"間違えたかも不安"との付き合い方。大事にしている2つのこと。
たとえば、何かの集まりに途中参加した時。
何気なく発したつもりの質問への答えがなんとなくおざなりで、「ちょっとそれ違うんだよなあ。」「さっき終わったし。」そんな空気を感じることがある。
これはほんの一例だけど、日々過ごしている中で、他者や場との「ズレ」を感じたとき、考える間もなく反射的に「間違えてしまった」とか「うまく合わせなきゃ」と思ってしまう。
そういう人、少なくないんじゃないかと思います。
一見普通に笑っていて、普通にしゃべっていても、心の中では一生懸命どう挽回するかを考えていたりする。
この「間違えた」という感覚は、結構昔から自分の中にあった気がする。でも最近は、その"間違えたかも不安"との付き合い方が少し上手くなってきたと思う。いろいろと向き合ってきた中で大事にするようになった気づきを2つ書きます。
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①うまくいかないのは、"今ここ"の、"その人"との関わり。
間違えてしまったと感じた時、居心地が悪い時はまず、大好きな親友といる時の自分や、家でのんびり家族と雑談してる時の自分を思い浮かべてみる。
そこにいるのは、思ったことをそのまんま話して、笑いたいように笑う、いつも通りの自然な自分。
今「間違えた」と感じた自分のままでも、何も改善しなくても、自然に笑い合える場もあるのだ。
それなら、「わたしはコミュニケーションが下手なのかも」、「周りの人を不快にさせるような性格なのかも」と自分「そのもの」を否定したり、「自分が間違っている」という前提で改善点を探したりする必要はないんじゃないか。
うまくいっていないのは「今ここ」の「その人(たち)」との関わり。これがすべてじゃないという認識をもつ。
そうすることで、
今ここの場において、どうしようかという必要最低限のサイズ感で考えるられたり、
そこまでフィットする必要はないと判断すれば、まあいっかと手放してみたり。
自分を苦しめずに、対応できると感じています。
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②そもそも、違うだけ。間違ってない。
間違えるって、当たり前だけど、正解があるから起こることだ。
正解は誰がつくっているかってすごく難しい問題だけど、自分でつくり出している面が大きい時と、場が正解をもっている時、両方ある気がする。
-場が「正解」をもっているとき。
ちょっときつい表現だけど、そこで求められているのは、わたし・あなたという存在そのものじゃないのだと思う。"楽しい雰囲気"とか、"イケてるノリ"とか、そういう空気を演出することが一番の目的になっている。
そのことを認める勇気さえ持てれば、頑張っても仕方ないなぁと割り切ってしまえるので、この場合についてはどんどん気にならなくなって来たし、そういう場からはだんだん遠ざかって来た気がする。
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-自分で正解をつくり出しているときはというと。
自分の中に、
みんなが求めているもの=正解
それから外れる=間違い
という縛りがあって、
今の会話はこう返すべきだったかな、さっきのあの言い方よくなかったかな、、と間違い探しが止まらなくなることが多い。
でもほんとうは、「ただ、違う」それだけなんだと思う。
たしかに相手やその場が求めているものとは違ったかもしれない。でもだからといって、間違えたわけじゃない。
他人とのズレを気にしやすいからこそ、
「違ったかもね。でも大丈夫、違って当然。間違えたわけじゃない。」と常々自分に言い聞かせるようにしています。
基本は、違ってもいいという姿勢。
本当にすり合わせが必要なときは、読み取ろうとするのではなく、相手の口からきちんと、本当の相手の正解を伝えてもらうことが必要なのだろうな(練習中)と思う。
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こんな感じで、''間違えたかも不安"と付き合っています。気をつけていくうちに、囚われにくくなってきた実感もあるので、探究と練習、続けていこうと思います!
誰かの何かにちょっとでも役立ったら嬉しいなあ…🌱
最後まで読んでくださった方いたら、ありがとうございました!
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