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『翠』 5

 翠が帰宅すると、まず目に飛び込んできたのは、脱ぎ散らかされた靴の散乱した生活感溢れる玄関先だった。傘立てからこぼれ落ちたビニール傘が、傘立てに入りきれず、玄関先の床に無造作に転がっていた。そのあまりの散らかりぶりに、翠はどっと疲れが押し寄せ、思わず、深いため息を溢した。

 べつにほかのパートさん同様に、自分は生活のために働いているわけではない。ただ、生活のためではないにしても、長時間のパート労働を済ませ、その上、長いあいだ雨ざらしの軒下で待たされ、散らかった玄関先を目の当たりにさせられれば〝疲れを感じるな〟というほうが無理がある。

 翠が健流から渡された濡れた折りたたみ傘を玄関隅の床に立てかけると、倒れ込むように玄関先に座り込んだ。そして、一日中、履きっぱなしだったヒールを脱ぐと、立ち仕事で浮腫んだ脹ら脛を、手で優しくさすった。傘の生地に付着していた雨水が落ち、乾いたタイルに灰色の染みをつくる。

 明かりも点いていない二階の暗がりに、「陽菜ちゃ〜ん! 居るんでしょ?」と、とりあえず呼びかけてみた。すでに学校から帰っているはずなので、家に居ないはずはないのだが、その気配がどこにも感じられなかった。

「陽菜ちゃ〜んー! 居ないの?」

 もう一度、そう呼びかけてみたが、もちろん向こうからの返事はなく、暗がりに自分の声だけが、不気味に反響するだけだった。翠は座り込んでいた玄関の上がり框から立ち上がると、二階へと続く階段には上がらず、ひとまずリビングの扉を開けた。

 ソファーに目をやるが、そこには娘の姿はなく、もちろん旦那の姿もなかった。

「誠人さ〜ん! まだ帰ってないの?」

 だれも居るはずがないが、とりあえず旦那の名前を呼んでみた。が、その声も虚しく響いただけで、人気のないだだっ広い部屋に、自分の声が跡形もなく吸い込まれていく。

 もともとは旦那の購入した家で、前妻と暮らすために買った家だった。前妻とのあいだには子どもがおり、その子どもというのが、現在、一緒に暮らしている陽菜で、そこに転がり込む形で、翠が一緒に暮らしはじめた。なので、厳密に言えば、陽菜は翠の本当の子どもではない。ただの再婚相手で、本当の母親はべつに居る。とくに連絡を取っているわけでもないみたいだし、翠が直接顔を合わせたことはない。

 旦那と結婚してからというもの、中学二年になる娘とは義理の関係とはいえ、陽菜の母親になってもう五年になるが、翠のことを母親として認めたこともなければ、ほとんど会話らしい会話もしたことはなかった。だからといって、特別、父親に懐いているということもなく、ほんとのところは母親と一緒に生活したかったのではないかとも思えなくもない。おそらく、夫婦間のお互いの経済状況や、娘の今後の学校生活などへの影響も話し合った結果、母親が引きとるより、父親が引きとるほうが、娘のためになるのではないか、という結論に至り、現在の状況に落ち着いたのだろう。

 二階にある子ども部屋に上がってみたが、もちろん陽菜の姿はなく、奥の寝室にも明かりはついていなかった。

 旦那からの着信がないかと、スマホの画面を確認してみたが、それもまだなかった。どうせ繋がらないとは思ったが、帰りの遅い旦那に電話をしてみた。が、やはり繋がらず、通話口の向こう側で、受話音がなるだけだった。

 今朝からシンクに溜まったままになっていた、食器を片付けようとリビングに戻ると、さっきは気づかなかったが、テーブルの上に小さなメモがあった。

 手にとって見てみると、〈お母さんと会ってくる。遅くなります〉とだけ書かれてあるだけの娘からの置き手紙で、翠へとも旦那へとも宛名は記されていなかった。

 翠に宛てたわけでもない手紙。

 旦那に宛てたわけでもない手紙。

 どちらに宛てたわけでもない手紙。

 陽菜の直筆で書かれた手紙には、自分ではない〝本物の母親〟の存在を臭わす内容が書かれてあった。それが寂しいわけではないが、さも当たり前のように、〈お母さん〉と書かれた手紙からは、言葉にしなくても伝わってきそうな、どうしても埋められない娘とのあいだの隔たりを感じられるようだった。

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