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昭和33年のてるてる坊主【てるてるmemo#20】


 てるてる坊主が登場する文献資料をもとに、かつて、昭和39年(1964)から34年(1959)まで1年ごとにさかのぼりつつ、当時のてるてる坊主について検討を加えました。
 引き続き本稿では、それに先立つ昭和33年(1958)のてるてる坊主に注目します。検討対象とするのは、フィクションかノンフィクションかを問わず、これまでにてるてる坊主研究所で蒐集してきた文献資料。昭和34年から39年までの事例とも、随時比較をしながら検討を進めていきましょう。
 まず注目したいのは絵のある資料14例(★後掲の「昭和33年(1958年)のてるてる坊主(てるてる坊主図録Ver.3.7)」、および表1参照)。資料⑪~⑭の4例は教科書の挿絵です。

1、姿かたち、目鼻の有無

 検討の切り口としたいのは「姿かたち」と「目鼻の有無」です。第一に姿かたちをめぐって。昨今のてるてる坊主は裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。昭和34年から39年にかけても、そうした姿かたちのものがほとんどでした。ただし、なかには着物を着たり帯を締めたりした姿のものも散見できました(★表2参照)。

 そうしたなか、この昭和33年はめずらしく着物姿のものが目立ち、数の上ではスカート姿のものと拮抗しているのが特徴です。
 絵のある14例のうち、着物姿のものは7例(①③⑥⑦⑨⑩⑫)、スカート姿のものも7例(④⑤⑦⑧⑫⑬⑭)見られます。⑦は着物姿のものとスカート姿のものが併存しています。また、残る②はどっちつかずな姿をしています(★図1参照)。 

 第二に目鼻の有無をめぐって。絵のある14例のうち、眉や目・鼻・口など顔のパーツのいずれかがあるものは9例(④⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑬⑭)を数えます。いっぽう、目鼻がないのっぺらぼうのものは7例(①②③⑤⑥⑦⑫)。⑥(★後掲の図2参照)と⑦(★前掲の図1の左と右上)は目鼻があるものとのっぺらぼうのものが併存しています。

 この昭和33年には、目鼻のあるもの(9例)のほうがないもの(7例)より、数の上ではやや優勢です。昭和34年から39年にかけても同様に、目鼻のあるものがないものよりも、大半の年で優勢です。昭和37年のみ、目鼻のあるものとないものが、数の上で拮抗しています(★表3参照)。

2、設置場所

 てるてる坊主が描かれた14例の資料から読み取れる情報をもとに、昭和33年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表4参照)。

 前掲した表1と表4を合わせて注目したいのが、てるてる坊主の設置場所。まず目立つのは 軒で13例(①④⑥⑦⑨⑭⑳㉑㉖㉗㉘㉝㉞)見られます。また、窓辺にも4例(⑮⑯㉔㉕)見られます。軒と窓辺を建物の周辺部として合わせると17例を数えます。
 また、木という事例も10例(②⑧⑨⑩⑮⑰⑲㉑㉓㉛)見られます(⑨㉑は軒と木の重複、⑮は窓と木の重複)。具体的な樹種が明示されている例も多く、南天(⑰)、ザクロ(⑲)、イチジク(㉑)、カエデ(㉓)などさまざま。
 めずらしいところでは、鉢植えの木の枝に吊るされている例も見られます。児童文学作家・小川未明の童話集(資料⑧)に収められた、「てるてるぼうず」と題する作品の挿絵です(★図3参照)[小川1958:64-65頁]。

 「建物の周辺部」と「木」を比べてみると、昭和34~39年(1959-64)の6年間のうち、昭和35年のみ「木」が優勢で、ほかの5年は「建物の周辺部」が優勢でした。そして、この昭和33年には「建物の周辺部」が「木」よりもだいぶ優勢です(★表5参照)。

3、山岳紀行文『初恋の山』から

 てるてる坊主の特徴をよく知ることができる資料がふたつあるので、順に紹介します。ひとつは登山家・川森左智子(1907-88)の山岳紀行文を集めた『初恋の山』(資料㉘)から。てるてる坊主が登場するのは「雨のシャモニー」と題された一章です。モンブラン登頂を目指す一行が、麓の街シャモニーに到着したものの、あいにく連日の雨に見舞われる場面です[川森1958:34-35頁]。

