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笑顔で学校に行けるまで[海外育児]

日本から渡米三週間ごろのある朝。
「恐竜のパジャマまだ届かない?」
こちらに来てから毎晩寝るときにそれを聞いて泣く次男が起きてすぐにまた聞いてきた。
アメリカの会社は朝が早い。七時には会社に着くように夫がガレージを開ける音で目が覚めたらしい。
「船便に乗せちゃったからまだまだ届かないの。ごめんね」
何十回目かになるその台詞を聞くと、それを待っていたかのように大声で泣き始める次男。
「なんでー。うぇーん。」
三歳のなぜなぜ期での渡米なので、こんなときにも「なんで」を連発する。
次男のことはひとまず放って、静かにしている長男の方へ向かう。
日本で住んでいた団地の軽く十倍はありそうな戸建に引っ越してきたから、子どもたちに家の各所から呼ばれるたびに踏む歩数も十倍に跳ね上がった。私にとっては良い運動になるかも。
「どう?」
なるべく、学校、とか、英語、とか、気に触れそうなフレーズは使わないようにする。
「うん……朝ごはん何?」
七歳になる長男は我慢強く弱音を吐かないが、それは決して問題ないということではない。かつて入園してしばらく、夕方になると幼稚園に行くことを思い出して吐いていた姿を思い出す。
長男に聞かれ、ハッとする。
タイマーでセットしておいたはずのホームベーカリーからパンの匂いがしてきていない。慌てて長い導線の先にある、使い慣れないキッチンに変圧器を通して設置したホームベーカリーの蓋を開ける。
「しまった・・・」
そこには香ばしい匂いの、ただ加熱されただけの小麦粉。昨夜三男をあやしながら計量していたので、何か間違えていたのだろう。
スクールバスが来るまであと40分。米を炊くには間に合わない。憧れていたパントリーのある生活になったというのに、まだ買い物に慣れなくて、そこには日本から持ってきた茅乃舎の出汁パックが転がっているだけ。冷蔵庫に目を移す。そうだ、ホットケーキなら作れる。
急いで卵を割り、牛乳と小麦粉を混ぜてホットケーキを焼く準備をする。
甘めにしよう。砂糖をざざっと振り入れる。

長男からもっと話を聞き出してあげないと。泣きすぎて泣き止めなくなっている次男を宥めに行かないと。あれ、三男はどうしているんだっけ。
ボウルを片手にふとキッチンから廊下の向こうへ首を出すと、廊下の端にあるトイレの前で、うんちのついたオムツを自分で脱ごうとしてうんちまみれになっている一歳の三男の姿が目に入った。
ボウルを置き、フライパンの火を消して、一秒でも早く事態を収束させようと自分も一瞬でエプロンと服を脱ぎ捨て、汚れた三男をシャワーへ連れて行く。
Amazonで伸ばせるシャワーヘッドを頼んでいるのにまだ届いていないんだった。何日もDelayという文字がアプリに表示されたまま。壁に取り付け式の、水圧の弱いシャワーでなんとか三男を洗う。
素早く廊下を掃除して三男に服を着せると、長男と次男が口喧嘩をしている。
二人が喧嘩をするのは大抵お腹が空いたとき。
口論を止めるよりホットケーキが先だ。
再びコンロの火をつけて生地を流し入れる。
生地をひっくり返すまでの間に、長男と学校の持ち物を確認する。
アメリカの学校に持ち物はほとんどない。水筒に水を入れていくくらいだ。だからこれは、持ち物に問題はないよと言い聞かせる儀式。
焼き上がったホットケーキをお皿に乗せて、買っておいたフルーツを添える。アメリカはブルーベリーや葡萄が安いから嬉しい。
コーヒーが欲しいところだが、時間がないのでお湯を入れたカップで手を温めながら、ホットケーキを次々に焼き上げて子どもたちの前に置く。

「休み時間は遊べている?」
ベーキングパウダーがまだ買えていなくて、薄っぺらいホットケーキだったが、それでもお腹が満たされてやっと落ち着いてきていた長男の顔が再び曇る。三週間前まではケイドロ命で、校庭を駆け回っていた子だ。
「ケイドロは、Cops and Robbersだよ。鬼ごっこは、Tagだよ。タッチするときにtagって言うんだよ。itっていうのが、鬼だよ」
私は真剣に教える。 
「勉強はできなくていい。鬼ごっこにとにかく入ってごらん。氷おにの時は、freezeって言うよ。Wanna〜って言われたら、誘ってもらってるってことだから、わからなくてもYeahって言うんだよ。ほら、Yeah言ってごらん」
学校では何をおいてもまずは友達と遊べるようになること。私の謎の信念で、彼らに遊び言葉をできるだけ、教え込む。
「先生に伝えてほしいことはある?」
少し考えて、長男は言う。
「算数はわかるのに文章問題だと読めないから解けない。それから、みんなで朗読している本がどんな話なのか本当は知りたい」
「わかった。先生に聞いておく」
日中に育児の合間を縫って、先生に学校でのプリントやノートを持ち帰れるか尋ねるメールを送ることにする。私の英語力には凸凹があり、会話はできても親の立場で学校の先生に送るメール文面は簡単には出てこない。Googleで調べながら書かなきゃ。朗読している本のタイトルを聞いて、日本語で見られる動画などがないか探してみよう。学校に行きたくないという気持ちにつながりそうな要因を一つずつ取り除く。
急かさないように、なるべく軽やかに、雑談しながら靴を履かせて、玄関を出る。ここまで来れると安心しそうになるが、バスに乗るまで気は抜けない。

大きなスクールバスが角を曲がってくる。
「だっこ!」「ぼくもだっこ!」
弟たちを両手に抱えながら、ランドセルよりずっと軽いリュックサックを背負った長男の重たい足がスクールバスのステップを踏むのを確認する。
真面目で責任感の強い長男は体に不調が出るまで我慢をしてしまう。
この足取りは、我慢の足取り。細心の注意でスクールバスに乗り込むところまで連れてきたのに、その重さを今日も目の当たりにして胸が苦しくなる。
頑張らせずに休ませた方がいいのではないか。弟たちと家で遊ばせていればいいのではないか。自分の判断に自信が持てない。
ああ、少し前まで玄関にランドセルを投げ捨てて、公園に走り出ていたのに。
ごめんね連れてきて。ごめんねケイドロを取り上げて。口の端まで出かかる。

笑顔で学校に行けるようになるまで、きっとあと少し。

Makiko


3年目の今はリュックを放り出して近所の子と草野球。嬉しい気持ちと、なんとなく気が抜けない状態が混じる

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