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【歴史概要131】社会主義ソヴィエト共和国・チェカー・ブレストリトフスク条約・シベリア出兵・コミンテルン・ラパロ条約

①三月革命(=ロマノフ朝打破)以来、憲法制定議会は開催されていなかった。ボリシェヴィキは11月に憲法制定議会の議員を選ぶための選挙を行った。

②その結果はエスエルが得票率が40%(410議席)を占めて第1党となりボリシェヴィキは24%で175議席にとどまった。

エスエルは憲法制定議会への権力移譲を要求し十一月革命の反対を表明した。

③この事態にレーニンはロシアはより進んだ革命段階になったとしてこれに反対して1918年1月に開催された憲法制定議会を強引に解散させた。

④第3回全ロシアソヴィエト大会でレーニンはロシアが社会主義ソヴィエト共和国であることを宣言した。

⑤十一月革命の直後から公務員のゼネストが拡大した。危機感を持ったレーニンが組織したのがチェカー(サボタージュ・反革命取締り全ロシア非常委員会)であった。

⑥初代委員長のジェルジンスキーの名前はKGBの本部がある通りの名前に残されている。この組織が革命後のロシアの混乱を取り締まっていた。

⑦ソヴィエト政権は諸国に即時停戦を呼びかけたが拒否された。東部戦線を縮小したいドイツのみが応じてブレスト・リトフスクで交渉を開始した。

⑧これにより多くの領土であるバルト三国・ポーランド・ベラルーシ・ウクライナなどを手放した。この条約はロシア内部の反対が多かったがボリシェヴィキはこれを乗り切った。

⑨条約締結の直後にイギリス軍はバレンツ海のムルマンスクに上陸してロシア革命の干渉が始まった。この干渉戦争で諸国が連合したのがシベリア出兵であった。

⑩端緒となったのがチェコ兵の反乱であった。戦争中にオーストリアはチェコ人を兵士として徴兵していたがその中にロシアの捕虜になっていた者が多くいた。

⑪ソヴィエト政府は捕虜をシベリア鉄道経由で輸送してヨーロッパ帰国後に西部戦線に投入しようとしたが、移送中にチェコ兵とドイツ兵の捕虜の対立が起きた。

⑫チェコ兵救出を口実にアメリカと日本が中心となってイギリスも加勢しシベリア出兵が行われた。日本はコルチャーク将軍をサポートし優勢になったが革命軍により崩壊した。

⑬イギリス・フランスは白海のアルハンゲリスクに関将軍を送ったが干渉批判の国政世論が高まり各国は1920年に撤退した。チェコ兵は祖国の独立回復により1920年までに帰国となった。

⑭日本は1920年にニコラエフスクで起こったパルチザンによる日本人襲撃事件への保障占領として1922年まで北樺太の占領を続けた。

⑮ソ連はすでに1919年に共産党系組織であるコミンテルンを結成していた。世界革命運動の連帯を呼びかけていた。

⑯1922年にヴェルサイユ条約の制裁で苦しんでいたドイツとラパロ条約を結んで相互賠償請求権を放棄して最恵国待遇などの友好関係の樹立を約束した。資本主義国が初めてソ連を承認した条約である。1924年にはイギリス・フランス・イタリアが承認をし1925年には日本がソ連を承認した。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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