プロヴィエ夫人や、フレンドさんまで、
「モン・ブランには新雪が五尺もきたんじゃ、当分山登りは駄目。……(中略)……サチコ、ほら、日本でおまえが作った小さい人形——あれを作って神さまにお祈りしなさい」
と低気圧下のシャモニーを逃れていってしまいました。
彼らが日本を訪れ、上高地で雨に降りこめられたときに、わたくしがチリ紙でたくさんつくった、テルテル坊主。
 テルテル坊主 テル坊主
 あした天気にしておくれ……
と歌って、お酒を捧げた日本のかわいい風習を、あべこべに想いだし、慰めてくれた彼らの気持が、とても嬉しかったのでした。
お酒ならぬ葡萄酒を捧げた「テルテル坊主」——。
それから五日目に、やっと雨雲が少しきれて、ときおり太陽が光をみせてくれたのでした。

 フランスから招いた友人と上高地(長野県松本市)を訪ねた際、悪天候のなかで著者の川森は雨が止むようにと「テルテル坊主」を作り、酒を捧げたといいます。今度は川森がフランスに赴いた際にも悪天候に見舞われます。フランスの友人は「テルテル坊主」の風習を覚えていました。「日本でおまえが作った小さい人形」を作って祈るよう、川森に勧めます。川森は言われるままに「テルテル坊主」を作り、葡萄酒を捧げて晴天祈願をしています。
 小さい人形を作って神さまに晴天を祈願する日本の風習は、フランス人にとっても印象深かったようです。川森は日本の上高地では、ちり紙を材料にして「テルテル坊主」をたくさん作り、酒を捧げたそうです。供えた酒はおそらく日本酒でしょう。また、フランスのシャモニーでは「テルテル坊主」に葡萄酒を捧げています。
 てるてる坊主の材料や祈願の際の工夫については、あとでまた詳しく触れます。

4、小唄「晴れた庭木」から

 てるてる坊主の特徴がよくわかるもうひとつの資料は、河合勇(1899-)の『小唄歳時記』(資料㉛)。その「五月」の項に収められた「晴れた庭木」という小唄にてるてる坊主が登場します。作詞は日本画家の牛田鶏牛(1890-1976)、作曲は田村小登喜(生没年不詳)[河合1958:49頁]。

晴れた 木にぶらりぶらりと誰がさげたテルテル坊主願いかなった嬉しさにお酒をあびて目も鼻もへへののもへとたがいなく帯にしめたる水引の紅がとけたじゃないかいな

 「テルテル坊主」の設置場所として「木」が択ばれています。さらに興味深いのはその姿かたち。帯として、紅白の水引を締めています。水引とは、和紙を紙縒こより状にして、糊で固めた帯紐のこと。
 この『小唄歳時記』には残念ながら挿絵はありませんが、明治33年(1900)に発行された図案集『麗新画帖』には、水引を帯にしたてるてる坊主の姿が描かれています(★後掲の図4参照)[松井1900]。『小唄歳時記』の「晴れた庭木」で唄われている「テルテル坊主」も、おそらくこの『麗新画帖』の挿絵と同じように、着物を着て水引でできた帯を締めているのでしょう。

 そして、小唄「晴れた庭木」の「テルテル坊主」の顔には、目鼻などのパーツが「へへののもへ」と平仮名を使って書かれているようです。てるてる坊主の顔のパーツが「へのへのもへじ」である例はしばしば散見できます。先述した資料⑦のスカート姿のてるてる坊主の2つのうち、左側のものは眉と目が「への」「への」で表されていました(★図1の右上)。
 また、「テルテル坊主」への願いがかなった嬉しさのあまり、「テルテル坊主」に酒が浴びせられています。帯として締めている水引の、紅の色が溶けだしてしまいそうなほどに。こうしたお礼の作法については、あとでもう一度触れます。

5、色のついたてるてる坊主

 気になるのがてるてる坊主の色と材料です。まずは色の着いたてるてる坊主をめぐって。絵のある資料から2例紹介します。
 ひとつは資料⑩。児童雑誌『ひかりのくに 生活習慣と社会性が身につく』13巻6号に掲載されている挿絵です(★後掲の図5の左)。童謡「あまだれぽったん」の挿絵を画家・岩崎ちひろ(表記は原文のママ。1918-74)が描いています。てるてる坊主が着ている衣は鮮やかな赤です[『ひかりのくに』1958:頁表記なし]。

