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【歴史概要38】インドネシアの話

①インドネシアはスマトラ島とジャワ島を中心に約1万4000の島嶼からなる国であり人口は2億3000万人である。

国民の多くはムスリムである。

②13世紀から16世紀の初頭まで現在のマレーシアとインドネシア、フィリピン南部の一部を支配していたマジャパイトという国があり最大のヒンドゥー国家だったと云われている。

③16世紀には衰退していきイスラーム教のマタラム王国が
ジャワ島を中心に勢力を強めていった。

④ヨーロッパ諸国が東南アジアに進出していきマジャパイト王国の各地に拠点を建設していった。

最初に進出してきたのはポルトガル人だった。

⑤16世紀になるとポルトガル本国の低迷があってインドネシア地域でオランダが勢力を伸ばしていった。オランダがこの地域に進出したのは17世紀の初頭であった。

⑥ジャワ島の西部にはバンテン王国というイスラーム国があった。そこをオランダは占領し南ジャカルタをバタヴィアとしてこの地域の経営拠点とした。

東ティモール以外からポルトガルを排除した。

⑦1623年にはモルッカ諸島でイギリスと戦い勝利した。これがアンボイナ事件である。インドネシア全域を支配していった。またマタラム王国を倒し内陸支配も拡大していく。

⑧同時期にイギリスはマレー半島で勢力を拡大していった。19世紀初頭にナポレオン戦争でオランダがフランス帝国に併合されたのでイギリスが東南アジア各地域も支配下に入れた。

⑨1814年のオランダ・イギリス間のロンドン条約でイギリスがマレー半島でオランダがスマトラ島で影響力を持つことが確認された。

⑩1819年にイギリスの植民地行政官ラッフルズがシンガポールを獲得したので両国間で話し合いが続き1824年に英蘭協約が結ばれた。

⑪1830年代からオランダはインドネシアで強制栽培制度を始めた。原住民にコーヒーやサトウキビ、香料など商品作物の栽培を強制した。現地の農民たちの生活を圧迫した。オランダはこれによる利益をもとに産業革命を推進していく。

⑫20世紀になりオランダが採用した植民地への倫理政策という教化政策によってインドネシア知識人が育っていく。それと並行して強制栽培制度など過酷な支配を批判する勢力も生まれた。この際にイスラーム教が大きな役割を担った。

⑬20世紀には民族主義運動が始まり、イスラーム教を基軸にしたサリカット・イスラームやインドネシア共産党などが成立していった。

⑭第2次世界大戦では日本の支配を受けていた。戦後にスカルノが民族運動の中心となりムルデカ(独立)をスローガンとして戦った。これにより1949年にインドネシアの独立を果たした。

⑮政治体制として議会主義が採用され指導された民主主義を実践した。国内のさまざまな主義・主張を民族主義(Nasionalisme)・宗教(Agama)・共産主義(Komunisme)の3つにまとめたナサコム(NASAKOM)体制を国家の柱とした。

⑯この体制はスカルノ個人が軍隊と共産党の政治的バランスを牛耳る側に存在しバランスが崩れた1965年以降権力を失った。

⑰スカルノはアジアナショナリズムの象徴となった。1955年にはアジア・アフリカの新興国を集めて第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を開催した。

⑱西パプア(イリアンジャヤ)の併合やマレーシア連邦の成立ではイギリス植民地主義としてマレーシアに軍隊を送った。1965年には一時期国連を脱退している事などを学びました。

■参考文献
『ライバル国からよむ世界史』 関 眞興 日本経済新聞出版社

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