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物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 19 エンジュの話

-エンジュ-

 まだ夜が明ける前、エンジュはカエデに気がつかれないようそっと家を出る。当然辺りはまだ闇の中だ。灯りのいている家も無い。
 マカニには街灯のようなものは無いが、各家々の玄関先に吊るされている軒灯や門灯が所々ぼんやりと辺りを照らしている。
 闇の中を歩き慣れたエンジュには、それで十分だった。
 第五飛行台まで歩いて行き、そこから飛び立つ。
 黒っぽい衣装に漆黒の翼。おそらく目に留める者は誰も居ないだろう。
 まだ夜風といって良いような風に乗ってマカニの嶺の頂上を目指す。冬は切るように冷たいその風も、盛夏に在っては心地良い。
 飛び始める頃には既に闇に目が慣れていて、距離感を読み違えることはない。マカニの嶺の稜線もしっかりと認識できた。
 そこに小さな森が在ることを知る者は、マカニ族の中にも他には居ない筈だ。つい最近までマカニの嶺を越えることは禁じられていたから、此処迄飛んでくる者も居なかったのだ。
 少し前にレンたちがマカニの嶺を越えて海側へ行った時も、此方側ではなくもう少し東寄りの、気流が安定している経路を飛んだ。
 何れにせよ此処は、気流の関係でマカニ族が飛ぶことを嫌う場所に位置する為、訪れる者は皆無だと言って良かった。
 スグリならいずれ気がつくかもしれない。
 最近少しだけその可能性を考えることがあるが、相手がスグリならばそれも大きな問題ではない。
 森へ入ると、闇が更に一段濃くなる。
 聳え立つ樹々に触れながら慎重に歩みを進めると、丁度一部だけぽっかり木が無くなる空間が在る。そこだけ、空が見えるのだ。
 月が在れば月灯りが差し込むが、今日は新月だ。
 しかし、闇に慣れた目には星の明るい夜だった。
 エンジュがその樹々の天井の穴の真下に立ち空を見上げていると、やがて一羽の鴉がその穴を通って舞い降りた。
 ヤナギはエンジュが呼ばない限り滅多にエンジュの元を訪れる事は無かった。しかしこのモミジは呼びもしないのに、こうしてよくエンジュの元へやって来る。
 やっては来るが礼は忘れず、自ら一定以上の距離には近寄って来ないので、すっと片手を差し出してやる。そうすると、小さく羽ばたいたモミジはいったんエンジュの手首に止まり、そこから肩へと移動する。
 左の頬に、鴉の羽根のぬくもりを感じる。
 適度な重みが心地良かった。
 喉の辺りを撫でてやると、モミジはごろごろと小さく喉を鳴らした。
 その状態で再び空を眺める。
 此処は、深く昏い昏い湖の底だ…。
 エンジュは自分自身を確かめる為に時折此処を訪れる。
 幾重にも鎧を纏った自分の一番奥に在るもの。
 子供の頃から変わらない、自分の一番大切なもの。
 分厚い鎧の内側からであっても、仄かな輝きでエンジュの日々の判断を助けてくれるもの。直観のような、予感のような、そのような感覚を呼び出す根っこの何か。
 此の大切な存在を忘れてしまったから、自分は思い上がり、義務感と責任感だけを頼りに行動した結果、大きく愚かな過ちを犯したのだ。
 エンジュは、まだ幼かったカリンに出逢ってからそのことに気がついた。カリンはカリン自身のそれに未だ気がついてはいないが、感覚でそれを失ってはいけないと知っているように思えた。何よりカリンは、エンジュのように鎧を纏おうとはしない。
 少しだけ、空が明るくなったように思われる。やはり夏は日の出が早い。
 そろそろカエデが谷川の水を汲みに出かける頃だろう。その間に家へ戻らなければならない。
 万が一村人の目についても行き先を悟られぬよう、直接第五飛行台へは戻らず、訓練場を経由する。
 訓練場からは階段を下って歩くことにしていた。そうすれば、誰かに見咎められた際、訓練場まで上がってみたのだと言えば済む。
 モミジはその過程のどこかで、また気まぐれにエンジュの元を去って行くのだ。