 もうひとつは資料⑫。音楽教科書『音楽3年』(資料⑫)に掲載された童謡「てるてるぼうず」の挿絵です(★前掲した図5の右)。描いたのは黒川義介(生没年不詳)。白いてるてる坊主のほか、黄色や桃色のてるてる坊主など色とりどり。あるいは、赤い帯を締めた姿も見られます[『音楽3年』1958:8頁]。

 色の着いたてるてる坊主は、石橋裕の詩集『私のちいさなきいろのきつね』(資料㉜)に収められた「黄衣の僧」の一節にも登場します。前掲した資料⑩(★図5の左)と同様、赤い着物を着たてるてる坊主です[石橋1958:45頁]。

印度大使館の謙譲なたてものから谷に向って歩くと
日が落ちるところでひゃくしゃうサンが、
土とおんなじ色で。首かざりをうしろに垂らしたちっちゃなとをにたりぬ奥さんが
通った、テルテル坊主の赤いキモノ。
それはほそい枯れた草の道であったことだ。

6、ちり紙・新聞紙・折り紙

 次にてるてる坊主の材料をめぐって。ちり紙・新聞紙・折り紙で作る事例が見られます。ちり紙で作る例はふたつ見られ、そのうちのひとつは、先述した登山家・川森左智子の『初恋の山』(資料㉘)。著者は雨の上高地において、ちり紙を使ってたくさんのてるてる坊主を作りました。
 もうひとつは、幼児教育者・新見文子(生没年不詳)の『あした天気になぁれ』(資料⑰)から。幼稚園の遠足を翌日に控えた場面です。先生も園児も、ちり紙を丸めててるてる坊主を作っています[新見1958:28頁]。

それから次にてるてる坊主のつくり方を話した。
「先生が今、ちりがみでつくりますから、みなさんはお家へ帰ってからこしらえてごらんなさいね。こうしてぐるぐるっとまるめて頭の中に入れるものをつくります。それから……(ママ)」と私はひととおりつくり方を説明した。おや? 大作がもそもそ動いている。
「大作ちゃんどうしたの?」
「うん? てるてる坊主つくるんや」といってズボンのうしろのポケットからちり紙を出している。
「僕かてつくるぞ」と宏はいち早くちり紙をとり出してくるくるっとまるめてつくり出した。

 新聞紙を材料としているのは資料㉒。国語学者・望月久貴(1913-93)が著した『国語指導過程』に収められている小学三年生の作文から。家族で温泉に行く前日の場面です[望月1958:204-205頁]。

ぼくは、あしたがまちどうしくてたまりません。それに雨がふってくると行けないので、たいいくのぼうしに、新聞紙を包んでてるてるぼうずを作りました。

 折り紙を材料としているのは資料㉝。『高志人』23巻10号に掲載されている、西宮雪子(生没年不詳)が詠んだ短歌です[『高志人』1958:36頁]。

となり家の軒に吊りある折紙のテルテル坊主風にゆれをり

 折り紙で作られたというこのてるてる坊主は、前掲した資料⑩や⑫(★図5参照)のような、色の着いたものだった可能性が高いでしょう。

7、効力アップの工夫

 てるてる坊主の効き目が増すよう、さまざまな工夫も試みられています。てるてる坊主をたくさん作る、文字を書き込むといった方法です。
 第一に、てるてる坊主をたくさん作るという方法をめぐって。前掲した資料⑫では、白のほか黄色や桃色といった色とりどりのてるてる坊主が、4つも作られて吊るされていました(★図5の右)。
 あるいは、前掲した資料㉘においても上高地を舞台として、ちり紙を用いて「テルテル坊主」をたくさん作り、酒を捧げた思い出が記されていました。
 同じくちり紙を材料とする事例として前掲した資料⑰には、以下のような続きがあります。遠足当日の朝の光景です[新見1958:28-29頁]。

翌朝、みんなの祈りがきいたのか、出発の頃になってキラキラと陽が照り出した。子供達は手を打ち足をふみならして喜んだ。すると明子が、
「うちがてるてる坊主、四つ作ったからや。」と喜んでいる。
「昨日、てるてる坊主つくった人?」
「はあいはあい」可愛い(ママ)手が沢山あがる。
「うちも四つもつくったで」と明子が又いった。
「南天の木につるしたんや」と京子。空を見上げ、私は心から感謝した遠足の朝である。

