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自分のSNSを耕すという発想

居心地の良いSNSとは?


私がSNSを始めたのはきっかけはmixi。

ちょうど大学を卒業したタイミングに、「マイミク」=学生時代の仲間向けに近況報告として日々日記を綴っていた。知った顔だからこそコメントも心地よかったし、仮に嫌味を言われても友達承認したマイミクだからこそ炎上はなかったのだと思う。

なによりもmixiの機能である「あしあと」という表現が私は好きだった。アクセスしてきた結果である「ログ」を「あしあと」と表現するセンス。インプレッション、セッション、クリック、、、にはない温もりの響きがある。

そんな心地よいSNSは今失われつつある。SNSが日常になっているからこその心地良さが大事なはずなのになぜだろう。企業がSNSを使いこなし始めたからだろうか。広告がウザいからだろうか。

SNS疲れという表現は定着してきたからこその恩恵だと思うが、やっぱりSNSは楽しくあってほしいと思う。

今、自分にとって心地よいSNSはFacebook


今、当時のmixiの日記のような想いを綴れる場はFacebook。幸いにもほぼ会ったことのある知り合いのみを友だち承認してきたので、日々の悩みだったり思ったことを表現できる場になっている。例えば子どもの障害なんかも会ったこともない友だち向けには決して書けないし、おそらく批判されることもあっただろう。

例えば最近だとこんなことを書いていたりする。

とあるスーパーにて。
キャベツを選んでいたら(1玉95円!)、「こっちの方が大きいですよ」と話しかけられた。
優しい店員さんだなぁと思って、振り返ると普通のおじさんだった。他よりも小さいの手に取ろうとした私に思わず声をかけたくなったのだろう。
ちなみに私はこんなカンジで結構ヒトに話しかけられる。しかめっ面してキャベツを選んでいたら、きっと話しかけられることはないのだろう。
話しかけやすい顔というのもあるのだろうけど、声をかけやすい状態であるのは精神的にも大事なことかもなと思ったり。
おじさまに選んでもらったキャベツ、大切に美味しくいただこうと思います。こういうお店での何気ない会話ってAmazonではできないよなぁと思ったり、お店でモノを買う価値を改めて感じた日曜なのでした。
今日は長男と次男で近所の二郎に行ったんだけど
(もちろん子どものリクエストで)我が家のような家族連れがいたのにびっくり!もちろんカウンターしかないラーメン屋ですよ。
見回すとカップルは当たり前、女性ひとりも居る、もう二郎は「野郎が食べるエサ」じゃないんだなと(表現悪くてスイマセン)。
極め付けは店員さんからの「お父さんはニンニク入れます?」の一言。二郎の店員さんに「お父さん」と呼ばれる日が来るとはww
今の日本人に必要なのはニンニクかも?と思った花の金曜なのでした


わざわざTwitterで何回かに分けて書くことでもないし、Twitterだったら盛って表現しているだろう。かといってnoteで書くには内容が短すぎる。

何気ない日常の気づきだったり、結論のない言葉を綴れる場は自分にとっては貴重な場。それがひとによっては喫茶店での他愛のないおしゃべりかもしれない、独り言でも良い。私にとって他愛のないことを書く場が必要なのだ。

他愛のないことを書く発散の場


Instagramで投稿するにしてもどうしても「盛る」や「映え」を気にしなくてはいけない。非日常が気軽に表現できるのもSNSの良さでもあるのだろうけど、やはりそれはそれで窮屈だ。日々、盛っている自分を好きになれたらいいのだけど、承認欲求だけのためのSNSはツマラナイと思う。


Facebookはオワコンという話もチラホラ聞くが、少なくとも私にとってFacebookは背伸びをしなくて済むコミュニティだ。TwitterやInstagramのように「いいね!」がどれだけ付いたかを気にしなくてよいSNSは自然体でいられる。


バズる、インフルエンサー、話題の〇〇といった世間にどれだけ承認されたかを競うのではなく、自分にとって心地よいSNSを耕しておく必要があるのだと思う。

わざわざ自分でSNSを耕すというのも面倒だが、手間暇をかけた分、それなりの収穫はあるはず。ときには収穫が少なかったり、実りも悪いときもあるだろう。表現を生業にもしているのならば尚更、自分のメディアを耕し続けることが大事。

今、友だちに会うことさえままならない中、SNSでコメントしてくれる友を大事にしていきたいものです。日々心通じる繋がりを切らさないためにSNSのポジティブな部分を活かしたい。

スターバックスが提唱するサードプレイスならぬサードSNSを考えてもよいかと。思いつかないのであればネガティブも増幅されてしまうSNSとはきっぱりお別れした方が良いのかもしれません。

言葉は検索や拡散のために存在しない


自分の言葉は検索されるためでも、拡散されるためにあるわけではありません。自分の言葉は未来の自分に向けて表現したいなと思います。



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