパンドラの箱は、そっとしておくに限る。

 ひとまず妹の言うところの『新しい風』が、何を指しているのか、よく分からないが、ここでヘンに追求して、面倒なことになっても困るので、

「あ~、ごめんごめん……。はいはい、そ、そうでした……。何でも芽衣子の言うことが正しいです! お姉ちゃんが悪うございました!」と、平謝りしておいた。
「それより、どうすると? ネクタイは?」と、脱線しかけた話題を強引に戻すつもりで、そう質問すると、不服そうな妹が、

「そんなん、決まっとろ!」

 と、自分の選んだネクタイを握り締めたまま、不機嫌にそっぽを向いてしまう。

 淡いピンクのネクタイが、妹の胸元でヒラリと揺れる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?