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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 26

 先日、母に宣言した通り、わたしの兼ねてからの夢はパティシエであり、そのための努力も怠ってはいない。あえて言うまでもないが、お菓子作りが嫌いで、パティシエになろうとするものなどいないはずだ。当然のことながら趣味もお菓子作りである。決してデリ嬢としてポイントを稼ごうとか、女子力を上げて客を虜にしようとか、そんなやましい考えはない。大真面目も大真面目。ガチもガチ。本気と書いてマジだ。

 少し前の話になるが、かく言うわたしは、〝ケーキで明太子を釣った〟ことがある。正確には釣ったというより〝押し付けられた〟というほうが正しいのだが。

 生休中で時間を持て余していたときに、ふと思い立ち、スポンジケーキを焼いたのだが、仕上げの段階で失敗してしまい、せっかく焼いたスポンジケーキを台無しにしてしまった。

 一人で食べるには、量が多すぎるし、かといって、人さまに上げるには、形が歪すぎることもあり、処分に困った挙句、実家の大食漢たちに処分してもらうことを思い立ち、家族で食べる分だから問題ないだろうと、路肩の溶け残った残雪のようになった、ショートケーキ? を持って実家に行くと、案の定〝質より量〟がモットーの我が家の飢えたハイエナどもが、我先にと奪い合うように平らげてくれた。

 みんながあまりに、「美味しい! 美味しい!」と褒めてくれるものだから、作った張本人としては感無量である。

 帰り際、もはや実家を訪れた際の恒例となりつつある、先代のお婆ちゃんから引き継がれた儀式、今はお母さんが引き継いでいる〝お土産掻き集めの儀〟が執り行われ、『そんなに食べきらんよ!』というくらい大量の食料を手土産として持たされ、両手に大きな紙袋を抱え、帰宅ラッシュの地下鉄福岡空港線に揺られながら、なんとか自宅のある祇園まで帰宅したのだが、帰ってから紙袋を開けてみてビックリだった。

 母が親戚連中からお土産としてもらった、とんでもない量の明太子を、冷凍されたままのカチンコチンの状態で発見した。

 その他にも、たくさんの食材やら、地酒などが入っていたはずなのだが、明太子の量があまりに衝撃的すぎて、今となってはおみやげの詳細は覚えていない。言うまでもないが、そのときの明太子は、今でも我が家の冷蔵庫の冷凍室に、袋から開封されることのないまま、ひっそりと眠っている。

 話は脱線してしまったが、話題をパティシエに戻そう。

 前に話したかもしれないが、わたしは高校を中退している。そのせいもあり、わたしは専門学校に進学することができない。パティシエの勉強をしたくても、そこに通うための切符がないのだ。もちろん、中卒でもパティシエにはなれる。ただ、だからといって裸一貫で、海外の有名洋菓子店に入れることもなければ、東京の帝国ホテルのパティシエの見習いとして飛び込むこともできない。完全に実力がモノを言う職人の世界だけに、パティシエの世界も、そんなに甘くはないのだ。(お菓子だけに……)

 というわけで、わたしの第一の目標は、高校認定試験に受かることになる。まずはここを通過しなくては、その第一歩を踏み出すことすらできないのだ。

 仕事のある日以外、毎日三時間は参考書を開いて、勉強するようにしている。

 高校のころに勉強していた科目を、まさか今の年になって勉強するとは、想像すらしていなかったが、こうして改めて勉強してみて思うことは、よくこんなことを学生時代は続けていたなと感心させられる。ただ、働きながらやるそれと、それに専念できる環境では、それに費やせる時間が違いすぎ、その時間の貴重さを、改めて再確認させられる。目的を持ってやる〝それ〟と、目的を持たずにやる〝それ〟とでは、身の入り方が全く違う。ダラダラ勉強してた学生時代と、少ない時間でも、集中してやるようになった今とでは、断然、後者のほうがイイに決まってる。

 とはいえ、わたしにとって苦手意識が強すぎて、これまで敬遠してきた『数学』という最大の宿敵。小学校まではなんとか着いて行けていたが、というか、分数辺りで、すでに躓いていたが……、中学と高校では完全に全滅していた。

 因数分解、二次不等式、高次方程式

 指数関数、対数関数、三角関数。

 複素数平面、微分積分、ベクトル方程式

 なんじゃそりゃ?

 これまで社会に出て、必要と感じたこともなければ、実際に使ったこともないわ!

 で、今まさに数学の勉強をしておるわけだが、これがまた曲者で、解き方も分からなければ、解答を見たところで、ちっともピンと来ず、せっかく重い腰を上げて、勉強にとりかかったというのに、開始早々ヤル気を削がれている。

 ※問題
「半径 r の球が平面に置かれています。球の中心を通り、平面に垂直な直線上の一点から光が放射状に出ます。光の出る点の平面からの高さを h (>2r) とします。平面上にできる球の影の面積が球の表面積に等しいとき h を r を用いて表しなさい」

 な、何を?

 面積を求められてるのは、大体解るのだが、光? 影? h? r? はぁ? 何度文章を読み返しても、内容が全く入って来ない。

 それどころか、どうやら答えは『h=8/3r』らしいのだが、それを聞いたところで、その数字が何を表しているのかさえ、わたしのポンコツな頭では理解できない。
 このままでは頭が爆発しそうなので、開始一〇分も経たずに匙を投げ、小休止を入れようと開いていた参考書を閉じ、コーヒでも入れようとキッチンに向かうと、シンクに登ったサワコが、ウォッシュタブに顔を突っ込み、底のほうに溜まった水を飲んでいたのだ。

「こら! またそんなところの水ば飲んでからっ!」

 慌てて、サワコを抱え上げ、叱りつける。

「ミャーオ、ミャーオ」と、悲しげな鳴き声を上げながら、まるで「もっと呑ませろ」と言わんばかりに、わたしの腕のなかでサワコが大暴れする。

 爪まで立てて暴れるものだから、そのあまりの愚図りっぷりに、「ちょ、ちょ、ちょっと! 痛いって!」と、思わず声を荒げ、押さえ込もうとしていると、その手をすり抜け、ハラリと身を反転させ、わたしの足元に着地する。

「コノヤロォォォー!」

 何事もなかったかのように、悠然と本来の水飲み場へと去っていくサワコに、自然と怒りがこみ上げてくる。

 ふと自分の腕を見下ろすと、サワコにつけられた腕の引っ掻き傷が、少しだけミミズ腫れのように腫れ上がっていた。


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