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大切なことは、「あなたに伝えたい」という意思をもって伝えたい。

少し前の記事で、わたしにとって一番大切なことや、その「大切」を表現、共有するためにnoteを書くのだ、と書いた。

でもそういうことを身近な人に伝えることができなくてもやもやしていたとき。ある先輩がくれた言葉。


「言わなくてもいいんじゃない?大切なことだからこそ、伝える相手を選ぶ権利がなっちゃんにはあると思う。」

……!
言わないも、ありなのか。

立ち止まって、もやもやを整理してみた。



どうやら
「わかってもらえないような気がするし、否定されるの怖いから言いたくないな〜」と思う自分と、
よく考えてみたらなんでかわからないけどなぜか「言わなきゃ、、」と思っている自分

2つの自分の戦いが、もやもやをつくっているらしい。

この、「言わなきゃ」ってなんだろう。
引っかかって、考えてみる。

絶対言わなきゃいけない理由は特にない。
そりゃあそうだ。わたしの想いを知らないと困る人なんてそうそういないのだから。

でもわたしの中にたしかにある、「言わなきゃ」という気持ち。
なんでだろうと探り続けていると、「伝えない」を選択したときに失うものが、ひとつだけあった。


それは、理解してもらえないこと、認めてもらえないこと。


「言わなきゃ…でも言えない」というもやもやは、ぼんやりといろんな人に対して感じていたけれど、そのほとんどが、身近でよく関わる年上の人、上司的な存在の人だった。


そういう人に、わたしが何を大切にしているのか知ってもらえないこと、「なんにも頑張ってない子」として見られることが怖かったんだ。

相手が上、じぶんが下でジャッジされる側という前提を知らないうちにつくりあげてしまっていた。
そしてジャッジされるなら、「誰からも認められなければ」とも思っていた。

だから、「上の人」に認めてもらうために「言わやきゃ」と思っていたし、
「上の人」に否定されるのが怖いから、「言いたくない」とも思っていたんだと思う。




どっちにしても、すごく消極的だ。
気づけた今、そんな「伝える」は手放していきたいと思う。

とはいえ、他人のジャッジを恐れる気持ちなんて長年の癖であって、今すぐ克服するのは無理だと思う。
自分が一番大切に思っていることを否定されるのはやっぱり怖いし、noteだってぎりぎりの勇気でやっている。

誰にでも堂々と、じぶんの信じることや大切なものを主張できたらかっこいいけど、
今のわたしにはまだ先の話だ。


そんな今のわたしにもできる一歩はなんだろうと考えたとき、伝える相手をきちんと選んでいくことだと思った。

伝える相手を選ぶなんて、一見上から目線で排他的で、それこそ消極的にみえるかもしれない。

でも、そうではないと思う。
勝手にジャッジをくだされる側になって、否定されることに怯えながら誰からも評価されようとしているとき、そこにあるのはすべて自分への矢印だ。
だけどそこに、「あなたに伝えたい」という意思があれば、それは相手に向けられた矢印なんじゃないかなと思う。

「だれかに伝えたい。認めてほしい。」
人間として自然で、あっていいものだけれど究極は、「じぶんのため」である気持ち。

だからこそ、伝える先、受け取ってくれる相手に対して唯一もてる誠実さとして、「あなたに伝えたい」というまっすぐな気持ちだけはもっていたいと思う。

「だれに伝えたいか」からちゃんとじぶんで選択することは、じぶんの人生をまっとうするための権利でもあるし、相手と誠実に向き合うために欠かせない義務でもある気がした。


同じ匂いを感じる、共感してくれそうな人でもいいし、
「わかってもらえないかもしれないけど、この人には知っていてほしい」と思うような人でもいい。

今のわたしが大切に思っていることや、そのために全力を注いでいることを「ほんとうに伝えたい人」をじぶんの意思でちゃんと選ぶ

そして誤魔化したり嘘をついたりしないで、
まっすぐ丁寧に伝える。

そうすればきっと少しずつ、居場所は広がっていく。

そうしてちょっとずつ強くなっていった先で自然と、向き合える人、伝えたいと思える人が増えていたらいいなと思う。



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