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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 18

 夕食時、食卓に顔を出すと、すでに私以外の家族は揃っており、焼き肉の準備にとりかかっていた。お肉はいつもより奮発したらしく、霜降りのイイやつだ。何の肉かは知らないが、遠目からでもそれが判るほど、赤みの肉のあいだに、細かい網目状の白い筋がたくさん入っており、見るからに高そうなお肉だった。

「芳枝。なんあんた、そんなところで、ボーッと突っ立っとーとね! ほら、あんたもこれ運ばんね!」

 そう言って、母がここ数日の冷戦などなかったかのように、焼き肉用のトングを突き出してくる。いつもならあんな言い方をされれば、文句の一つでも言ってやるのだが、せっかくの五日ぶりの会話に水を差すのもどうかと思い、わたしは言われるがまま、母から受けとったトングを食卓へと運んだ。

 まだ食べてすらいない肉を目の前に、「お、美味そうな肉やな〜。見るだけで腹が一杯になるね〜」と、一足先に食った気になっている父を尻目に、「なら、食べんどきゃ〜いいやない……」と、後ろから野菜の盛られたトレーを運んできた妹が冷たく言い放つ。

 妹の木で鼻を括るような口調に、「芽衣子は冷たいなぁ〜」と、嬉しそうに父が嘆く。

 そんなに家族揃ってする食事が楽しみだったのか、今日のお父さんは、いつもよりヘンなテンションで、どことなく浮き足立っているように見えた。

 次々と運ばれてくる焼き肉の食材が、食卓のテーブルを埋め尽くしていき、すぐに置く場所がなくなる。乗り切れない食材が、キッチンと食卓を隔てたカウンターテーブルに並べられる。家族のあいだで、なんとなく決まっている所定の席は、昔と何ら変わっておらず、わたしは父の前、母の斜向かい、妹の左隣の、子どものころから座り慣れた、自分の席に腰を下ろした。久々に家族で囲む食卓は、やけに懐かしく、一人暮らしのときに、キッチンでとっていた食事とは違い、どこか温かみがあった。

 改めて家族全員の顔を見渡すと、なぜか涙が溢れそうになる。

 私以外、誰も泣いていないのに、妹の隣で一人だけ涙ぐんでいると、それに気づいた妹が、

「な、なん泣きようと? お姉ちゃん!」と、本気で驚く。

「なんでもない!」

 そう強がり、部屋着のTシャツの袖で目元を拭う。なぜだか鼻水まで垂れてきて、それを心配した父が、「ほら、これ使いなさい……」と、手元にあった、箱ティッシュを手渡してくる。

 そこから二、三枚ティッシュを抜きとり、促されるまま鼻をかんだ。テレビの音で騒がしかった食卓に、わたしの鼻をかむ音だけが、やけに大きく響いた。

 その瞬間、静まりかえっていた食卓に、一斉に笑い声が巻き起こる。

「な、なによ……」

 不服そうにわたしがそう言うと、「芳枝……」と、急に真剣な顔になった父が、

「なんでも一人で抱え込まんでいいんやけんな……。辛くなったらいつでも帰って来い。ここはお前の家でもあるんやけん。遠慮なんかなんもいらんとぞ」

 と、穏やかでありながら、どこか厳しい口調で語りかける。

 それを訊いて、また涙が溢れてきそうになり、潤んでいただけで済んでいた瞳から、大粒の涙が零れ落ちてきた。家族の前で泣くわけにはいかないと、必死で我慢していたのに、一度崩壊した涙腺からは、次々と涙が溢れ出てくる。

 嗚咽混じに泣いていると、斜向かいに座っていた母親が、堪りかねて近寄ってくる。

 ふと背中の辺りが人肌に温かくなり、振り返ると、そっとわたしの肩を抱く母の姿があった。

「うん……。そうよ。いつでも帰って来ていいんやけんね。お父さんの言うように、ここは今でも、あんたのウチなんやけん。お婆ちゃんの部屋だって、ちゃんと整理すれば、まだ使えるんやし……。辛かったらいつでも帰って来るんよ。分かったね? よかね?」

 と、いつもなら厳しいことしか言わない母が、そう何度も問いかけるように声をかける。わたしはその言葉に、ただただ何も答えず、「うん……、うん……」と、首だけで頷いて返事をした。

 心の奥底が、むず痒いやら、気恥ずかしいやら、譬えようのないもどかしさで一杯だった。

 そして、気がつくと焼き肉の食材の載ったテーブルを囲んで、家族全員で泣いていた。

 たぶん、この状況を赤の他人が見たら、かなりカオスな光景なんだろうけど、わたしは単純に、そうやって家族で何かを共有し合えている、この瞬間が嬉しかった。

 ふだん、クールな妹も、その場の雰囲気に呑まれて、珍しく目を赤くしていたが、事のあらましを理解していない妹からしてみたら、実際、なんで自分まで泣いているのか、さっぱり分かっていなかったに違いない。

 一頻り家族で泣き明かし、心なしか一人で抱えていたモノが軽くなった気がした。

「さあ、お肉、焼きましょう!」

 そう母が私たちを促すように言い、ホットプレートの鉄板を熱し始める。

 その熱した鉄板の上に牛脂を乗せると、脂の焼ける音がリビングに広がった。

 肉を大量に乗せる父に、

「ちょっと、お父さん! 肉ばっかり乗せすぎ!」

 と、ベジタリアンの妹がクレームをつける。

 目くじらを立てる妹に、「芽衣子は口うるさいな〜。いったい誰に似たとかいな?」と、父が笑顔で愚痴り出す。それを訊いた母が、「それ、どういう意味ですか? お父さん……」と、鋭いまなざしを向けて詰問する。

「いや、とくに深い意味は……」

 怯えた父が、そう肩を窄ませる。

「ちょっと! 夫婦喧嘩やったら、他所でやってよね〜!」

 その夫婦のやりとりに、わたしと妹が声を揃える。

 そうこうしているうちに、お肉の焼けるイイ香りがしてきて、

「あ! ほら、もうお肉焼けとうぞ。早く食べてしまいなさい」

 と、まるで自分に向いた母の矛先を逸らすように、父が態とらしく肉をとりわけ始める。

「ちょっと、お父さん! この肉、全然焼けとらんやん!」

 出された肉にすかさず妹がケチをつける。

「なんば言いよっとね。牛肉はこのぐらいが、ちょうどいいとぞ!」

 妹からのクレームに、焼き肉奉行の父が、お節介にも肉の焼き加減を指南する。

 その父の講釈に、

「ほらほら、始まりましたよ。お父さんの焼き肉講座が……」

 と、母が呆れたように皮肉を言う。

「なんね。それ、どういう意味ね……」

 今度は父が母の皮肉に食ってかかる。

「いえ、べつに……。とくに深い意味はありませんよ……」

 話を逸らすように、「ほら、せっかく焼けた肉が冷めちゃいますよ」と、丁寧な口調でつけ加える。

 その夫婦漫才のようなやりとりに、さっきまで辛気臭かった食卓に、いつの間にか笑顔が戻っていた。

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