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文章を書くことは文脈を作ること


書く筋肉


今朝は妙に早く起きた。

土曜日で休みだけど二度寝しそうな気配もないので、朝ランをしてちょっとしたモヤモヤを吹き飛ばした。ランが終わってもまだ7時台だったのでこの時間に空いている喫茶店へ。

アイスコーヒーを飲みながら新聞を眺めているとこんな言葉が目に飛び込んできた。ちなみに朝日新聞の折々の言葉。

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緊急事態宣言が解除された5月最終週、いろいろ節目な週になりそうだなと思って今週は毎日noteを書いた。誰かに頼まれたわけでもなく自発的に。すると何かしら言葉を探す日々になった。

走りながら何か書くネタがないかを考えていたし、走り切ったらとびっきり面白いことが書けるのではないかと浅はかな自分に打ちのめされたりした。皿を洗いながら、洗い終わったら自分の脳もきれいさっぱり洗い流されていい文章が思い浮かぶのではないかと勝手に期待していたりした。もちろんそんな奇跡は起きない。

でも7日間続けることで書く筋肉は付いてきたように思う。何事も継続がチカラになるのは確かだ。


書くことで日という点が線に繋がる。


これはノンフィクション作家の柳田邦男さんの言葉だが、7日間noteを続けていなかったら、私はこの文章に何の感情も持たなかっただろう。

国語辞典によると文脈とは下記の意味だそうだ。

1 .文章の流れの中にある意味内容のつながりぐあい。多くは、文と文の論理的関係、語と語の意味的関連の中にある。文章の筋道。文の脈絡。コンテクスト。「文脈で語の意味も変わる」「文脈をたどる」
2 .一般に、物事の筋道。また、物事の背景。「政治改革の文脈でながめると」

日々書くことで繋がりが生まれる。毎日が繋がれば何かしらのヒントが生まれるかもしれない。少なとも日々の点が線になっていくのであれば書く意味は絶対にあるはずだ。

また明日も書くかどうかは分からないけど、線になることは覚えておきたい。その線はいつか立体になるかもしれない。

何よりも書くことを恐れないようにしたい、仮に自分の書いたことが否定されても、それは自分が否定されたわけではないと言い聞かせたい、何度も。


書いた文章の否定は自分の否定では決してない。


今週書いた「資料作成」の記事で追加で書きたそうと思ったのをここで書く。作った資料の他者のチェック、会社ではレビューと呼ぶのだけどそこでの指摘はあくまで資料の改善であって、書き手である私への否定ではない。

どうしても否定=自己否定と捉えてしまう自分をどうにかしたいと思っているのだけど、どうしてもできない。だからここに書くことで明日への自分に繋げたいと思う。もちろん指摘のないアウトプットを目指すのは言うまでもないのだけど。

書くことでまた明日に繋がればいいな。ちょうど新聞を読んでいたら  #キナリ杯  なるものをやっているのを知ったので応募してみる。何事も参加しなければ線には繋がらないだろう。もっとおもろなりた~い。おもろ人間に繋がるためにもまた懲りずに書こうと思う。


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