 ここでもやはり、てるてる坊主が4つも作られています。
 あるいは、てるてる坊主の数を徐々に増やすという工夫も見られます。『選抜高校野球大会三十年史』(資料⑱)に記録されている、昭和26年(1951)春の光景です[『選抜高校野球大会三十年史』1958:134頁]。

この大会も選ばれたセンバツ校は十六校、四月一日から開幕されたが、雨にたたられて順延また順延となった。“雨また雨……雨……”各チームの宿舎には二つ三つ、さらに五つ六つに数を増す快晴祈願のてるてる坊主が春雨の無情をかこっていた。

 はじめは2つ3つだったてるてる坊主ですが、雨がなかなか止まないので、5つ6つと数を増していったといいます。
 このほか、てるてる坊主を年の数だけ作るという事例も見られます。伝記集『光を掲げた人々』1(資料㉚)に収められた「松本訓導」の章に、大正8年(1919)の出来事が綴られています[日本放送協会1958:85頁]。

やがて永田小学校の遠足は全校ぜんこうそろつておこなわれました。子供たちは汽車に乗るが早いか、もう大喜びです。
「松本先生、テルテル坊主ぼうず作つた?」
「テルテル坊主か。永田君は?」
つくりました。僕は年の数だけ作りました」
「僕もだ。それで今日、お天気になつたんだね。先生は幾つつくつた?」
「先生か。先生は作るのを忘れちやつた」
「わあ、ずるいずるい」

 当時の尋常小学校は6年制で、入学年齢は6歳。年の数ということは、てるてる坊主は6~12個ほど作られたようです。

 第二に、文字を書き込むという方法をめぐって。前掲した資料⑦には、着物姿のてるてる坊主とスカート姿のてるてる坊主が併存していました。そのうち、スカート姿のてるてる坊主2つには、どちらも衣の部分に「てるてる」と書いてあります(★図1の右上)。
 もうひとつ、やはり前掲した資料⑩では、てるてる坊主が真っ赤な衣を着ていました。その衣には「てるてるぼうず あしたてんきにしておくれ」と願いが書き込まれています(★図5の左)。

8、お礼と罰の作法

 次に注目したいのは、てるてる坊主に祈願した結果、願いがかなった場合のお礼、もしくは、願いがかなわなかった場合の罰の作法です。まずはてるてる坊主へのお礼をめぐって。
 先述したように、『小唄歳時記』(資料㉛)所収の「晴れた庭木」では、「テルテル坊主願いかなった嬉しさにお酒をあびて……(中略)……帯にしめたる水引の紅がとけたじゃないかいな」と唄われています[河合1958:49頁]。願いがかなって好天に恵まれたら、てるてる坊主へのお礼に神酒を供える、という作法はかつて一般的でした。江戸時代末期から明治・大正期を経て昭和中期までよく見られます。
 いっぽうで注目したいのは、先述した『初恋の山』(資料㉘)に綴られていた光景。著者は日本の上高地では日本酒を捧げ、フランスのシャモニーを訪れた際には葡萄酒を捧げていました。この事例では祈願の結果が出てからではなく、願いを掛ける時点で早くも酒を捧げています。こちらはお礼というよりむしろ、てるてる坊主の効力アップを目指す発想と言えそうです。

 続いては、てるてる坊主への罰をめぐって。次田利夫(1910-)らが編んだ『はとぶえ:小学生の詩と綴り方』(資料㉑)に、小学5年生が書いた「遠足中止」と題する作文が収められています。
 遠足前夜に雨がザーザー降り。そこでてるてる坊主を作って吊るしたところ、翌朝は雨が上がっていました。そこで、「私は、てるてるぼうずありがとうと、心の中でいいました」。ところが、学校に集合した段階で雨がまたパラパラと降り出します[次田ほか1958:142-144頁]。

雨は、とうとう、ほんぶりになってきました。私は、てるてるぼうずが にくらしくなってきました。そして、朝だけ喜ばしてくれてもしようないわと思いました。
……(中略)……
私は 帰ったら、てるてるぼうずの首をちょんぎって川へながしたろと思いました。

