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自然体を偽るよりはぎこちないほうがリアル

こだわりをもって生きるのは大変に難しいことだが、本人が意図していないこだわりに見えるものは無自覚であるからこそタチが悪く、簡単に捨てることができないから厄介。

例えばコーヒーを飲むのが好きな人が、本人がおいしいものを追求しているだけで外野からはマニアックだったり、こだわりが強い偏屈な人間に思われてしまう様なもの。自分としては当たり前のことが周囲からは奇異に映ってしまうことはある。

結局のところ、自分の人生の変わりは誰も送ることができないのだから好きにしたらいいはずなのだが、それでも周囲と関わらずに生きていくことは難しいから、ありのままでいることが簡単ではなくなってしまう。

そんなの気にしないで好きにすりゃいいのだろうし、達観したりスルーできる人はしているのだろうが、外からやいのやいの言われるのが億劫な、性格の悪い小心者たる私は嫌だなぁと思ってしまう。


私は多趣味ではなく、サッカーやら音楽が好きな程度で、外見に反映されにくいからまだいいが、ファッションやらタトゥーやらだと、外から目につきやすい本人の自然を人からあれこれ言われやすくてしんどそうだなと感じる。逆に服飾にはあまりセンスもこだわりもないから、ああ奇抜やなぁと私は感銘を受ける人も、他の人からしたら眉をひそめるなんてことも、、、。

人は人、自分は自分と思える人が増えたら、本当の意味での個人主義やら尊重がうまれるだろうか。そうなったら、そうなったで私は別のことを気にしそうな気がするが、まあ無理に繕う自然体なんかよりも、ギクシャクして、うっといしいなぁと苦い顔しているくらいがリアルで良いのかもしれないがね。

あるがままで生きられない世界でも、まあまあなんとか転がりたいのです。自然でなくとも、歪でもね。

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