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『翠』 13

 何も忘れていたわけではない。家事とパートの両立に追われて、少しだけ気が緩んでいたのかもしれないが、家のことを疎かにするつもりなど更々なかった。志田さんに傘を返した翌日、クリーニングに出していた旦那のYシャツをとりに、近くのショッピングモールに向かった。クリーニング店はショッピングモールのフードコートと同じフロアにあり、お昼時と重なってしまったせいで、昼食を買い求める家族連れで賑わっていた。

 独りフードコートを彷徨っている男の子が、母親をさがしているのか、不安そうに辺りを見渡している。そのこと目が合った瞬間、こちらが微笑みかけると、何かのスイッチが入ったように、大声で泣き出してしまった。こちらがオロオロしていると、遠くのほうで黒山の人だかりのようになった、サーティーワン前の行列の中から、母親らしき人影が男の子目掛けて駆け寄ってくる。泣いている我が子に駆け寄り、泣きじゃくる我が子に見かねて、「何やってんの〜! だからお母さんから離れたらダメって、あれだけ言ったでしょ!」と、呆れかえったような口調で、その男の子をその場から連れ去っていく。

 あまりに一瞬の出来事に、ただその光景を見ていることしかできなかった。肩も外れそうなほど、腕を引っ張られた男の子が、訴えかけるような眼差しで、こちらを見つめてくる。そして、そのままサーティーワン前の行列の最後尾へと並び直すと、泣き止まない我が子の前に座り込んだ母親が、諭すように何やら語りかけている。さっきまで肩を震わせしゃくり上げていた男の子が、母親から頭を撫でられ、次第に落ち着きを取り戻していく。

 その場に居合わせた誰もが、その光景に安堵し、まるで興味を失ったかのように、それぞれの日常に戻って行き、最初から泣いていた子どもなど、居なかったかのように振る舞いはじめる。

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