【日本史7】鎌倉史備忘録4
鎌倉時代の学習を深めていきます。
本日の学習は、
①武士たちのなかで頭角を現したのが源氏と平氏であった。
まず清和天皇(56代目)の後裔から出て源氏を名乗った清和源氏が台頭した。源経基の孫である源頼信が立役者となった。
②源頼信は1028年(長元元年)の平忠常の乱によって
清和源氏が東国との関係を強めるきっかけを作った。
③源氏勢力がより東国へ浸透する出来事となったのは
1051年(永承6年)にはじまる前九年の役であった。
④かつて朝廷に敗北した蝦夷と呼ばれていた東国の
人々は朝廷に服属して俘囚と呼ばれるようになった。
俘囚を従えていた豪族の安倍氏は陸奥国(福島県・宮城県・岩手県・青森県と秋田県の一部)の国司に抵抗していた。
⑤源頼信の嫡男である頼義が陸奥守に任命され一度は安倍氏は服従の構えを見せたものの最終的には敵対するに至る。結果的に頼義は俘囚主を称した(出羽)清原氏から援軍を得て勝利した。
⑥後三年の役は大権力を有した清原氏の内訌を端緒とする。この内紛に頼義の嫡男・源義家が介入し一族の清原(藤原)清衡を助けこれを鎮圧した。
⑦前九年の役と後三年の役によって義家と彼と動員された東国武士たちとの間に主従関係が形成されたことにあった。義家は武家の棟梁の先駆者であった。
⑧源氏に代わって登用されたのが伊勢(三重県北部)・伊賀(三重県西部)に土着していた伊勢平氏だった。白河上皇は平正盛や継承者の忠盛を承認した。
⑨平忠盛は後に内裏への出入りを許される殿上人となった。このころ平氏は平安時代の院政秩序に組み込まれつつあった。
また忠盛と白河上皇の官女の妹との間に生まれたのが平清盛と云われている。
⑩源氏は義親死後の内紛は乗り越えられなかった。
義家の養子として家督を継いだ為義は勢力を拡大することはできなかった。為義は貴族社会の信頼よりも武士団の主従結合を重視していたからだ。
⑪源氏や平氏は独自に権力と結びついてはいたが、家中をまとめることはできなかった。何らかのきっかけで一族間の争いに発展しかねない危うさを抱えていた。
朝廷間も同様である。鳥羽法皇(74代目引退後)の死後に崇徳天皇(75代目)の勢力と鳥羽法皇の継承者後白河天皇(77代目)の勢力の間で対立が起こった。世界史的には3世紀末のローマ帝国のテトラルキアが連想される事などを学びました。
■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社
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