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続・100年ほど前のてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#26】

はじめに

 いまから100年ほど前のてるてる坊主像を探るべく、かつて、大正期(1912-26)の書物に登場するてるてる坊主に注目しました。わたしの管見の及んだ事例は年代順に以下の7点。

①、『小学男生』1巻2号(1919年)
②、徳永寿美子『薔薇の踊子』(1921年)
③、『少女の友』14巻6号(1921年)
④、中山晋平『童謡小曲』第2集(1922年)
⑤、本山豊治ほか〔編〕『土の鈴』第15輯(1922年)
⑥、町田桜園〔編〕『てる〳〵坊主』(1923年)
⑦、川路柳虹『はつ恋』(1925年)

 このうち、前4点については以前に取り上げました(★詳しくは、下記の「100年ほど前のてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#23】参照)。その成果として、とりわけ姿かたちや設置場所などをめぐって、昨今とは一風かわった様相のてるてる坊主像を確認することができました。

 引き続き本稿では、以前に紹介しきれなかった⑤~⑦の3点を取り上げます。年代的には大正11~14年(1922-25)という3~4年のあいだに集中しています。まさに、いまから100年ほど前のことです。
 なお、町田桜園『てる〳〵坊主』(⑥)については、大正12年(1923)の初版発行から4年後、昭和2年に改訂版が出版されています。そして、初版と改訂版を比べると、やや異なるてるてる坊主の姿が見られます。そこで本稿では初版(⑥-1)に加えて、大正期から少し外れますが改訂版(⑥-2)についても紹介しましょう。

⑤、本山豊治ほか〔編〕『土の鈴』第15輯(1922年)

 『土の鈴』は土の鈴会が発行した雑誌で、大正9年(1920)に創刊されました。土の鈴会は長崎市出身の民俗学者・本山桂川けいせん(1888-1974。本名は豊治とよじ)らによって結成され、当地・長崎を中心とする郷土の風習をめぐって調査・研究活動を展開しました。
 雑誌『土の鈴』は隔月で発行を重ね、大正11年(1922)10月に発行された第15輯に「小学生も有する俗信」と題された報告が掲載されています。著者は同じく長崎市出身の田中田士英でんしえい(1875-1943。本名は英二)。小学校の教師を務めながら俳句に親しみ、長崎俳壇をリードした人物です。
 田中田士英の記述によると、「数年まえ尋常五・六年の児童(男女約百五十)について、その有する俗信を書かせた」そうです。そうして集められた俗信が数多く列挙されているなかに、「女の児ばかり」が答えた例の1つとして、次のような俗信がシンプルに紹介されています[田中1979:79-80頁]。

日和坊主を祭ればよい天気になる(酒をのませねば又からよい天気にしてくれぬ (ママ)

 一部、意味を読み取れない語句もありますが、好天を願うのに「日和坊主」を祭ることがわかります。詳しい祭りかたは不明ですが、あらかじめ酒を飲ませるようです。酒を供えたり、あるいは頭からかけたりするのでしょう。
 てるてる坊主に酒を供えたり頭からかけたりする作法。そのタイミングに注目してみると、願いがかなって晴れた場合のお礼としておこなわれる例(好天が先で、酒があとから)が古今を通じてしばしば見られます(★下記の表1参照)。いっぽう、『土の鈴』の報告に見られるような、あらかじめ酒を飲ませる例(酒が先で、好天はあとから)は、わたしの管見の限りではほかにありません。

 また、長崎の子どもたちは当時、てるてる坊主を「日和坊主」と呼んでいたことがわかります。「日和坊主」という呼び名は、近世(江戸時代)後期の1830年ごろから大正期(1912-26)ぐらいにかけての100年ほどのあいだ、長崎を含む西日本各地で広く使われていたようです(★詳しくは、下記の「西日本では「日和坊主」というのは本当か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#6】」参照)。
 ここで紹介した『土の鈴』第15輯の発行は、先述のとおり大正11年(1922)。それから3年後、大正14年に発行された『長崎市史』(風俗編)所収の「長崎方言集覧」にも、当地ではてるてる坊主を「日和坊さん(ヒヨリボンサン)」と呼ぶことが明記されています[古賀1967:152頁]。

