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【日本史7】鎌倉史備忘録15

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①頼朝の死後に跡を継いだのが妻である北条政子との
間に生まれた長男の源頼家であった。頼朝は生前から
頼家を後継者にする意思を周囲に伝えていた。

②1199年(正治元年)に18歳の頼家が鎌倉殿となる。
頼家は幕政を主導するようになり守護・地頭制の見直しや
問注所の設置、朝廷と連携した公武協調路線を歩もうとした。

③頼家の方針は御家人調停ができなかったため頓挫した。約3ヵ月後に頼家が幕府に持ち込まれた訴訟を直接裁決する事を禁じた。主に有力御家人十三人による合議制で意思決定する事を定めた。十三人の合議制である。

④この13人とは北条時政・北条義時・三浦義澄・和田義盛・梶原景時・比企能員・安達盛長・足立遠元・八田知家・中原親能・大江広元・三好康信・二階堂行政である。

⑤『吾妻鑑』では頼家が無能であったため御家人は云う事を聞かなかったとされている。しかしこれは北条氏に近い人々が編纂しているので慎重に考えた方がよい。頼家は有力御家人の反発を招き母である北条政子とも対立をし孤立していった。

⑦御家人の結城朝光が亡き頼朝をしのび「忠臣は二人の主君に仕えない」と語ったことを知った梶原景時は「頼朝には仕えるが、頼家には仕えないということか」と解釈した。景時は朝光に謀反の疑いがあると幕府に訴えた。

⑧朝光は三浦義澄の子三浦義村に助けを求めた。これにより御家人たち66人の連名で景時を糾弾する連署状を幕府に提出した。この事は頼家にも伝わり景時は鎌倉追放の処分を受けた。

⑨景時は1200年(正治2年)に幕府の意向に背き上洛したが道中の駿河国(静岡県)で現地の武士に討伐され梶原一族は滅亡した。

⑩1203年(建仁3年)になると頼家は体調を崩しがちとなり後継者争いが始まった。頼家の乳母の夫・比企能員を中心とする比企氏と頼家の弟である源実朝の乳母の父・北条時政を中心とする北条氏の対立が表面化した。

⑪病床で頼家は弟の実朝に関西38カ国の地頭職を息子の一幡に関東28カ国の地頭職と日本国惣守護職を与えて権力を分割させた。

⑫北条政子は「比企能員がこの措置に不満を持ち、頼家と連携して謀反を企てている」と父の北条時政に知らせると時政は能員を自邸に招いて殺害した。

そして比企一族は北条政子が遣わした幕府の大軍に倒された。一幡も混乱の中で亡くなった。これが比企能員の乱である。

⑬頼家の容態は回復したが政子は頼家に出家を命じた。強制的に引退へ追い込まれた頼家は1204年(元久元年)に幽閉先の修善寺(静岡県)で北条氏の刺客によって暗殺された。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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