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『翠』 15

 ポテトを揚げ終えたタイマーの音が、フロア奥の窓際の席まで漏れ聴こえてくる。誰もタイマーを止めないせいで、さっきからけたたましい機械音がフロア中に鳴り響いており、目の前で話しているはずなのに、不思議と彼の声がここまで届いてこない。もともと彼の地声の小さいというのもあるが、その優しすぎる彼の声質というか、彼の発する音域が環境音に負けるせいで、この騒々しい環境だと特に聞きとりづらくなる。そのせいで、さっきから何度も訊き返してしまっており、さすがにそれが続くと、だんだんこちらのほうが申し訳なくなってくる。

「そういえば、志田さんDIYするって言ってましたけど、今は何か作ってるんですか?」

「ああ、本棚ですよ……。探せば市販の棚とかもあるにはあるんですけど、なかなか気に入るデザインのモノがなかったり、あってもサイズが合ってなかったり値段が高かったりするじゃないですか? もうそれだったら、いっそ自分で作ったほうが早いなって思って、今はそれを作ってるんです……」

「へぇ〜、器用なんですね〜」

「意外でしょ?」

「いや、意外ってわけじゃないですけど、なんかこう……、職場で話してるだけだと、志田さんって、あんまり私生活が見えてこないっていうか、プライベートが謎なところがあるじゃないですか?」

「ああ、まあそうですね〜。というか、職場でそんなにプライベートな話題もすることないですし、基本、仕事の話しかしませんからね〜……」

「そういう主義ってことですか?」

「主義?」

「あ、いや、主義ってほど大袈裟なものじゃないですけど、なんていうか? たまに居るじゃないですか?  ほら、土足で他人のプライベートにズケズケと踏み込んで来る人、そういう人が自分もあまり得意なほうでもないので、もしかしたら他にもそういう風に思ってる人も居るんじゃないかな? って思って、なんとなく自分もそうしてるだけです……。あ、いや、だからって、麻倉さんがそういう人って言ってるわけじゃなくて、寧ろぼくと同じ匂いがするっていうか、ちゃんと相手のことを考えられる、常識のある人って思ってるくらいなので……。あ、でも、そういう言い方すると、逆に自分を常識のある人って言ってるみたいで、嫌味に聞こえなくもないか?」

 そう言って、独り言のようにぶつぶつと呟きながら、彼が天井を見上げて考え込んでしまう。

「あ、いや、べつに大丈夫ですよ……。志田さんのことを、そんなヘンな人みたいな目で見てないですから……。ちゃんと常識のある人だって思ってますし……。ていうか、そうじゃないと、こんな急にお茶に誘われて、ノコノコ着いて行ったりしませんし、そもそも、幾ら土砂降りの日だからって、そんな常識のない男だって思ってるなら、そんな男の人の車に乗ったりしませんから……」

「まあ、たしかにそうですね……」

 そういうとほっとしたように、彼が胸を撫で下ろし、「あ、それより、朝倉さん、まだ時間大丈夫ですか? 家のこととかあったりしません?」と、こちらの予定を気にして、それとなく訊いてくる。

「あ、いや、大丈夫ですよ。そんな気にしなくて……。今日はとくに帰ってもやることないですし、夕方までに帰って、夕食の支度だけ済ませればいいだけなので……」

「あ、そうなんですね……」

「それはそうと、そのパンフレット……」

 そこまで言って、テーブルの上に無造作に置かれたチラシを、わたしが指差す。

「あ、これですか?」

 徐にチラシを摘まみ上げて、こちらに訊いてくる。

「あ、はい……」

「あー、さっき一階の入口のところで貰ったんですよ。なんか旅行会社の人たちがイベントしてたみたいで流れで貰っちゃったんですけど、一度受け取ってしまった手前、すぐ目の前で捨てるのもアレだったので、そのまま持ってきてしまったんですよ〜。どっかで捨ててきても良かったんですけど、ゴミ箱探してるあいだに、そのことすらすっかり忘れたて持って来ちゃったんですよね〜」

「あの、ここ、わたし知ってます!」

 彼が話し終わるのも待たずに、そう声を張り上げると、とつぜん目の前で大声を出されて、動揺した彼が目を丸くする。

「あ、ごめんなさい……。急に大声出したりして……。あの、知ってるっていうか、わたしの友だちが行ったことあって、それで……」

「ああ、そういうことですね……」

「あ、ちょっと待ってくださいね」

 そういうと椅子の後ろにかけてあった、コートのポケットから自分のスマホを取り出し、彼に見えるようにテーブルの上にスマホを置く。

「あー、ほんとだ」

 画面を覗き込むように、彼が前のめりになり、そう呟く。

 スマホの画面に写し出された画像には、パンフレットと同じ温泉旅館の写真が載っており、旅館の外観が、ほぼ同じ構図で切り取られていた。

「学生時代の友だちが、この旅館に行ったことあるって言ってて、前に写メを送って来たことがあるんですよ〜。そのときはとくに興味もなかったですし、そんなに印象に残ってたわけでもないんですけど、さっきパンフレットの写真を見たときに、なんか急に思い出して……。あ、ごめんさない……」

 そう言って自分のスマホを手に取ろうとしたとき、彼が徐に口を開く。

「でも、こんな旅館だったら、好きな人と二人っきりで泊まってみたいですよね〜」

 妙に意味深な彼の言葉に、

「じゃあ、今度二人で行ってみましょうか? まあわたしなんかが相手じゃ、志田さんも嫌でしょうけど……」

 と、冗談めかして言ってみると、「そ、そんなことないですよ!」と、急に語尾を強めて否定してくる。

「いや、じょ、冗談ですって、冗談……」

 思わず、こちらが動揺して、どもり気味に訂正する。

「あ、そんなことないですっていうのは、〝麻倉さんと行くのは、べつに嫌じゃないです〟ってことが言いたいだけで、〝旦那さんが居るから、冗談で言ってるのくらいは判ってます〟って意味です」

「あー、あ、はい……」

 そうぎこちなく私が返事をすると、彼も寂しそうに笑った気がした。

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