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物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 1 スグリの話

-スグリ-

 開けてあった窓から心地良い初夏の風が入ってくる。
 まぶたの向こうに明るい光を感じながら、スグリは敢えて目を開けず、暫く夢とうつつの狭間を味わっていた。
 今日は非番だった。だから昨夜は久しぶりにポプラとふたりで酒を飲んだ。いや、久しぶりではなく、二人で飲むのは初めてだったかもしれない。
 子供の頃はよく一緒に遊んだが、大人になってからはめっきり疎遠になっていたからだ。
 戦士であるからには、夜中に呼び出されることも覚悟しなければならない。酒を飲む際にも酒に飲まれることは先ず無い。それでも、昨夜はいつもより沢山飲んだ実感があった。
 「別れの挨拶でもしに来たのかと思ったが、そうではないらしい。」
 工房の跡継ぎ騒動も交えつつ他愛のない話をしながら飲み、夜も深まった頃、ぽつりとポプラが言った。
 「はぁ?なんだそれは。」
 「お前が声を掛けてくるなんて滅多にないし、お前は、いつかこの村を出て行くんだと思っていた。最近法律も変わって種族間の行き来も活発になったようだし、いよいよかと思ってさ。」
 「そんな面倒なことするかよ。」
 笑って返しながら、スグリは内心驚いていた。
 凡そ他人に興味の無さそうだったポプラが、交わらなくなった自分のことをそんな風に気にして見ていたことと、見事に願望を言い当てられたことにである。おそらくシヴァにはばれているだろうと思ったが、まさかポプラにまでそう見抜かれていたとは思わなかった。
 「そうか。お前は面倒くさがり屋だったな。その面倒くさがり屋のお前が、こうして俺の心配をしてわざわざ誘ってくれたわけか。」
 「…別に心配したわけじゃないが、話くらい聞いてやろうかと思ってな。」
 「それは有り難いな。」
 「感謝するならレンにしろよ。俺はいつか、お前の造った翼で飛んでみたいと思っているんだ。」
 「…それは、何より有難い言葉だ。」
 ポプラはスグリの父親の話には触れず、素直にそう答えた。
 その後はまた他愛のない話に戻り、暫く飲んだ後、スグリはポプラの工房を後にした。星の綺麗な夜だった。そのまま瞼に残っていた星の光は、少しずつ朝の光に溶けていった。

 フライパンでパンを焼く。昨日の帰り、ポプラに持たされたパンだ。レンの実家の食堂で出しているもので、つまみのひとつにと買い込んできたのが余ったのだ。
 別々に焼こうと思っていた卵とハムも、面倒くさくなって隣で焼いた。卵の白身がパンの側面と融合する。卵の周りにかけるつもりだったオリーブオイルが僅かにパンに零れたが気にしない。独り暮らしは気楽だ。大抵このフライパンひとつで、食事の準備は事足りた。
 寝起きにはグラス一杯の水。朝食の際は大抵ミルクだ。
 スグリの家は、東の森へ上がる階段の近くに在る。あまり往来の激しくない場所だ。更に人目のつかない山側に小さなテラスがあり、天気の良い日はたまに外で朝食を食べる。餌をやるわけでもないのに、テラスの手すりに鳥がやってきて、じっとスグリを見詰める。運が良ければ鳥の声を聴きながら朝食にありつくことができる。
 スグリにとって、鳥は昔から身近な存在だった。何か話しかけているようなのに、言葉が理解できないのがいい。自分が話しかける言葉も、きっと鳥たちには同じように聞こえているだろう。会話をしているわけではない。お互い、自分が好きな時に声を出すだけだ。それなのに、何となく考えていることが分かるような気がした。
 言葉が理解できるのに、考えていることが理解できない人間たちよりも、よっぽど近しい。自分の気が済むと、さっと飛んで行ってしまうところも好もしかった。
 「ちょっと旅に出ようかと思ってたんだ。」
 スグリは卵とハムを載せたパンをひと口齧って目の前の鳥に向かって呟いた。鳥はしきりに首を振って羽繕いをしている。
 「でも止めた。…雲海って見たことあるか?あの雲の海を見ていたら、なんだか結局どこまで行っても満足できない気がしたんだ。そしたら全部面倒になった。原因は、多分俺自身の中に在るんだと、解りたくもないようなことが解っちまった。まあ、当分は諦めて此処に居るさ。…此処も、最近はそんなに悪くない。」
 そこまで話し、残りのパンを黙々と食べ、ミルクを飲んだ。
 手すりに止まっているのと同じ種の鳥がもう一羽やってきた。口に細い木の枝を加えている。その先に、ラズベリーがぶら下がっていた。おそらくつがいであろう二羽の鳥たちは、仲良くラズベリーをつつき終わると、東の森の方へと飛んで行った。
 その姿を見送りながら、今日は東の森にでも行ってみるかと思い立つ。非番の日はほとんど外に出ずに過ごすのだが、何となくベリーが食べたくなったのだ。グースベリーにはまだ少し早いが、ラズベリーはもう成っているらしい。