⑥-1、町田桜園〔編〕『てる〳〵坊主』(1923年)

 「かあいゝ歌劇」はその広告によれば、「幼稚園から尋常一二年三年位迄の児童」を対象とした歌劇のシリーズです。作者は町田桜園おうえん(?-1928。本名はひさ)。子ども向けの歌劇を自ら創作したほか、数多くの唱歌集の編纂に携わった人物です。
 「かあいゝ歌劇」シリーズの第1編が『てる〳〵坊主』で、大正12年(1923)に発行されました。登場人物は姉の花子と弟の太郎。遠足の前日なのに曇り空で、天気が思わしくないという場面です[町田1923:2頁]。

花子「……てる〳〵坊主ばうずをこしらへませうよ。
太郎「てる〳〵坊主ばうずつてなんです?
花子「ほら、かみばうさんをこしらへてまどへつるしておくのよ、さうするときつとお天気てんきになるわ。
太郎「あゝそれぢやアぼく手伝てつだつてこしらへませう。
 花子、太郎のうた
 『てる〳〵坊主ばうず、てる坊主ばうず、あしたは 天気てんきにして頂戴ちやうだい、もしも天気てんきになつたなら、おまへのすきな 御馳走ごちそうを、なんでも たくさんあげませう。
花子「そらこんなに出来できたわ、それではこれをまどにつるしておきませう。

 呼び名は「てる〳〵坊主」。材料は紙。姉が作るのを真似ながら、弟も一緒に作っています。てるてる坊主の風習が受け継がれていく一齣です。
 いくつも作られたてるてる坊主は窓辺に吊るされます。2人が歌った歌によれば、願いがかなって晴れた場合には、てるてる坊主の好きなごちそうを「なんでも たくさん」あげるようです。
 先述のように、本書は小さな子どもたちのための歌劇集。演じる際の衣装について冒頭にアドバイスが掲げられており、てるてる坊主に扮するには「白い布で頭をつゝみ、同じ白い布をすぽツとかぶつた様にすればよい」と記されています。
 「白い布で頭をつゝみ……」とあるので、丸い頭にするようです。「同じ白い布をすぽツとかぶつた様に……」というのはよくわかりませんが、雨合羽のポンチョのような姿でしょうか。そうであるならば、昨今のてるてる坊主を思わせるような姿です。

 表紙の絵を見てみましょう(★図1参照)。描かれているのは、てるてる坊主が風神と一緒になって、辺りを覆う雲を追い払おうとしている、そんな劇中の一場面。てるてる坊主に扮した人物は、先述したような「白い布で頭をつゝみ、同じ白い布をすぽツとかぶつた」姿をしています。
 ただし、「すぽツとかぶつた」首回りに広がる布は、肩のあたりまでしか届いていません。赤い服が丸見えです。裾が下のほうまで長く伸びた昨今のてるてる坊主とは、かなり違った姿をしています。

⑥-2、町田桜園〔編〕『てる〳〵ぼうず』(1927年)

 前掲の「かいゝ歌劇」シリーズは第2編まで出版されたところで、関東大震災により中止を余儀なくされます(傍点は筆者。以下同じ)。その後、「かいゝ歌劇」シリーズとして改訂されて復活し、6編まで出版されたようです。
 復活後のシリーズでも第1編には『てる〳〵ぼうず』が択ばれました。昭和2年(1927)の発行。題名の「坊主」が親しみやすく平仮名に変わっています。内容の大筋はそのままですが、細部に改変が見られます。注目すべきおもな変更点は3点。
 1点めは呼び名をめぐって。前掲した「花子、太郎のうた」の冒頭部分、呼びかけが「てる〳〵坊主ばうず、てる坊主ばうず」から「てる〳〵ぼうさん、てるぼうさん」に変わっています。
 2点めは材料をめぐって。お話の冒頭で事前準備について次のように書き加えられています。「ステージ装置さうちなにもいりません、用意よういとしてはかねて紙製かみせいのてる〳〵ぼうずを数個すうここしらへておきます」。やはり、複数個のてるてる坊主が作られており、その材料は紙だったことがわかります。
 3点めは姿かたちをめぐって。歌劇でてるてる坊主に扮装する際の身なりが、「白いきれで頭をつゝみ、同じ白いきれをすぽツとかぶる」と説明されています。改訂前は「白い布」とされていましたが、改訂後は「白いきれ」に変わっています。

