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『翠』 10

 結局、その日のうちに旦那も娘も帰って来ることはなく、娘からは〇時を過ぎた辺りで、実母の家に泊まってくると連絡があった。旦那はというと、わたしの迎えのことなど最初からなかったかのように、さも当然のごとく朝帰りをしていた。だからといって取り立てて珍しいことでもない。そんなことは我が家では日常茶飯事の光景であり、わざわざ心配するようなことでもないので、迎えに来なかった旦那を責めることもなければ、とくにその理由を尋ねることもしなかった。たぶん訊いたとしても、「残業だよ」と、上手くはぐらかされるか、「なんで、そんなことまで、いちいち言わなきゃいけないんだよ!」と、一蹴されるかのどちらかだろうし、わたしの性格上、そこまで突っ込んだことを旦那に訊けるような、厚かましさも持ち合わせてはいない。ただ、ベッドのなかで帰ってきた旦那の気配を背中で感じながら、気づかないふりをしているだけだ。

「あら、あなた、帰ってたんだ……」

 横で眠っている旦那の背中に、そう声をかけた。

 目を覚ましたばかりなのか、「あぁ、うん……」と、彼が起き抜けの低い声で、無愛想に返事をする。もちろん、旦那が帰ってきていたのは知っていたし、朝帰りした旦那に対し、すぐに声をかけることもできた。が、なぜ狸寝入りを決め込んでまで、気づかないふりをしたのか、理由を尋ねられても答えられない。なんとなく、そうしないといけないような気がしていたし、ふだんから仕事のことに関して、聞きづらい雰囲気があり、敢えて口出ししないようにしていただけだ。

「陽菜ちゃん、母親のところに泊まってくるって……」

 わざわざ報告するまでもないとは思ったが、それとなく娘から連絡があったことを伝えた。

「ああ、そうらしいね……」

 あまりその話題に興味がないようで、素っ気なく彼が話を受け流し、「まあ、そのうち帰ってくるんじゃない? 大体、母親のところに泊まってきたときは、いつも昼過ぎか、夕方まで帰って来ないから……。たぶん二人で買物でも行ってるんでしょ? それより、クリーニングに出してた俺のYシャツ、取りに行ってくれたの? もう二週間くらい経つだろ?」と、返事をするのも面倒臭さそうに、てきとうに話をすり替えようとする。

「あ、ごめんなさい……。パートのシフトが忙しくて、まだ、ちょっと取りに行けてないの……」

 言い訳するつもりもなかったが、つい余計な弁解が口をついてしまった。

 その言葉を口にした瞬間、はっきりと旦那が苛立ったのが、背中を向けられているのが伝わってきた。舌打ち混じりにこちらへ寝返りを打った旦那が、堰を切ったように、口角泡を飛ばして詰問してくる。

「おいおい! お前がパートに出たいって言ったときに、ちゃんと話し合わなかったっけか? 働きに出るなら、ちゃんと家のことをするって約束だろ? パートに出ても家のことに支障が出ないようにするって? お前がそう自分で言ったんだぞ! まさか忘れたとは言わせないからな!」

 思わず、彼の責め立てるような口調に萎縮し押し黙っていると、

「おい! なんか言ったらどうだよ! つーか、もっと自分の言葉に責任も持てよ! そもそも自分で言ったことだろ?」

 と、こちらの気持ちも考えずに、さらに詰め寄ってくる。

「……」

 執拗に浴びせられる言葉の応酬に、尚も何も言えずにいると、

「そんなんだったら、いっそパートなんて辞めちまえよ! どうせ遊び半分で始めたようなもんなんだろ?」

 と、日頃溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、バカにしたような物言いで、こちらを罵倒してくる。泣きそうになるのを、必死に堪えながら、

「ご、ごめんなさい……」

 そう声を押し殺して謝った。

 言いたいことはたくさんあった。ただ、その言いたいことが上手く纏まらない。わたしとしては、なるべく家のことには支障が出ないようにと思ってはじめたことだったし、忙しいパートの合間を縫ってではあるが、可能な範囲で家事もこなしていたつもりだった。ほんとの自分の子どもでもないけれども、陽菜のことも精一杯やってきたつもりだった。でも、それが旦那には全く伝わらないようで、自分がどんなに頑張ってやろうとしていても、少しでも粗や落ち度が見えてくると、すべてが出来てないような言い草で、鬼の首をとったように責められる。たぶん、彼の目にはわたしのことなんて、初めから見えてなんかいないし、きっと見ようともしていないのだろう。おそらく彼の頭にあるのは、いつも仕事でどれだけ成果をあげられるかといった、自分の見栄や出世のことしか頭にないのだろう。そして、その邪魔になるものは、たとえそれが一度は愛した自分の妻であっても、容赦なく責め立てられるし、そのことに何の罪悪感も感じないのだろう。場合によっては、自分の妻を捨てることも、何の抵抗もなくできてしまうような、心底、冷たい男なのだろう。

 もちろん、そんなこと結婚する前から判っていたことだし、それを承知で一緒になったのだから、今更ショックを受けるようなことでもないのは、自分が一番理解している。ただ、こうして改めて旦那の口調や態度で、面と向かって突きつけられると、正直、キツいものがあり、自分への悔しさなのか、旦那に対する怒りなのか、それが伝わってないことへの屈辱感から、少しでも気が緩むと涙が出そうだった。

「もういいよ……」

 そう言って舌打ち混じりに立ち上がった旦那が、呆れたように廊下へ出て行こうとする。

 物乞いのように旦那の脚に縋りついて、許しを請うこともできた。

 出て行こうとする旦那の背中に、罵声の一つでも浴びせてやることもできた。

 ただ、わたしは、そのどちらもしなかった。

 激しく閉められるドアの叩きつける音を、ただ、黙って聞いていた。

 布団に包まって泣きそうになるのを、必死に堪えていた。


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