 東の森へ上がる階段の途中にある第七飛行台は、スグリの家の最寄りの飛行台だ。スグリは毎朝ここの飛行台から訓練場へと飛ぶが、その先の東の森まで上がってみることは滅多にない。第七飛行台からは、訓練場の上空を飛ぶ仲間たちの姿が見えた。中でもシヴァの赤い翼と、レンの藍色の翼は良く目立つ。暫くそれを眺めてから残りの階段を上がると、森の入口付近でカリンに出会った。手にはラズベリーでいっぱいの籠を抱えている。
 「おはよう。スグリさんが森へ来るなんて珍しいね。今日は非番?」
 「珍しいだろう。俺もそう思う。まさにそれを摘みに来たんだ。急に食べたくなった。気まぐれだよ。」
 カリンはスグリの指差した籠を見下ろし、少し持っていく?と尋ねる。スグリは首を振った。
 「折角来たから少しのんびりしていくことにする。まさか全部摘んでしまったわけではないだろう?それは、食堂へ持っていくのか?」
 「ほとんどはそう。自分たち用にも少し貰うけれど。この時期はラズベリー、もう少ししたらグースベリーとブルーベリー。大好きなベリーのジュースの季節だわ。」
 カリンは幸せそうに微笑む。
 「お前はマカニが好きなんだな。」
 「好きよ。大好き。」
 「マカニの、何処が一番好きなんだ?」
 「うーん。全部好きだけれど、やっぱりこの自然かな。アグィーラには町も森もあるし、エルアグアも豊かな土地だけれど、どちらもどことなく人間のために作り整えられた自然のように感じる。アグィーラには実際、森を管理する人たちが居るし。あ、アルカンの中の森は別よ?」
 「マカニだって、山の中に村を作ってるぞ。」
 「それはそうなのだけれど、マカニは上手く自然と共存している。人間は、必要以上に自然を搾取していない。…森がそう言ってる。」
 「なるほどな。」
 「アルカンの中の森に似ているの。あそこは反対に人間はほとんど入れなくて、森そのものなのだけれど。だから、マカニに居ると落ち着くのね。そして、そういう風に暮らしてきたマカニの人たちの民族性が、やっぱり私は大好きなの。」
 「最初から中に居ると、よく分からないのかもしれないな。」
 「勿論個々の人間性は色々あるよ?私はアグィーラのお城に居場所はないって思って暮らしていたけれど、それは自分の問題だった。今は、お城の中にも大好きな人たちは沢山居て、時々アグィーラへ行って皆に会うのは嬉しいと思えるようになった。」
 そう言ってカリンは突然あっと声を上げた。
 「どうした?」
 「そろそろ行かなきゃ。診療所へ戻るのがあまり遅くなったらカエデさんが心配する。」
 「ああ、すまない。邪魔したな。」
 「邪魔じゃないよ。意外な場所でスグリさんとお話しできて良かった。楽しい一日になりそう。スグリさんは、今日はゆっくりしてね。」
 手を振り軽やかに階段を駆け下りて行く銀髪の後ろ姿を見送ってから、スグリは森の奥へと目を向ける。
 そこは、初夏の若い緑の色彩に溢れていた。明るい緑色の翼は、マカニ族の翼の中で一番人気のある色だ。先程遠くに見た仲間たちの翼にも、圧倒的に明るい緑が多い。
 ポプラの父親であるカタクリの工房では、その明るい緑色の翼を量産している。以前は、マカニ族の翼は本物の鳥の羽根だけで造られていた。カタクリの工房が大きくなった一番の理由は、本物に近い人工の鳥の羽根を開発したことだ。スグリの母親はカタクリの工房に勤める採羽師さいうしだったが、鳥の羽根を集める為に旅に出ることは少なくなり、今は主にその人工の羽根を造る仕事をしている。
 スグリはちらりと自分の翼を見やる。新緑の緑とは異なる深い深い緑色。これは、スグリの父親の、カタクリの工房に対する対抗心の表れだ。
 暫く歩くと、小さな広場のような場所に出た。中央に、他に比べて大きな杉の木が在る。これが、カリンの言うところの東の森の主だろう。勿論スグリにとっては、森の一部でしかない。いつか聴いたアルカンの森の主の声のように、声が聞こえるわけでもない。
 それでもなんとなく、スグリはその大きな木に近づき、その根元に腰を下ろした。当初の目的だったベリーは、少し離れたところで赤い実をつけているのが目に入る。
 先程カリンと交わした会話が頭を巡る。
 スグリも、マカニの自然が嫌いなわけではない。季節ごとに様々な顔を見せてくれる自然は、見飽きることがない。それでも、山を越えて海を見たり、ラプラヤの砂漠やフエゴの火山を目にしたりすると、自分は何と小さな世界で生きて来たのかと思う。
 かといって、先日の雲海のようなものを見せつけられると、まだまだ知らないマカニがあるのだとも思う。
 個々の人間性は色々。カリンはそうも言っていた。それも分かるような気がする。ただ、自分にとってマカニの村には、既にしがらみが多すぎるのだ。それが、どうにも窮屈に感じる。
 翼を変えたら、少し身軽になるだろうか…。
 父親の意地を詰め込んだ翼。それを背負って飛ぶことは、重い荷を背負って飛んでいるようなものだった。
 しかし、他の人の造った翼を使うことで起きる様々な軋轢あつれきを思うとげんなりし、言い出すことすら億劫になる。
 せめて色だけでも変えてもらおうか。
 そう考えてスグリは笑いを漏らした。
 何色なら自分は満足するのだろう。この深緑色以外なら何色でも?いっそ明るい緑にするか…。
 上を見上げると、東の森の主の深い深い緑色の葉が目に入った。
 「スグリさんの翼の色、好きよ。古い森のような色で、見ていると落ち着く。」
 いつだったかカリンがそう言っていた。確かにこれは、古い森の色だ。一度だけ見たアルカンの森の主の葉も似たような色をしていた。
 先程漏らした笑いは少しずつ大きくなり、ついにスグリはひとり大笑いする。その声が、小さな木のドームに響き渡った。
 「馬鹿馬鹿しい。」
 反抗心や対抗心は目を曇らせる。
 カタクリに対抗して、スグリの翼に自分の意地を詰め込んだ父親。その父親の意地を一緒に背負うことが嫌で、本当は好きだった深緑色さえ嫌悪していた自分。
 同じじゃないか。
 自分が村人たちに感じているしがらみも、結局のところ、父親の眼を通して見ていたものなのかもしれない。
 ふと、レンの緑色の瞳が浮かぶ。翠玉のような澄んだ緑色。
 あの瞳は、このマカニの中に在ってさえ、いつも真っ直ぐにありのままだけを見詰めている。自分のように、変に何かに対抗して自分を歪めたりしない。

