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『翠』 11

 さすがに自宅まで翠を送り届けるわけにもいかず、駅から少し離れたローソンに車を停め、彼女とはそこで別れることにした。午後五時にはホテルを出ていたこともあり、そこから車を走らせて移動したとしても、六時半になる前にはあすみが丘に到着していた。すでに日没しているとはいえ、辺りは十分に明るく、あまり人様には言えないような、アンモラルな関係なだけに、出来れば完全に日が暮れてから送り届けたかったのだが、旦那に怪しまれるような時間帯に送り届けるわけにもいかず、なるべく人目につかないように、駐車するスペースも店舗の敷地内でも、極力、目立たない場所に車を停めた。駐車場は満車だったが、なぜか店内には客の数は少なく、どう考えても敷地内に停まっている車の台数と客の数が合わない。おそらく近くのショッピングモールの駐車場が満車だった影響で、横着なショッピングモールの買い物客が、さもコンビニの客のような顔をしながら、無断でコンビニの駐車場に車を停めているのだろう。

 そして、おそらくそれは、常習的に行われていることなのだろう、コンビニの制服を着たオーナーらしき中年の男性が、持ち主不在の車で埋め尽くされた駐車場を、さっきからメモ用紙を片手に、車のナンバーをチェックして回っている。

 周囲の目が気になるようで、彼女が警戒しながら辺りを見回している。

「もう、旦那さん帰って来てるんですか?」

 それとなく訊いてみると、

「いや、どうですかね? いつも帰りが不規則なので……。まだじゃないですか?」

 こちらの目を見ずに、彼女が不安そうに答える。

 ちょうど目の前を横切ったコンビニのオーナーらしき人と目が合う。

 そんなに長く駐車していたわけではなかったが、何も買わずに車を停めさせてもらっている手前、少なからず罪悪感を感じないわけではない。こちらが申し訳なさそうに会釈をすると、向こうもそれにつられて会釈をする。ただ、目は笑っておらず、怪訝そうな表情を浮かべたまま、すぐに店舗の裏口へと姿を消した。

「ふだんからこのコンビにって、無断駐車が多いんでしょうね……」

「ああ、そうみたいですね……。さっきの店員さんも、なんか、車のナンバー見てたみたいですもんね……」

 そう翠が答えた瞬間だった。ちょうどコンビニ前の通りで、甲高いクラクションが鳴り響いたのは……。慌てて視線を転じると、道路の真ん中で急停車したトラックの運転手が、横断歩道もない通りを横断しようとしていた学生に、運転席の窓から怒鳴りつけている姿があった。高校生とおぼしき学生の手にはスマホが握られており、禄に後方を確認せずに、通りを横断しようとしていたらしい。平謝りを繰り返す学生に、「バカヤロー! 死にてぇーのか!」と、トラックの運転手が捨て台詞を吐き捨てながら、無駄にエンジンを吹かして走り去っていく。トラックの走り去ったあとには、真っ黒な排気ガスが宙を舞っていた。

 気弱そうな学生が通りに立ち尽くしたまま、その走り去っていくトラックを、呆然と見つめていた。

「危ないですね……」

 助手席に座っていた翠が、おもむろにそう呟き、ホッと胸を撫で下ろす。

「ああ、きっとスマホに目を取られてて、トラックに気づかなかったんでしょうね……」

 他人事のように返事をすると、

「せめて、近くに横断歩道があるんだから、そこを渡ればよかったですけどね……」

 と、見ず知らずの学生を心配して、至極当たり前のことを言う。

 気がつくと、すでに辺りは暗くなっており、陽の落ちきった薄曇りの空が、赤く染まっていた。

「もう、帰らないとですね……」

 翠のことを心配して、そう話しかけると、

「うん。そうですね……」

 と、寂しそうに彼女が答える。

 別れる前にどうしてもキスがしたくなり、周囲に誰も居ないのを確認してから、運転席から助手席のほうへとからだを寄せた。

「え?」

 とつぜん顔を近づけられたせいで、思わず、彼女が動揺する。

 そのままキスをしようとすると、「ちょっ、待」と、彼女が抵抗するのを制し、強引にその腕を掴んだ。半ば無理矢理キスをすると、次第に彼女の腕から力が抜け、うっとりとした表情に変わる。ふたりの呼吸が数秒間止まり、道徳もモラルも無視した二人だけの時間が流れる。

 そして、ふと我に返った彼女がハッとなり、周囲の目を気にして、キョロキョロと辺りを見渡した。

「あ、あの、ほんとに、今日は、送ってもらってありがとうございました……」

 と、とつぜん他人行儀になったかと思うと、

「じゃあ、また……」

 と、焦って車を降りようとする。

 その豹変ぶりに、唐突に寂しさが込み上げてくる。

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