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『翠』 4

 実際、あすみが丘にある翠の家に到着したのは午後の九時半を回ったころで、さすがに旦那が大手の企業で勤めているだけあってか、どの家の門扉にも『ALSOK』のステッカーが貼られてあるような、豪邸ばかりが建ち並ぶ高級住宅街にあった。あまりに豪華な門構えに驚き、「つか、麻倉さんって、すごいところに住んでたんですね……」と、思わず正直な感想を伝えると、

「あ、いや、たまたま結婚した相手が建てた家で、わたしがなにをしたってわけじゃないですから……」

 と、ただ謙遜で言っているのか、ほんとにそう思って出た言葉なのか、彼女がそう控え目な物言いをする。

「てか、旦那さんって、何をされてる方なんですか?」

「え? うちの主人ですか?」

「はい。ご主人さんのお仕事……」

 彼女は少し考え込んでから、

「えー、まぁ、一応、広告業界というか……」

 と、言いたくないのか、含みを持たせた言い方をする。

「一応ってなんすか? 一応って……」

 と、軽くツッコミを入れ、

「まあいいや。広告業界ってことは、広告代理店とかですか?」と気にせず、さらに質問を重ねた。

「えー、ま〜」

 渋々答える彼女に対し、

「え? ってことは、電通とか博報堂とかですか?」と喰い気味で詰め寄る。

「あー、まあ、一応、博報堂のほうで……」

「え? マジですか? 博報堂って、あの博報堂ですよね? あの赤坂の……」

 あまりにしつこく追求され、質問に答えるのが少し面倒臭くなったのか、「あ、はい。あの赤坂の、です……」と、彼女が困ったような反応をする。

「え? すごくないですか? 博報堂って言ったら、日本でいうところの二大広告代理店の一つですよ!」

「いや、といっても、会社が大きいだけで、主人がすごいわけでも何でもないので……。それに主人も、会社の肩書きがなかったら、ただの一般人と変わらないですから……」

 と、謙遜しつつ、実情を明かす。

「そんなことないですよ! 年収とかもすごいんでしょ?」

「いや〜、わたしはお金の面は、全然扱わせて貰ってないので、その辺、よく分からなくて……」

「いや、絶対もらってますって……。え? ていうか、だったら、なんで、あんなところでパートされてるんですか? 麻倉さんが働かなくても、旦那さんが十分稼いでくれてるでしょ?」

「いや、まあ、生活に困ってるわけじゃないんですけど、家に閉じ籠もってじっとしてると、自分がなんのために生きてるのか、よく分かんなくなってくるっていうか、社会の役に立ててるのかな〜って、ふと疑問に思うことがあるんですよね〜。で、なんか、気がつくと鬱になるっていうか、このまま旦那の家政婦として一生を終えるのかと思うと、どんどん悲観的になってしまうというか、負のスパイラルに落ちていくというか……」

「あ〜、他のパートさんが訊いたら、なんか妬まれそうな内容ですよね……」

「ま〜、そうなんですけどね……。あ、なので、絶対、皆さんには言わないでくださいね! 内緒でお願いしますよ!」

 と、心配して念を押す。

「分かってますって、誰にも言ったりしませんから! 自分も余計な揉め事に巻き込まれたくないですし……」

 彼女がホッとしたように胸を撫で下ろす。

「え? でも、パートとして働くには、あすみが丘から葛西って、ちょっと遠すぎません? 場所的に……」

「あ〜、それはそうなんですけど、主人が家の近くだと、お前がスーパーなんかでパートをしてるところを、もし近所の人に見つかったら、どうするつもりなんだ〜って。おれの稼ぎが悪くて、お前を働きに出させてるみたいだろ〜って。働きたいならべつに構わないけど、家のことを疎かにしないことと、少なくとも近所の目のないところにしてくれ! って条件付きで、パートに出ることを許してもらえたので、それで……」