 「よくお休みになれましたか?」
 朝食を食べながら尋ねるカエデに頷いて見せる。
 「既にホオズキからある程度話は聞いているかもしれないが、私の目からしか見えぬものもある故、少し城での話をしておこう。」
 「はい、よろしくお願い致します。」
 マカニへは昨日の午後戻ったが、不在の間にあったことの報告を受けているだけで時間が過ぎてしまった。夕食の際は、カエデが戻ったばかりのエンジュに気を遣い、ゆっくり話をすることはしなかったのだ。
 ワイに医院が設立されるかもしれないこと、アグィーラの医局で新薬の治験が始まったことなど、医師でもあるカエデに興味のある分野も多いだろうと思い、いつもより詳細に城での出来事を話して聞かせる。
 「そうですか。ワイに…。最近書簡の方は殆どホオズキさんにお任せしているのでワイにも随分行っておらず、気がつきませんでした。しかし、カリンが最近やけにワイからの薬の申請が多いのだと話していましたね。」
 「そう。それはこの下準備だったというわけだ。」
 ひやりとしたエリカの指先の感触を思い出す。
 生誕祭当日の朝エンジュの部屋を訪ねて来たエリカは、おもむろに左手でエンジュの顎先に触れると、挑戦的な微笑を浮かべて言った。
 『こんな早朝に突然訪ねて来たのに、少しは驚いたら?』
 『私は既に起きていました。誰かが私を訪ねてくることは特に驚くことではない。』
 『そう…。ねぇ、貴方は私がやることなんて自分には関係ないと思っているのでしょうね。マカニには、優秀な薬師殿と貴方の息子である医師が居るのですもの。昨日陛下が言ったとおり、マカニにはもう何年も前から、村の規模に応じたしっかりとした医療体制が組まれているのよね。』
 『私には私の、エリカ殿にはエリカ殿のやり方がある。それだけです。』
 エリカの表情がすっと冷たくなる。
 『…私ね、最近時々分からなくなるのよ。この貴方に対するどうしようもないくらいの忌々しい感情が、嫉妬なのかそれとも…。』
 『分らぬのならば、感情に名前を付ける必要などありませぬ。』
 エリカは自分の顔をぐっと近づけて鋭い視線でエンジュを見据えると、エンジュの顎に添えていた手を離した。す、とエリカの視線が外れる。
 『貴方、私が上皇陛下のことをどう思っているか知っている?』
 『朧げには理解できますが、私自身がその思いに名前を付けることはできませぬ。』
 『…本当に嫌だわ。やっぱり忌々しいというのが一番近いのかもしれない。それを、確かめに来たの。お邪魔したわね。』
 エリカが上皇に対して尊敬以上の感情を抱いていることは知っていた。しかしそれ自体はエンジュのあずかり知るところではない。万が一上皇がエリカと結託して国を傾けるようなことがあったら無視はできないが、上皇もエリカもそこまで愚かなようには思えない。
 目の前に、そっとカップが置かれる。
 カエデが茶のお代わりを注いだようだ。
 「…その他にも細々こまごまとは色々あった。やはり種族間の往き来が活発になってくると、他の種族の動向を知っておくことは必要かも知れぬな。」
 「どちらの族長様もそう感じておられるでしょうね。パキラ様とはお話しされましたか?私のことも、よく気にかけて下さいます。」
 「パキラは二晩とも部屋を訪ねてきて話をしていった。」
 「そうですか。…こんなことを言って良いのか分からないのですが、族長とパキラ様がお話しされていると、とても安心するのです。」
 「言って悪いことはあるまい。それに、その気持ちも理解できる。」
 パキラは全ての他人に対して一線を引いている。エンジュに対しても特別気を許しているようには思えない。しかしそれはエンジュも同じだ。
 互いが互いの一線を理解し、その上で対等に付き合える相手であることが信頼のようなものを生んでいるように思えた。
 カエデの立場からすると、マカニの中では族長という最も上の立場に居る父親に、そのような相手が居ることは喜ばしいことだろう。
 しかし…。
 最近パキラは、少しだけエンジュの一線の内側に踏み込もうとする瞬間がある。ただそれも、かつてエンジュが金色の馬を鎮める際にむ無くパキラの一線に踏み込んだことを思えば、仕方のないことなのかも知れなかった。