 てるてる坊主を川に流すという作法は、願いがかなったお礼としてならば、かつてはしばしば見られた光景です。わたしの管見が及んだ辞書の類に限ってみても、先述した酒を供える作法と合わせて、明治末期から大正期を経て昭和中期まで散見できます(★表6参照)。

 もとより、ここに紹介した事例では、願いがかなわなかったために川に流すのだと記されています。罰として川に流すというのはめずらしい事例です。
 さらには、てるてる坊主を川に流す前に首をちょん切ってやるのだと記されています。雨だったら首をちょん切るという作法は、よく知られたところでは童謡「てるてる坊主」の最後でも唄われています。

9、ポンチョを着た形代

  最後に触れておきたいのが、実業家であり民俗学者でもあった渋沢敬三(1896-1963)の『南米通信』(資料㉟)。前年の昭和32年(1957)に南米大陸を旅した記録です。てるてる坊主が登場するのは「ポンチョ」と題された一文。
 南米では広くポンチョが使われているのを渋沢は実見しました。渋沢によれば、「矩形の縫合せのない単布の中央に穴をあけ、そこから頭を通し布は肩で前後左右にうけるのがポンチョ」。それは「縫い込んだりする手数のかからぬ原始的な衣服として世界各地に見られ」、中国の古い文献では「貫頭衣」と記されているそうです。
 そうしたポンチョ風の貫頭衣は日本でも見られます。渋沢によれば、「東北のオシラ神に着せる布や紙雛のある者、テルテル坊主等に見る形代かたしろ等にもこの種のものが現存している」といいます[渋沢1993:79頁]。オシラ神とは東北地方北部を中心に信仰されている家の神さまのこと。
 ここで注目しておきたいのは、渋沢がオシラ神に触れながら、紙雛やてるてる坊主を形代として捉えている点。形代とは、人間に降りかかる穢れを身代わりとして移す人形などを指します。また、雛というと昨今では豪華絢爛な雛人形が思い起こされますが、もともとはやはり穢れを移して祓う紙人形が始まりでした。さらには、てるてる坊主もかつては「てり雛」とも呼ばれていた時代があったのです(★「雛としてのてるてる坊主【てるてるmemo#6】」参照)。

 さらに渋沢は民俗学者・宮本勢助(1884-1942)の研究を引用しつつ、ポンチョ風の貫頭衣の例を次のように例示しています[渋沢1993:79頁]。

故宮本勢助さんが詳しく調べられた我国の古い文献に出て来るチハヤ、又はウチカケ等の原型も貫頭型衣服であり現在秋田、群馬、鳥取、広島地方等に見られるあるいはホメエダリ、あるいはマエカケ等各種の名称で呼ばれるのは皆貫頭型衣服である。

 現存する貫頭型衣服の例として渋沢が挙げている、ホメエダリまたはマエカケと呼ばれる衣服。そのうち、秋田と広島のものについては写真が添えられています(★後掲の図6参照)。そこには、前掲した資料⑩のてるてる坊主(★図5の左)が着ているのと似たようなかたちの衣が見られます。