 注目したいのは、その姿かたちを示した挿絵が加わっている点(★図2参照)。顔には眉・目・口のようなものが書き入れられており、首を紐で縛られているようです。人間がなかに入っているためか、胴体の部分はやや長めです。
 表紙の絵も変わっています(★下記の図3参照)。描かれているのは、てるてる坊主を作っている劇中の場面。

 テーブルのうえに紙と綿が用意されています。姉の花子が作っているてるてる坊主は、綿を紙で包んで頭としたようで、首の部分をひねるように絞ってあります。すでに3個めを作っている最中ですが、材料の紙はたくさん残っているので、まだまだ作られそうです。
 弟の太郎は窓から外の様子を見ています。空もようを気にしているようです。窓の外には星がまたたいています。できあがったてるてる坊主は、おそらくこの窓際に吊るされたのでしょう。

⑦、川路柳虹『はつ恋』(1925年)

 川路柳虹りゅうこう(1888-1959)は現在の東京都港区生まれの詩人。幼少期を淡路島(兵庫県)で過ごしました。
 大正14年(1925)に、それまでの10年のあいだに書きためた詩の一部を集め、『はつ恋』と題して発行しています。「温室の花」と名付けられた一群の詩のなかに「てるてるぼうず」と題された1編があります[川路1925:291-292頁]。

てるてるぼうず(童謡)
 
てるてるぼうず、
てるぼうず、
 
雨のこやみの夕かたに
ちよいとのぞいたお天日様てんとう
 
明日あしたてんきになあれ、
なれ、なれ、なあれ、
 
てるてるぼうず、
てるぼうず。
 
もしもてんきにならぬなら
ぶつて、ぶつて、ぶつてやあれ。

 川路柳虹は例言のなかで、この『はつ恋』を「小曲詩集」と呼んでいます。また、詩「てるてるぼうず」の題名の下には、「(童謡)」と記されています。そのため、曲が付けられていた可能性もあります。ただ、わたしの管見の限りでは曲は不明で、わかっているのはこの詩(歌詞?)のみです。
 詠われているのは、てるてる坊主に翌日の好天を願う情景です。降っていた雨が小康状態となり、雲間から太陽が少しだけ顔をのぞかせている夕方。
 てるてる坊主に対して「もしもてんきにならぬなら ぶつて、ぶつて、ぶつてやあれ」と脅しています。「ぶつて」を3回繰り返す執拗さ。てるてる坊主をぶつという作法は昨今ではなかなか見られませんが、明治・大正期から昭和の初めにかけては散見されました(★表2参照)。

おわりに

 本稿では、以前に引き続き、いまから100年ほど前のてるてる坊主を紹介しました。大正後期から昭和初期にかけての事例4点です(★表3参照)。

 呼び名は「てるてるぼうず(てる〳〵坊主・てる〳〵ぼうず)」がほとんどですが、長崎の事例では「日和坊主」(⑤)です。祈願の作法は、酒(⑤)やごちそう(⑥-1、⑥-2)をあげたり、ぶつぞとおどしたり(⑦)とさまざまです。
 とりわけ注目しておきたいのが姿かたち。てるてる坊主研究所で収集してきた資料をもとに、姿かたちの変遷の歴史をおおまかにたどってみると、てるてる坊主は「着物型」から「スカート型」へと移り変わってきました。
 かつて見られたのは着物を着て帯を締めた姿。これを「着物型」と名づけておきます。いっぽう、昨今見られるのは長く伸びた裾をヒラヒラさせた姿。こちらは「スカート型」と名づけておきましょう。
 着物型のてるてる坊主が主流だったのは、19世紀半ば(江戸時代末)から20世紀半ば(昭和30年代前半)にかけての100年ほどのあいだ。その後、昭和30年代前半を過ぎると、昨今のようなスカート型が主流となりました。
 ただし、着物型主流のさなかから、スカート型はわりと早くからひそかに姿を見せ始めています。わたしの管見の限りでは、最も早い時期に確認できるスカート型は昭和14年(1939)の事例(★詳しくは「【てるてる坊主動画#8】てるてる坊主図録Ver.2.1 1789年~1941年」参照)。