 シヴァには昨夜のうちにアグィーラでの話をしてあったので、今朝からは完全にいつも通りの朝だ。
 要領よく今日一日の体制と予定を説明するシヴァの話を聞きながら、シヴァは本当に良くできたリーダーだと改めて思う。おかげでエンジュは大まかな村の動きはあまり心配せずに済む。
 自分が戦士のリーダーであった頃は、族長に意見してばかりだった。
 先代は優秀な男だったが、しきたりを重んじ過ぎるきらいがあった。新たな規則を作るのも好きで、マカニには今とは比べ物にならない程の規則があった。エンジュはその場その場を見て臨機応変に行動することを好むので、とかく規則を犯しがちで、先代とはよくぶつかった。
 「エンジュ。お前を次の族長に任ずる。そんなに私の作った規則が気に入らぬのならば、お前のやり方で村を治めて見せよ。」
 エンジュがマカニの嶺を越えてはならぬというしきたりを破って海を渡ろうとしたことが知れた際、先代はとうとうそう言った。
 「先達たちが作ったしきたりも、私が作った規則も、マカニの村を守るためのものだ。それだけは理解しておけ。引継ぎ期間は一年。その間は私のやり方に従ってもらう。もう二度と、彼方側へ行ってはならぬ。良いな。」
 「何百年も前のマカニと、今のマカニは違います。世界は動いているのです。盲目的にしきたりを守れと言われても納得がいきませぬ。」
 「反対に言えば何百年もの間それを盲目的に守ってきたから今のマカニが在るのだ。」
 「その間に零れ落ちてしまった何かがあった場合にはどうするおつもりですか。」
 「仮令たとえそうであったとして、大きな問題にならなかったのだ。取るに足らないものだったのだろう。」
 一事が万事そのような感じだった。
 エンジュは最低限のものを残し、先代が作った多くの規則を廃止したが、先代は何も言わなかった。そして何も言わぬまま、族長を交代して数年後に逝った。エンジュのやり方を最終的にどう思っていたかは分からぬままだった。族長補佐をしていた妻にも何も語らなかったようだ。
 族長しか知ってはならぬとされていた秘密を、数名とはいえ他の村人に話したと言ったら、先代はどう反応するだろうか。
 しかし今後族長になる者のことを思うと、ひとりで抱える物は少ない方が良いだろうと思うのがエンジュの考えだ。また、族長が唯一絶対になることが無い方が良いとも思っている。シヴァとレンが居れば、今自分が不意に居なくなったとしても、おそらく村は問題なく周るだろう。