 本稿で注目した昭和33年のてるてる坊主を含め、もっと長い目で見た昭和30年代全般のてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【表1と表4に関わるもの】(発行年はいずれも昭和33年(1958)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。表記は原文のママ)
①『小説倶楽部』11(9)、桃園書房(服部みちを「居残り三ちやん」)
②木暮俊夫・久田芳〔著〕白崎海紀〔絵〕『小学生の理科全集』3 自然のうつりかわり、岩崎書店(「天気とくらし」)
③青木洋ほか『小学一年のしゃかい 子と母のための』、文英堂(「つゆの ころ」)
④桑原実・林健造・熊本高工〔編〕『たのしいはりえ』1ねんせい、岩崎書店(「たてものの いろいろ」)
⑤永井鱗太郎〔著〕桑原実〔絵〕『学校劇図説』(図説全集第27)、岩崎書店(「影絵劇」)
⑥三石巌〔著〕若菜珪〔絵〕『理科なぜなぜ教室』2年、講談社(「そらに みえる もの しぜんの うつりかわり」)
⑦腰山太刀男ほか〔編著〕『ふしぎだ・はてな?』1年・上(理科・社会科学習文庫)、高橋書店(「あめと くもの ふしぎ」)
⑧小川未明『小川未明童話集』(小学文庫1・2年)、日本書房(「てるてるぼうず」)
⑨『ひかりのくに 生活習慣と社会性が身につく』13(6)、ひかりのくに(林くみ子〔作〕藤田さくら〔絵〕「からすとてるてるぼうず」)
⑩同上(増子とし〔作詞〕本多鉄麿〔作曲〕岩崎ちひろ〔絵〕「あまだれぽったん」)
⑪『音楽3年』、二葉〈使用年度:昭和34~35年(1959-60)〉、(目次)
⑫同上(黒川義介〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑬『総合小学生の音楽』3、教育出版〈使用年度:昭和34~35年(1959-60)〉、(「てるてるぼうず」)
⑭『しょうがくしんこくご一ねん』中、光村図書出版〈使用年度:昭和34~35年(1959-60)〉
⑮文部省初等中等教育局初等教育課〔編〕『初等教育指導事例集』第16 (図画工作科編 第3)、博文堂出版(「遊び道具を作る工作」)
⑯石山脩平〔監修〕『学習受験小学国語』、法文社(「文字とことば」)
⑰新見文子『あした天気になぁれ』、緑地社(「てるてる坊主」)
⑱『選抜高校野球大会三十年史』、毎日新聞社(「“渦潮打線”の大暴れ 第二十三回高校4回(昭和26年) 鳴門高優勝」)
⑲『獺祭』32(6)、獺祭発行所(「草園俳句会」白峯)
⑳『新墾:短歌雑誌』28(8)、歌誌新墾発行所(前橋正利)
㉑次田利夫ほか〔編〕『はとぶえ:小学生の詩と綴方』、三一書房(田淵泰江「てるてるぼうず」、片桐弘美「遠足中止」)
㉒望月久貴『国語指導過程』、明治図書出版(「作文過程にもとづく学年別指導」)
㉓高山毅ほか〔編〕『昭和児童文学全集』11、東西文明社(「童謡十二カ月」)
㉔ 東京中学進学研究会〔編〕『中学校入学試験問題と解答』昭和34年版、オクムラ書店(「東京家政大附属女子中学校 国語」)
㉕菊田要ほか〔編〕『子ども会劇集』中級、さ・え・ら書房(「あしたのお天気」)
㉖松田常憲『長歌自叙伝』続、白玉書房(「折れ曲る橋」)
㉗里見八郎『8ミリ入門ハンドブック』、金園社(「梅雨時の撮影と注意」)
㉘川森左智子『初恋の山』、平凡出版(「雨のシャモニー」)
㉙三田幸夫・川崎隆章〔編〕『山岳選書』山行編 第1 (春山)、章文社(「兵庫アルプス紀行」)
㉚日本放送協会〔編〕『光を掲げた人々』1、高橋書店(「松本訓導」)
㉛河合勇『小唄歳時記』、八木書店(牛田鶏村〔作詞〕田村小登喜〔作曲〕「晴れた庭木」)
㉜石橋裕『私のちいさなきいろのきつね』、春秋社(「黄衣の僧」)
㉝『高志人』23(10)、高志人社(「高志人歌壇」西宮雪子)
㉞『新墾:短歌雑誌』28(11)、歌誌新墾発行所(土井歌涼乙)
㉟渋沢敬三『南米通信:アマゾン・アンデス・テラローシャ』、角川書店(「ポンチョ」。のちに『渋沢敬三著作集』第4巻〈網野善彦ほか〔編〕、平凡社、1993年〉に所収)

【図4に関わるもの】
・松井由谷『麗新画帖』下、本田書店、1900年(「日和坊之図」)

【表6に関わるもの】(白抜き丸数字は表の左端の№に対応)
❶三省堂編輯所〔編〕『日本百科大辞典』第7巻、三省堂書店、1912年
❷落合直文ほか『言泉』、大倉書店、1927年
❸新村出〔編〕『辞苑』、博文館、1935年
❹下中弥三郎〔編〕『大辞典』第18巻、平凡社、1936年
❺新村出〔編〕『言林』昭和廿四年版、全国書房、1949年
❻福原麟太郎・山岸徳平〔編〕『ローマ字で引く国語新辞典』復刻版、研究社、2010年(原版は1952年)
❼新村出〔編〕『広辞苑』、岩波書店、1955年


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