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『蝶々と灰色のやらかい悪魔』 19

 生理休暇の最終日、店長からのモーニングコールで叩き起こされた。

 なんでも、出勤予定だった女の子が、とつぜん体調を崩したとかで、「ななこちゃん、ごめ〜ん! 今日、夕方からでいいから出勤してくんない? 一生のお願い!」と出勤依頼の電話だったのだが、電話口でも相変わらずのオネエ口調で、目覚まし代わりに聴くには、あまり目覚めの良いモノではなかった。

 ただ、店長の〝一生のお願い〟というやつを、今年に入って、すでに五、六回は聞いている気がするが、あまりに店長が多用するものだから〝一生のお願い〟としての重みが、あまり感じられなくなっている気がする。

 まあ、ともあれ、オムツウィーク(生理)は終わっていたので、ひとまず、お人好しのわたしは、そのあまり重みの感じられない店長の〝一生のお願い〟というやつを、聞いてあげないわけではないが。

 ということで、急遽、その日の夕方から店に出勤することになり、せっかくの休みまで奪われた挙げ句、すでに予約が入ったらしく、そのあとすぐに店長からLINEが届いた。

「どんなお客さんですか?」と、質問してみると、「出勤してからのお楽しみよ♡」と、意味深なことを言ってはぐらかすだけで、教えてはくれなかった。

 後味の悪い、なんともスッキリしない状態でリビングに向かうと、台所にはすでに母の姿があり、キッチンで何かを作っていた。

 昨日の夕食の焼き肉が、まだお腹に残っているのか、どことなく胃もたれ気味だったので、胃薬を飲もうとリビングの薬箱を漁っていると、それに気づいた母が、「なんね。あんたもね」と何かを察し、「胃薬やろ?」と、先回りして訊いてくる。

「え? あ、うん」

 手渡される胃薬を素直に受けとり、

「あんたもって……、他にも誰かおると?」と、それとなく訪ねると、

「ああ、お父さんがね」と、母が簡潔に答える。

 グリルで何かを焼いているようで、母が箸で摘まんだ何かを、手元でひっくり返している。

「なんか、作りようと?」

「ああ、お弁当のシャケよ。お父さんも、今朝から胃がもたれとうって言ってたけん、お昼は軽いのがいいかなって……。あんたも食べる? 食べるなら焼くけど?」

 そう言って母が生焼けのシャケを箸で摘まみ上げて見せる。

「いい」と首をふり、時計に目をやる。

 すでに一〇時を回っており、出勤までの時間を逆算してみた。

 一八時出勤として、あと八時間はないくらいだ。

「お昼って、お父さん遅くない?」

「ああ、なんか今日は午後出社で、帰りは遅くなるって言いよったよ」

「芽衣子は?」

「ああ、芽衣子? 朝からバタバタと、『何で、お母さん起こしてくれんかったとよ!』ってワーワー大騒ぎしながら、九時ごろ出かけて行ったわよ。あんたの仕事のことまで、お母さんが知るわけなかろうもん。ねぇ〜?」

 同意を求めて来られたところで、なんと返事をしていいのか判らず、

「ああ、そうやね……」と、てきとうに相づちを打っていると、自分で話をふっておきながら、母のなかではすでに次の話題に移っていたようで、「あんたは? 今日まで休みって言ってなかったっけ?」と、今度はわたしのことを訊いてくる。

「ああ、夕方から出勤になった」

「あら、あんたも大変やね……。まあ、頑張るのはいいけど、からだ壊したらどうもならんっちゃっけん、しっかり栄養を摂って、からだには十分気をつけなさいよ」

 どこか説教染みた口調で、わたしのからだを気遣う母に、「分かっとうって!」と、つい反発してしまう。母親として娘のからだを心配するのは、当然のことなのだろうが、その思いやりが逆にウザくもあった。

 長いこと実家を離れていたせいで、食器の配置が若干変わっていたようで、なかなかコップが見つからず、食器棚の扉を開けたり引き出しを漁ったりしていると、それを見かねた母が、「コップならここにあるわよ」と、わたしに助言してくる。

 必要以上に心配してくるウザさも、先回りして助言してくる優しさも、どちらもこの家族のことを思っているからこそなんだろうけれど、その〝ウザさ〟も〝優しさ〟も、私たちの母親を長年やっていないと、そう簡単にできることではない。そう思うと、急に母親という存在が有難く思え、やはりこの家族のことを一番理解しているのは、母親なのだと、改めて実感させられた気がした。

「あ、うん。ありがとう……」

 母が差し出してくれたコップを受けとると、わたしはグリルでシャケを焼く母の隣で水道水を注いだ。蛇口から勢いよく飛び出された水が、コップの底で逆流し、フチから激しく零れ落ちる。少しだけ蛇口を閉め直し、その勢いを調整すると、透明なコップの内側を水道水が、ゆっくりと満たしていく。

 その様子を見つめたまま、唐突に、「ねぇ?」と母親に話しかけてみた。

「ん?」

 グリルのシャケに視線を落としたまま、涼しい顔で母が答える。

 そして、完全に蛇口を閉めたところで、不意に、「わたし。パティシエになるから!」と、ちょうど箸でシャケを摘まみ上げた母に宣言した。

 とつぜんの娘からの宣言に、寝起きの顔に水をかけられたように驚く。

「珍しくむずかしい顔をしとるけん、何を言い出すかと思ったら……。なんね、いきなり……」

 驚きと安堵が入り混じり、母が複雑な表情で胸を撫で下ろす。あまりわたしの真剣味は伝わっていないようで、「それはいいけど、ちゃんと就職をしてからにしなさいよ……」と、話半分に、こちらの話をすり替えてくる。

 その母の反応にイラ立ち、「やけん。わたし、パティシエになるけん!」と、今度は強い口調で、もう一度、そう言い直すと、「わたし、将来のこと、ちゃんと考えとうけん……」と、畳みかけるように、早口でつけ足した。

 あまりに激しい娘の剣幕に、母も返す言葉がないようで、

「あ、う、うん……。わ、分かったわよ……」

 と、きょとんとしたまま返事をする。

「お父さんには、そのうち言うから。今は風俗で働いてることも、これからの自分の将来のことも……。全部言うから……」

 そこまで言い切って、手にしていた胃薬を、並々と注がれたコップの水で流し込んだ。

 鼻から抜ける胃薬の爽快感が、昨夜から残る胃袋の気持ち悪さを、少しだけ和らげてくれた気がした。

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