 夜の底から樹々の天井の穴の先の空を眺める。
 細い細い月が、皮肉な笑みを浮かべたように空に貼りついていた。
 今日はモミジも居ない。
 エンジュは幼い頃、魔物の存在が不思議で仕方がなかった。言い伝えでは、人が病に罹ることで身体を浄化するように、大地に悪いものが溜まると魔物を吐き出すのだという。それを人は魔物と呼び、実際に人に害を及ぼすので光の石でできた武器で浄化するのだが、それはある意味大地が人間に対して何らかの訴えをしているのだとは考えられないだろうか。それを、人間にとって不都合な部分に蓋をして「病のようなものだ」と片付けているようにしか思えなかったのだ。
 魔物に感情はあるのだろうか。
 興味に駆られて、敢えて魔物に触れようとしたことがある。
 それは見張りの戦士に発見されてすぐに阻止された。しかし発見した戦士は勘違いをし、エンジュは「魔物を恐れない勇敢な子供」として一目置かれるようになってしまった。
 レンよりは後だったが、当時にしては若いうちに訓練場へ通うようになり、程なく戦士になった。
 その間も魔物に触れてみたいという願望は消えず、とうとうその日がやってきた。まだ見習い戦士だった時代の非番の日だった。
 エンジュは偶々出かけた先で魔物の集団を発見した。マカニからはまだ距離があったため、見張りの戦士も気がついていない。
 魔物の集団の前に降りたつと、魔物は真っ直ぐにエンジュめがけて向かってきた。表情は無く、何の感情も感じられなかった。
 間もなく先頭の魔物がエンジュの前までやってきて手を振り上げる。エンジュはその手首を掴んだ。
 氷のように冷たいが、確かに実体があった。しかし殺意を含めた何の感情も感じられない。
 すぐに魔物は反対の手を同じように振り上げ、エンジュめがけて振り下ろした。
 敢えて躱さなかったエンジュの肩を、魔物の鋭い爪が切裂いた。
 そこまで確かめてからエンジュは空へ舞い上がり、弓を構えた。突然空へ飛んだエンジュに対して魔物は驚きの感情すら見せない。ひたすら空虚な眼でエンジュを見詰める。
 その魔物たちに向かって、エンジュは光の石でできた矢を次々と撃ち込んでいった。
 魔物はあっという間に姿を消したが、魔物に傷つけられた肩からは血が流れ、しっかりと痛みを感じた。
 その夜からエンジュは熱を出し、数日寝込んだ。
 それまでずっと身体が丈夫で大きな怪我も無かったエンジュであったので、周囲に随分心配されたが、わざと傷つけられてみたのだということは誰にも話さなかった。
 その間にエンジュは妙な確信のようなものを得た。
 傷自体は大した事は無かった。魔物の中に在る何かが、エンジュの中に流れ込んできたのだろう。その何かとは、大地が飲み込んだ言葉の塊なのだと。
 ずっと後になって、カリンを通して森の声を聴くようになってから、その確信は大きく間違っていないことを知った。
 大地は、森は、何も言わずにすべてを受け入れる。そして、人間の記憶を読む。その中には、人々が飲み込んだ言葉も溢れているのだろう。
 人々が飲み込んだ言葉は魔物を生む。だからエンジュは、大地に対して敬意を払うのは勿論のこと、村人がなるべく言葉を飲み込まずに済むよう手を尽くすようになった。
 しかしその為に自らが、随分分厚い鎧を何重にも身に着けていたのだということには、長い間気がつかなかった。
 自分はレンのように素直な気持ちでマカニの村を守りたいと思っていたわけではなく、守らなければならないという義務感だけを抱えていたのだということに。
 黒い影が静かに舞い降りる。
 「遅かったな。」
 エンジュはモミジに向かって話しかける。モミジは首を傾げてエンジュを見詰めた。いつものように手を差し出しても寄って来ない。
 「どうした?」
 手を降ろし、そっとモミジの方へ歩み寄ると、モミジの視線がエンジュの顔ではなく右肩を見詰めていることに気がついた。
 「お前には見えるのか?」
 右肩には、あの時の傷が小さく残っている。
 これまで魔物に傷つけられた者の中でそのようにいつまでも傷が残ったという話は聞いたことがない。金色の馬に大きく背中を傷つけられたカリンでさえも、綺麗に傷は癒えた。
 「これは私が解かねばならぬ謎のひとつだ。」
 ふと思いついて左手ではなく右手を差し出すと、モミジはいつものように手首に止まり、右肩まで移動した。そしてその場で蹲る。
 いつもは左の頬に感じるぬくもりを、右の肩に感じた。
 エンジュは左の手で、モミジの頭を撫でた。
 「私は大丈夫だ。あの時、気がつくことができたから。遅すぎるということはあるまい?」
 義務感を捨ててみたところで、結果的にやりたいこととそう違う訳でも無かったが、心持ちが随分と違った。
 柔軟な心の大切さはレンに教わった。鎧を纏っても纏わなくともそれぞれの苦しさがあるのだということはカリンに、人を信頼することの重みはシヴァに。
 そしてエンジュは、自分がエンジュというひとりの人間であることを、漸く思い出したのだった。
 樹々の天井の穴には嘲笑うような月の姿は消え、ほんのり白んだ空が見えた。
 今日も一日が始まる。
 この日一日を大切に生きよう。
 エンジュという、ひとりの人間として。
 自分の守りたいものは、その先に在る。


エンジュ by kaoRu IshjDha


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