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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 15

 休日、久々に実家の母から電話があった。といっても実家は地下鉄空港線で一本なのだから、会いに行こうと思えば、いつでも会いに行ける距離なのだが、なんと言えばいいのか、近ければ近いほど、「まあ、今度でいいか……」という気分になり、後回しにしてしまい、その結果、遠くにいる友人よりも、すぐそばにいるはずの家族のほうが、疎遠になってしまっている。

 特別、仲が悪いというわけではない。ただ、口実がなければ、会いに行く機会がないというだけだ。

「芳枝ぇ〜! あんた全然連絡も寄こさんで! なんばしようと? ちゃんとご飯は食べよっちゃろうね? たまには連絡くらいしてきなさいよ!」

 と、電話に出るなり、第一声から耳を劈くような母親の怒鳴り声が、受話器越しに聞こえてきた。

 ひさびさに本名で呼ばれることに、一瞬、ドキッとしている自分がいた。ふだん、仕事中の電話でさえ、「はい。ななこです」と、ふつうに出てしまっているせいで、一瞬、自分が『芳枝』であることを、忘れていてしまっていたことに気がついた。

 思わず携帯を耳から遠ざけ、「そげん大きい声出さんでも、ちゃんと聞こえとうよ!」と、怒鳴り返すと、母も負けじと、

「なんば言いよっとね! お母さんは心配して言いようっちゃろ! そりゃ声も大きくなるでしょうが!」と、反論してくる。

「やけん、声が大きいっとって!」

 つくづく思うが、やはり母と妹は、性格や口調がよく似ている。一人相手にするだけでも、口を挟む隙もないのに、ふたり揃おうものなら、それこそ〝姦しい〟いや、〝喧しさ〟に拍車がかかる。

「ところで、あんた、まだあの仕事しようっちゃろ?」

「あ〜、まあ、そうね……」

 すでに話していることなので、べつに隠すようなことでもなかったのだが、なんとなく答えづらくて、そう言葉を濁すと、

「あんたね〜。いつまでやるとね? あんな仕事ぉ〜! お母さん、近所の人に、『芳枝ちゃんは若いのにちゃんと就職して一人暮らしして偉いね? ウチの娘にも、爪の垢を煎じて飲ませたかぁ〜』って言われる度に、心が痛いっちゃけんね!」と、追い打ちをかけてくる。

 いや、お母さんが心を痛めるのは勝手だが、曲がりなりにも、一応、社会人? として労働をして、お給料を得た上で、一人暮らしをしているのだから(犯罪を犯しているわけではないのだから)、なにもそこまで言われる筋合いはない。

「そげん言われても、そう簡単に、一人で生活していけるだけの仕事が、見つかるわけじゃないっちゃけん!」

「どうせ、探してすらおらんっちゃろうもん! とにかく、このままお父さんに話す気がないんやったら、早く、今の仕事は辞めて、まともな仕事に就きなさいよ。お母さんお父さんとあんたの話になる度に、まともにお父さんの顔も見れんっちゃけん!」

「はいはい。分かりました!」

 イラ立ち紛れに口調を強めると、まだ興奮が収まらないのか、通話口に母の鼻息が当たる音が聞こえてくる。

「てか、何? なんか用事?」

 ぶっきらぼうにそう言いのけ、「まさか、文句を言うために電話してきたわけでもないっちゃろ?」と、逸れかけた話を本題に戻そうと、そう付け加えると、

「あ、そう! そうよ!」

 と、さっきまでの怒りはどこに行ったのか、あっけらかんと母親が電話口で膝を打つ。

「で、何?」

「いや、それがねぇ~。幼馴染の陽子ちゃんおったやろ?」

「ああ、陽子ちゃん? ああ。が、どうしたと?」

「それがさ~、結婚したげなよ。あんたんとこには連絡行かんかったね?」

「連絡?」

 そもそも幼馴染と言っても、幼稚園のころに家が近所で、よく遊んでいたというだけで、小学校に上がるころには、お互い校区が別で、別々の小学校に通っていたから、大人になった今は、もうすでに付き合いなどない。ただ、母親同士が仲が良く、私たちが成人した今でも、頻繁に連絡はとっているらしく、どこどこの高校に通ってるらしいとか、大学はどこに進学しただとか、就職先はどこどこにしたらしいとか、大まかな相手の近況だけは耳にしていたが、当人同士は小学生のころに一度だけ親に連れられて、夏祭りの会場で会ったきり、それ以来顔すら合わせていないので、たとえ陽子ちゃんを目の前に連れて来られたとしても、きっと気付かずに、目の前を素通りするに違いない。

「ないよ……。てか、お母さんたちが、仲がイイだけで、私たちは相手の連絡先すら知らんけんね。そもそも最後に会ったのも、小学校のときに近くの商店街でやりよった夏祭りの会場で、ちらっと会っただけで、ほとんど会話すらしとらんし」

「あら? そうやったっけ?」

 自分の都合で、よく記憶を改ざんする母親は、今でもわたしと陽子ちゃんが、仲がイイと勘違いしているらしく、断るごとに陽子ちゃんの話題を出してくるが、そんなうろ覚えな相手の顔を思い浮かべながら聞いていても、正直、話など半分も入って来ない。

「お母さんたちが、今でも仲がイイけんって、なんで私たちまで仲がイイってことになるんよ?」

「よかやないね。べつにケンカしとうわけでも、なかっちゃろうもん」

「や~け~ん! それ以前にケンカができるほど、そもそもお互いのことよく知らんっていう話を、さっきからしようっちゃろ! 連絡先も知らんのに、どうしてケンカできるん?」

「それもそうやね」

 もーーーー、はがいか~!

 何から文句をつけたらいいのか、話の伝わらなさ加減に、さすがの〝仏のななこさん〟も、母親の前では、どうしても〝ブラックななこさん〟が顔を覗かせる。

「で、それだけ?」

 母親の相手が面倒になり、通話終了ボタンに手をかけながら、そう冷たく言い放った。

「は?」

「やけん、陽子ちゃんが結婚したって、それだけ?」

「それだけって、ビッグニュースやないね! あんたも早くイイ人見つけて結婚しなさいよ」

「また、その話?」

「また、その話? って。芳枝、あんたね。結婚もせんでどげんするつもりとね? 女が一生独身でやってけると思いなさんなよ!」

「分かっとるって! わたしにはわたしのペースがあるっちゃけん、ほっといてよ!」

「あんたのペースに任しといたら、結婚どころか、すぐにお婆さんになって、子どもも産めんようになってしまおうもん!」

「結局、なにが言いたいと? わたしに早く今の仕事を辞めろってことが言いたかったと? 陽子ちゃんが結婚したってことが言いたかったと? それともなに? わたしに早よ結婚しろってことが言いたかったと?」

 あまりにムカつき過ぎて、つい、吐き捨てるように、そう畳みかけていた。

 次の瞬間、

「もうよか……」

 と、落胆するような、力ない母親の言葉が、耳元で冷たく響いた。

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