 そうしたなか、さらに時代をさかのぼって注目したいのが、本稿で紹介した町田桜園による歌劇集(⑥-2)です。発行されたのは、着物型が主流だった時代の真っ只中に当たる昭和2年(1927)。それにもかかわらず、挿絵にはスカート型を思わせる姿のてるてる坊主が散見されます(★図2と図3(再掲)参照)。

 もとより、この2例をスカート型と見なすのは早計に過ぎるかもしれません。
 先述のように、図2はてるてる坊主役を演じる際の衣装の例。前掲した図1と同様に劇での扮装であるため、デフォルメや装飾が加えられている可能性があります。当時のてるてる坊主の姿かたちを、忠実に反映しているかどうかは疑問です。
 いっぽう、図3のてるてる坊主についても、製作の途中であるため完成形は不明です。のっぺらぼうな顔には目鼻を書き入れるのでしょうか。そして、胴体の部分はこれでできあがりなのでしょうか。
 作り手の手元を見ると、材料の紙がまだたくさん用意されています。ひょっとすると、この残った紙で着物を折って、これから着せるのかもしれません。見かたを変えれば、かつて見られた着物型から着物を脱がせた姿が、昨今見られるスカート型のてるてる坊主と言えるでしょうか。
 てるてる坊主の姿かたちの変遷は、今後も注目し続けたい課題です。着物型が姿を消した時期、あるいは、スカート型が姿を現し始めた時期はいつなのでしょう。また、着物型からスカート型に移り変わった理由とは。いずれ、稿をあらためて検討する機会をもてればと思います。

参考文献

【全体にかかわるもの】
⑤、田中田士英 「小学生も有する俗信」(土の鈴会『土の鈴』復刻版 第15輯、村田書店、1979年(原本は本山豊治ほか〔編〕、1922年))
⑥-1、町田桜園〔編〕 『てる〳〵坊主』(かあいゝ歌劇 第1編)、盛林堂、1923年
⑥-2、町田桜園〔編〕 『てる〳〵ぼうず』(かわいゝ歌劇 第1編)、盛林堂、1930年(初版は1927年)
⑦、川路柳虹 『はつ恋』、新潮社、1925年

・古賀十二郎 「長崎方言集覧」(長崎市役所〔編〕『長崎市史』風俗編 下、清文堂出版、1967年(初版は1925年))

【表1にかかわるもの】(白抜き丸数字は表のなかの№に対応)
❶、三省堂編輯所〔編〕 『日本百科大辞典』第7巻、三省堂書店、1912年
❷、落合直文ほか 『言泉』、大倉書店、1927年
❸、新村出〔編〕 『辞苑』、博文館、1935年
❹、下中弥三郎〔編〕 『大辞典』第18巻、平凡社、1936年
❺、新村出〔編〕 『言林』昭和廿四年版、全国書房、1949年
❻、福原麟太郎・山岸徳平〔編〕 『ローマ字で引く国語新辞典』復刻版、研究社、2010年(原版は1952年)
❼、新村出〔編〕 『広辞苑』、岩波書店、1955年

【表2にかかわるもの】(白抜き丸数字は表のなかの№に対応)
❶、姉崎正治 『宗教学概論』(早稲田叢書)、東京専門学校出版部、1900年
❷、佐藤賀陽(賀陽生) 「各地子供遊」其124 信濃子供遊(『風俗画報』346号、東陽堂、1906年)
❸、愛子 「天気か雨か」(『少女の友』11巻14号、実業之日本社、1918年)
❹、川路柳虹 『はつ恋』、新潮社、1925年
❺、信濃教育会北安曇部会〔編〕 『北安曇郡郷土誌稿』第4輯 俗信俚諺編、郷土研究社、1932年


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