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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 1


 その男性は、いつも寂しそうな目でわたしを迎える。

 それは初めて出逢った日から同じで、たぶん、今日も、まるで別れ際のような寂しい目で、わたしを迎え入れるんだと思う。

 ホテルの薄暗い廊下を進み、指定されていた部屋のドアの前に立つと、のぞき窓もインターホンもないドアをノックし、彼が出てくるのを待った。数秒後、扉越しに人の動く気配があり、ドアがゆっくりと開く。

 扉が開くなり、「会いたかったよ……」と、やはりその男性は、寂しげな表情でわたしを迎え入れた。

「お待たせしました……」

 あまり喜びが伝わり過ぎないように、事務的にそう答えると、わたしはホテルの玄関でサンダルを脱ぎ、薄っぺらいホテルのスリッパに履き替えた。

「どうぞ」と、玄関に一人、わたしを置き去りにして、彼が部屋の奥へと入って行く。

 その背中を追うように、「お邪魔します……」と、わたしは小さく呟きながらあとに続く。

「まあ、別にぼくの部屋でもないんだけどね……」と、彼が独り言のように呟きながら、鼻で笑う。

 そして、そんな彼の背中を追いながら、いつも思うことがある。

「あ〜ぁ、この人の彼女になれたらな……」と。

 お客とデリヘル嬢であるという事実を除けば、お互いすでにからだの相性も確認しており、こうして何度も指名してくれるのだから、少なくとも、わたしに対する好意はあり、何度も呼んでくれているのは間違いないはずなのだが、彼がただ奥手なだけなのか、単に紳士的なのか、もう五回も指名してくれているというのに、彼から連絡先を聞いてくるようなことは、一度もない。

 この業界のジレンマというべきか、初回からすぐに本番を強要してくるような礼儀知らずな客や、酔っ払って来るような態度の悪い客に限って、すぐに連絡先を聞き出そうとしたり、「仕事終わったあとに、飯でもどお?」と、バカの一つ覚えみたいに誘ってくるのに、女性に対する気遣いができる紳士的な良客ほど、無遠慮に連絡先を聞いてくるようなことはない。

 ちゃんとお金を払ったら、時間内でプレーを楽しんで、「じゃあまた」と、こちらのほうが、名残惜しくなるほど、綺麗な別れ方をする。

 本当に連絡先を訊いて欲しいのは、あなたのような人なのに……。

「寒くない?」

 彼はいつもわたしを部屋に招き入れると、そう訊いてくる。

「ううん。ちょうどいいです」

「喉は? 渇いてない?」

 そして、次に、必ずそう訊く。

「うん。そ、そうですね。少しだけ……」

 わたしがはにかみながら答えると、わたしのために用意してくれていたペットボトルを、彼が差し出す。こちらが要求したわけでもないのに、彼はいつもそうしてくれる。そんな彼のさり気ない優しさが嬉しくて、無意識に彼のことばかり考えるようになっていた。

 とくに彼の顔がタイプというわけでもない。体型もどちらかというとだらしない感じだし、なぜ自分がこの人に惹かれているのか、自分でもよく分からないのだけれど、つい彼のことを見てしまう時間が長くなる。彼から貰った飲み物に口をつけながら、気がつくと、またいつものように、彼のことを目で追っていた。

「どうしたの?」

「ううん。何でもない……」

 急に喋りかけられ、慌てて否定すると「そぉ?」と、彼がそっとわたしの頭を撫でる。

「うん。見てただけ……」

 そして、恥ずかしそうにわたしが答える。

 彼はいつも同じホテルを使う。地方にあるどこにでもあるようなラブホテルで、なぜかホテルの一階のロビーには、マッサージチェアやスロットマシーンが置いてある。気にしなければ、さらりとスルーできるのかもしれないが、デリヘル嬢という職業柄、必然的に色んなホテル行く機会が多くあり、そういうところに、やけに目がいってしまうのだ。

「あの、一階のマッサージチェアって、いったい誰が使うんですかね?」

 不意にそう尋ねると、

「へ?」とでもいうように、彼が首を傾げる。

「ほら、このホテルの一階にあるやつですよ」

 そうわたしが言い直すと、

「ああ、なんか置いてあったっけ? ……」と、彼がネクタイの紐をゆるめながら相づちを打つ。

「今日は? 仕事帰りですか?」

 ふだんネクタイを締めた姿を、あまり見たことがなく、ふとそう質問すると、
「ああ。スーツ姿で会うの、初めてだっけ?」と、彼が思い出したように顔を上げ、「どお? 似合ってる?」とでも言うように、自慢げにYシャツの胸元を摘んで見せる。

 この人と居ると、いつも錯覚する。本当は自分が、この人の彼女なのではないかと……。

 もちろん、自分がデリヘル嬢で、彼は客である事実は十分に理解している。そんなことは百も承知だ。

 ただ、彼と交わす会話のテンポ、一緒に過ごしているときの居心地の良さ、肌と肌が触れ合ったときの安心感。唇を重ねたときの心地良さ。そういったすべての関わりのどこにも、違和感というものがまったく無く、彼と居るときだけは、自分がデリヘル嬢であるということを忘れさせてくれるのだ。

 月に一度あるかないかの、彼から呼び出された一二〇分という時間だけが、わたしにとって許された、唯一のデリヘル嬢としてではなく、一人の女性として過ごすことのできる時間なのかもしれない。

「はいはい。素敵ですね」

 てきとうに聞き流して、からかうように言うと、

「なんだよ。つれないなぁ〜」

 と、不服そうに彼が口を尖らせる。

「それで? 今日も一二〇分でいいですか?」

 いつもロングコースを指定してくれるので、簡単な確認だけを済ませ、わたしはバッグから携帯をとり出した。

「うん。じゃあ、いつもので……」

 てきとうに聞き流されたことを根に持っているのか、化粧台の鏡に映る自分の姿をチラチラと確認しながら、彼がつまらなさそうに、そう答える。

 さすがに六回目ともなると、お互いに打ち解けてくるせいもあり、無意識に素の自分が出てしまうようで、わたしが店への確認の電話をしているあいだ中ずっと、彼はまるでいじけた子どもように、鏡に映る自分と睨めっこしたまま、髪を直したり、襟を整えたりしていた。

 わたしは見かねて、店への連絡を手早く済ませると、

「だから、素敵って言ってるじゃないですか!」

 と、慰めるように、彼の背中に飛びついた。

 とつぜん、飛びつかれ「お、おい!」と、彼が嬉しそうに文句を言う。

「いきなり、飛びつくやつがあるかよ!」

 じゃれ合いながら、そのまま押し倒してやろうかとも思ったが、わたしはそれはせずに、「ほら! シャワー浴びるんですよね?」と、煽るように彼の背中を押した。

 乱暴に背中を押された彼が、

「おいおい! 押すなって! もう呼んでやんねーぞ!」

 と、どこか嬉しそうに、悪態をつく。

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