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『翠』 9

 とりあえず、雨で濡れたからだを温めたくて、湯船にお湯を張ることにした。

 お湯が溜まるまでのあいだ、少し時間があったので、今朝からシンクに溜まったままになっていた食器をひとまず片付け、旦那と娘の帰りを待った。リビングの時計で時刻を確認してみると、午後一〇時をさしていた。旦那の帰りが遅いのはよくあることなので、大して心配もしないのだが、義理とは言えども娘の帰りがここまで遅いのは、心配まではせずとも、気にならないわけではない。スマホを確認してみたが、もちろん旦那からの着信もメールの返信もなく、最後に旦那にメールを送ってから、二時間以上経つことになる。

 そうこうしているうちに、すぐに風呂のお湯は溜まり、わたしが半身浴しかしないのもあるが、お湯張りのボタンを押してから、二〇分も経たずに、リビングの給湯器のお知らせが鳴った。食器乾燥機のスイッチを入れてから、着替えを持って浴室に向かった。雨で濡れた服を脱ぎ、洗濯カゴに脱ぎ捨てた衣類を押し込んだ。自分でパートの仕事を望んではじめたはいいけれど、ちょうど時期が店の繁忙期と重なったこともあり、連勤続きで主婦としての仕事も両立するとなると、結構きついモノがある。溜まった洗濯物がそれを物語っているようだった。

 とにかく雨で冷えたからだを温めたくて、からだも洗わずに浴槽に溜まったお湯にからだを沈めた。半身浴ぶんのお湯しか溜まっていなかったが、自分のからだの体積分が加算され、天井を見上げる形で浴槽に寝そべると、案外、肩までお湯に浸かることができた。じんわりとしたお湯の温度が、冷えたからだに伝わってきて、からだの芯まで温もりが浸透してくるようだった。その心地よさに、思わず、ため息とも安堵の声ともとれる、「あ〜」という声が溢れる。つい面倒臭くて、シャワーで済ませがちになるが、たまにこうして湯船につかるのも悪くはない。湯船に浸かっているだけでも、一日立ちっぱなしだった仕事の疲れや、雨で冷えたからだの冷えも、一緒に吹っ飛ばしてくれるようだった。

 湯船に浸かって天井を見上げていると、なんというか頭の整理というか、心のリセットができる気がする。べつに特別な悩みがあるわけではないのかもしれないけれど、湯船に浸かって冷えたからだを温めているだけで、すごく心の底から癒やされるというか、その行為そのものが、すごくリラックスさせてくれた。もちろん、ほかの主婦よりも自分が恵まれた環境にいるのは理解しているつもりだ。べつに無理に働かなくても、食べていくだけに困らないだけの環境は整っているし、旦那からの愛情が感じられないわけではない。夜の営みも、旦那の年齢を考えれば、一般的な回数だろうし、からだの相性も取り立てて悪いわけではない。ただ、それはそれとして、それだけでは満足しきれてない自分がそこにおり、お互いのからだを貪りあうような交わりを、無意識に求めてしまっているのも、また真実だったりする。湯船から沸き立つ湯気で結露した天井を見上げながら、あれこれ考えを巡らせているうちに、ふと健流の顔が頭に浮かんできた。そして、次の瞬間には、彼に抱かれる想像を膨らませている自分がいることに気づいた。何を思ってそんなハレンチな考えが、とつぜん頭に浮かんできたのか判らない。が、どう表現すればよいのか、彼には相手に不快感を与えるほどの露骨なものではないにせよ、どことなく彼の醸し出す色気のようなものがあり、どうかすると肩が触れ合いそうな距離で、そんな異性と同じ密室を共有していれば、どうしても相手の存在を意識しないわけにはいかない。さっき別れたばかりの彼のことが、なぜか気になってしかたなかった。

 もしかしたら自分じゃなくても、家まで送ってくれてたりするんだろうか?

 いつもの目にしてる職場での雰囲気と違って、なんだかとても話しやすかった。

 旦那の前では全然喋れないのに、彼の前だと自然と素の自分を出せた気がする。

 二人っきりで過ごせることが、とにかく嬉しかった。

 思いつくことや気になることが多すぎて、無意識に彼のことばかり考えてしまっていた。

 何分くらい浸かっていたのか、半身浴のつもりでお湯を張ったつもりなのに、結局、長いこと浸かっていたらしく、すっかりからだの芯までぬくもり、火照った肌の表面が赤くなってしまっていた。少し逆上せてしまったらしい。

 湯船に沈んでいたからだを上半身だけお湯から出すと、湯船の八割ほどあったお湯が一気に半分くらいまで減る。少し頭を冷やしたくて湯船を出ると、冷たすぎない程度のシャワーを頭から浴びた。頭から流れ落ちていく冷水が、熱の籠もったからだから徐々に熱を奪っていき、全身から抜け落ちた温度が排水口へと流れていく。さっきまで寒いと感じるくらいからだが冷えていたはずなのに、今度はその感覚さえ心地良く思えた。

「あ〜、また逢いたいなぁ……」

 そう独り言のように呟いていた言葉が自分のモノなのか、それとも何かに言わされた言葉だったのか、気がつくと彼に対する純粋な気持ちが口から溢れていた。

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