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ぼくには、相手の目を見ると話せないことがある。視線と人と言葉に関する雑記。

人間に白目がある理由は、人間が社会生活を営む生物だから、という説があるそうだ。

サルやイヌなど、人間以外の動物には基本的に白目がない。真っ黒な目をしている。一方、人間には白目がある。

白目があると、「視線」が相手に伝わる。

野生で生きる多くの動物にとって、視線が相手に伝わるということは、次にどんな行動をするかがバレてしまうということ。それは狩りにおいても、生存においても不利に働く。

一方、集団生活をはじめた人間は、次の行動がバレる危険性よりも、視線によって仲間とコミュニケーションを取れるというメリットを重視し、目が白く発達したのだそうだ。

ぼくは「人と向き合う」という言葉を、よく使う。

自分と向き合う。相手と向き合う。

大変だけど、できたらいいよね、素敵だよね、みたいな文脈で語られることが多い、人と「向き合う」という言葉。

ただ、物理的に人と「向き合う」と、なんだかちょっとムズムズするような、居心地が悪いような気持ちになることがある。

正面の相手に対しては「反対意見を持っている」という印象を抱きやすく、斜めに座る関係が最もストレスがかかりにくい、という研究もある。(スティンザー効果、というらしい)

向き合うということは、相手の視線と相対するということ。相手の視線を意識せざるを得ない。

相手の視線を意識すると、自分のどこを見られているか、自分がどう見られているかがどうしても気になってしまうのだと思う。

目は口ほどに物を言うという諺もあるし、表情や視線などの非言語コミュニケーションがコミュニケーションの半分以上を占めるという話もある。

相手からの情報を受け取りすぎてしまうことは、時に人に過剰な想像や推測をさせてしまうのかもしれない。

ぼくの内定先のツクルバでは、ユーザーや株主との関係を、「共に前を向く関係」と表現する。ぼくが好きな表現の一つだ。

共に前を向いているとき、相手の視線は視界には入らない。相手も同じ方を向いていると信じて、前だけを見つめている。

ワークショップやイベントなどの中で、何かの課題に一緒に取り組んだ相手に対して、不思議な親近感を抱いたことはないだろうか。名前くらいしか素性は知らないのに、なぜだか繋がっている感覚が得られるとき。

それはもしかしたら、自分が見られていない、という心地よさがあるのだろうと思う。

自分のことも相手のことも取り上げられることなく、目の前のことに一緒に一生懸命になれるときの、安心感。

関係構築やチームビルディングのための導入として、マシュマロチャレンジやチーム名を決めるワークをよくやるのも、そういった理由なのだろうと思う。

(余談だが、マシュマロチャレンジについて調べたら日本マシュマロチャレンジ協会なるものを見つけて笑った)

相手の視線を意識しないからこその居心地の良さが、必要なときもある。

一方で、相手から「見られている」と思えることで感じられる安らぎもある。

公園で遊んでいる子どもがしばしば振り返って親の方を見るのは、「そこに親がいる」「親から見られている」ことを確認して安心しているのだ、という話もあるそう。(出展を探したが見当たらなかったので、嘘かもしれない)

逆に、相手から見られていないと感じてしまうと、自分の価値が認められていないような、存在していないような気分になってしまう。

相手からの視線を感じられることで、自分が相手にとっての何かであると実感できる。

相手からどう思われているかを気にしてしまうぼくには、相手の目を見てしまったら話せないことがある。

伝えたい・伝えるべきだとわかっているのだけど、相手からの視線を意識すると話せないような、独り言と投げかけの間のような言葉。

相手の目は見れないのに、相手からは見ていて欲しくて。「あなたからの言葉を受け取ります」というメッセージを感じたくて。そんな身勝手な状態にならないと、外に出せない気持ち。

下を向いてポツリポツリと、恐れや不安と戦いながら、一言一言に勇気を振り絞って、震えるような声で、語る言葉。それこそが、本当のぼくの姿で、本当のぼくの想いなのかもしれない。

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