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オウム真理教は実は正しかった?

 福島で処理水を薄めて海に流すことがはじまった。
 結論からいうと僕は、原発は将来にわたって廃止していくしかないが、今回の処理水の問題は致し方ないと思っている。このままあそこに無限にタンクをつくるわけにもいかないし、薄めて海に流すことに科学的な問題はないらしいじゃないか。(そうじゃないという意見があるのは知っているが)
 問題はこの処理水の計画を30年以上もかけて完遂できるのかということと、原発政策は廃炉に向かっているのか?ということを不安視して、一連の構造全体に対して不信感を持っている人が多いことで、基本的に僕も同じ意見だ。

 今の社会はとにかく情報が過剰だ。個人で正しく処理、判断できる人間なんていないだろう。国などが何らかの教育プログラムを用意しても、追いつかないし、そもそも発信元である国や政府それ自体を疑えば意味がない。
 本来ならマスコミがその役目を担わなければならないのだろうが、政府との関係、業界内での横並びの問題、マスコミ各社が垂直統合の体系であることなどから、それもできそうにない。

 意見が別れるような意見に対しての代表的な考え方として、科学的方法に基づく批判的思考と検証可能性がある。ようは科学的に考えて決めればよくない?というものだ。僕はこの考えに基本的に賛同している。
 とはいえ、これもそう簡単に話が進むとは思えない。僕たちがコロナ禍で目にしたのは科学的な根拠や何らかのデータがあると主張する多くの真偽不明な発信だった。

 30年ちかく前、阪神大震災は人工地震だといっていたオウム真理教を僕たちは笑っていた。しかし最近は、東日本大震災での人工地震説、DSの陰謀(オウム真理教もアメリカが毒ガスを散布していたと主張していた)などの陰謀論が多く出回り、「オウム真理教は実は正しかった?」という意見もネットではちらほら目にするようになった。

 何をどうしても意見の違いは乗り越えられない雰囲気だ。今回の処理水の意見の違いもそうなのかもしれない。
 コロナ禍で社会に混乱や不信をもたらす陰謀論の実態と背景に迫るシンポジウム「虚実のはざま」(読売新聞主催)というイベントがあった。そこで語られたことによると、陰謀論にはまるのは孤立しているようにみえる人たちが多いらしい。かつてオウム真理教はそうだったし、最近では安倍元首相を暗殺した山上容疑者もそうだろう。そう考えると科学的な根拠を持つことにやっきになるよりも、意見が違う人と話すことのほうがずっと大事じゃないだろうか。

 最後に、科学的方法に基づく批判的思考と検証可能性が必要であると主張したのはカール・ポパーという人らしくて、その考えは、近代科学を生み出し、自由な思想の検閲や弾圧に対する戦いの根拠になり、個人主義、人間の尊厳、教育の機会均等などにもつながったと言われているんだって。


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