 どのくらい時間が経ったのだろう。空腹を感じてスグリは立ち上がる。
 もう、ひる過ぎなのかもしれない。
 予定通りにベリーを摘み、昼はフライパンで肉を焼こう。肉屋の隣は青物屋だ。生で食べられる野菜と、まだ残っているパンを添えれば立派過ぎる程の昼食になる。
 森を出てゆっくりと階段を下る。
 普段ならば第七飛行台から第二飛行台まで飛ぶのだが、スグリはそのまま歩くことにした。
 午前中にカリンが駆け下りただろう坂道といくつもの階段を、のんびり歩きながら村を眺める。
 珍しく歩いているスグリを見かけた村人が声を掛けてくるのに、いちいち「気まぐれだ」と答えながら、それでも歩き続けた。
 族長の家の近くでカエデとすれ違う。余計なことを尋ねないカエデとは、普通に挨拶を交わした。カエデが族長の家に戻る時間ということは、やはり午過ぎなのだろう。
 スグリの好みを知っている肉屋も青物屋も、勝手に今日のお勧めを教えてくれるので、それをそのまま包んでもらう。世間話が好きではないことも知られているので、買い物はあっという間に終わった。
 帰りはさすがに第二飛行台から飛ぶことにする。
 太陽はほぼ真上にあって、うっかりすると目が眩みそうだった。先程歩いて下った道が白っぽく光って見える。
 悪くないな。
 そう思っている自分に、自分自身で驚いた。
 シヴァのためにマカニに残っているのだと、自分に言い聞かせていた。レンが成長して、そろそろいいんじゃないかと感じた。だから、旅に出ようと思った。しかしそれは、そもそも単純に父親への反抗でしかなかったのだ。
 真っ新な気持ちで眺めたマカニは、カリンの言うように確かに美しかった。自らの翼の色も、おそらく今後ポプラに翼を造ってもらうことになったとしても、同じ色を選ぶのではないかと思う。
 マカニを曇った景色に見せていたのは、自らの曇った眼だった。
 昼食を食べて、午後はのんびり地図でも眺めよう。
 地図を眺めるのは昔から好きだった。母親が採羽師だったので、小さい頃から家には詳細な地図が沢山あったのだ。
 きっとそのうち眠くなり、午睡をすることになるだろう。
 「悪くない。」
 今度は声に出して呟いた。
 小さな鳥が一羽、スグリの近くを飛んでいた。今の呟きは聞こえただろうか。
 スグリはいつも鳥たちがやるように、それ以上その鳥に構うことなく、自らの目指す自分の巣に向かって、高度を下げた。



『スグリ』by KaoRu IshjDha


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