 とプライベートな事情を教えてくれる。

「あ〜、なんか、麻倉さんも色々と大変みたいですね……。ぼくみたいな庶民には、一生理解できないでしょうけど……」

「あ、ここで大丈夫です!」

 そのときだった。助手席に座っていた彼女が、唐突にそう声を出したのは。

 小雨になったとはいえ、まだ外には雨がパラついており、雨宿りできるような建物もなく、明かりの消えた住宅と、人気のない路地が広がっているだけで、申し訳程度に設置された街灯の明かりが、寂しく地面を照らしていた。

「え? ここって〝ここ〟のことですか?」

 唐突に話しかけられ、慌ててブレーキを踏みながら、そう聞き直した。

 急に車が停まったせいで、反動でからだが前のめりになる。小柄な翠のからだが前後に揺さぶられ、シートベルトに押し戻される。

「だ、大丈夫ですか?」

 とっさにそう声をかけると、

「あ、いえ、すみません……。わたしが急にヘンなこと言ってしまったせいで……」

 と、逆に彼女がこちらのことを気遣ってくる。

「あ、いえ……。それより、大丈夫ですか?」

「あ、はい、すみません……。だ、大丈夫です……」

 前方でヘットライトに照らされた雨粒が、パラパラと輝きながら映り込んでおり、その光景は洗練された水彩画のように美しかった。なんの変哲もない千葉郊外の住宅地のはずなのに、こうして頭の中で見方を少し変換するだけで、ヨーロッパの街並みのような、奇妙な錯覚さえしてくるから不思議なものだ。さっきまで滝壺のように降っていた雨はそこにはなく、フロントガラスの向こうで、テレビ画面の静止画のように切り取られた風景のなかで、小雨が瞬いており、健流の乗るハイブリット車のエンジン音だけが、音もない闇の中で規則的なリズムを刻んでいた。

「それはそうと、ここって、ほんとに〝ここ〟で、大丈夫なんですか?」

 改めて、そう尋ね直し、助手席に視線を転じてから、

「アレだったら、家の前まで送りますけど……」

 と、喰い気味に言葉をつけ足す。

「あ、いえ、大丈夫です。志田さんの帰りが、これ以上、遅くなってもアレなので……。それにここからなら、歩いて帰れますから……」

 ふだん会話らしい会話をしているわけでもなければ、これといって親しい間柄でもないので無理もないのだが、どこか彼女の口調には、そこはかとない距離感というか、余所余所しさが含まれていた。なにも疾しい気持ちがあって訊いたわけではなかったし、傘を持たない彼女が雨で濡れるのを心配して出た言葉だった。が、これ以上、踏み込んではいけない気がして、

「あ、そうですか……。じゃあ、まあ、気をつけて……」と、助手席のドアに手をかけようとする彼女を、無理に引き留めず、素直に見送った。

「じゃあ、わたしはこれで……。今日は、わざわざ送って頂いて、ありがとうございました……」

 そう言って、彼女がドアを開けた瞬間、これまで消えていたルームランプが点灯し、暗がりだった車内に、ふと色彩が蘇る。やんわりとした光のなか浮かび上がる彼女の姿は、今にも折れそうなほど痩せ細っており、華奢の首に張りついた白い肌には、薄らと血管が浮き上がっていた。傘を持たず降りようとする彼女を、

「あ、ちょっと待ってください!」と、ふいに呼び止めた。

「え?」

 その声に彼女がふり返る。

「これ、使ってください!」

 持っていた折りたたみ傘を健流が差し出すと、

「あ、すみません。ありがとうございます……。今度、出勤したときに、必ず、返します!」

 と、そう言って彼女が傘を受けとり、小雨の降る闇へと小走りに立ち去っていく。

 そして、路地に消える寸前、不意に立ち止まった彼女が、こちらに向かって会釈をしたような気がした。暗がりでよく見えなかったが、とりあえずこちらもその人影に会釈を返すと、またすぐに数メートル先の路地へと消えていく。

 その人影を目で追いながら、心のどこかで自分自身、彼女との別れを惜しんでいる自分がいた。

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