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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 20

 店長の無理なお願いを聞いたせいで、急遽、夕方からお店へ出勤しなければならなくなり、ちょうど家を出るタイミングが同じだったこともあって、昼から出社するという父と一緒に家を出ることにした。

 昨日の暴飲暴食のせいで、体調を崩していた父はというと、さっき起きてきたばかりらしく、その首にはまだネクタイすら巻かれておらず、「おーい! 母さ〜ん……。お弁当は、もう出来とぉーと?」と、今にも倒れそうな声を出しながら、寝室のある二階から下りてくる。

 ちょうどお弁当は出来上がったところらしく、母が大きめのハンカチで弁当箱を包み終えると、「はいはい! もう出来てますよぉ〜!」と、その作り立てのお弁当を持って、キッチンから現れる。

「大丈夫と、お父さん? 今日は仕事休んだら?」

 心配した母が、お弁当を手渡しながら声をかける。

 実家に居るときは、よくケンカをしている姿ばかりを目にしていたが、こういう姿を目の当たりにしてみると、やはりこのふたりは夫婦なんだなと実感する。

「いや、そうもいかんとよ。午後から来月の予算を話し合う大事な会議があるけん、抜けられんっちゃんね……」

 胃の辺りがまだムカムカするようで、父が自分のお腹を摩りながらそう答える。

「あら、大変やね〜」
「中間管理職のツライところよ……」

「ネクタイは……? 結びましょうか?」

 とつぜんの母の申し出に、父が、「へ?」と声を裏返す。

「いや、よかって。子どもやないっちゃけん。ネクタイくらい自分で結びきるよ……」

 恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに、父が握りしめていたネクタイを、慌てて自分の首に巻き付ける。

「いいけん。貸してください。結びますから」

「いや、い、いいって……」

 恥ずかしがる父から無理矢理ネクタイを奪い、「いいけん!」と、語気を強めた。

「ほら、貸してください」

「いや、なにも娘の前でせんでも……」

 助けを求めるような視線を、父がこちらに向けてくるが、わたしはその要求には応えず、「ネクタイくらい締めさせてあげたら?」とでも言うように、ただにんまりとすると、まるでこれから公開処刑のような父の嫌がる姿を、見物させてもらうことにした。

 せっかく出した助け船を娘に無下にされ、渋々、父が首元を母に差し出す。

「最初からそうすればいいのよ」とでも言うように、母が勝ち誇った顔で、父から奪ったネクタイを襟元に通し始める。すでに父のネクタイの結び方は把握しているらしく、襟元に通したそのネクタイを、母が手際よく結んでいく。

 いつもであればネクタイの長さが合わず、何度も結び直している姿を、実家に居たころは、よく目にしていた気がするが、さすがは母である。昔とった杵柄とでも言うべきか、多少、ブランクはあっても、サラッと一発で決めてしまうあたり、伊達に父の妻をして、長年連れ添ってきたわけではないらしい。

「ほら!」

 誇らしげに父の胸元を叩いて、意味ありげな笑みを浮かべる。

「はいはい。ありがと……」

 何か言いたげな表情で、父がお礼を言うと、それが不満だったようで、「なんですか? なんか言いたいことでも?」と、母が脅しをかけるように問い詰める。

「いや、なんもなか……」

 背中にナイフを押し当てるような母の詰問に、父が怯えたように、「あ、ありがとうございます……」と、やけに丁寧なお礼を言い直すと、それに気をよくした母が、「それでいいのよ」とでも言うように笑顔に戻る。

 母に結んでもらったネクタイを、「どう?」と、今度はわたしに見せてくる。

「い、いいんじゃない?」と、わたしがてきとうに答え、

「ほら、お父さん。そろそろ行く時間でしょ」と、母が玄関の置き時計を指して、急かしてくる。

「あ、そうやった!」

 父が慌てて靴を履き、「じゃあ、行ってくるよ!」と玄関を飛び出していく。

「き、気をつけて行ってくるのよ!」

 母の声を背中で聴きながら、わたしの父のあとを追うように、「ちょっと待ってよ。お父さん!」と、実家をあとにした。

 前方を走る父の胸元で、あのとき父の日のプレゼントで妹と買った、淡いピンクのネクタイが大きく揺れていた。

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