本。奇書の世界史

今日は本の話。『奇書の世界史』(三崎律日、KADOKAWA)を読んだ。

「奇書」とは何なのか。本来?と言えばいいのか中国では「優れた本」に対して使う言葉らしいのだが、日本では「奇妙な本、奇抜な本」という意味で使われている気がする。

世の中いろいろと「奇書」と呼ばれる本があるわけだが、本書では「数な運命を辿った物」、略して「奇書」を紹介している。昔は名著と言われていたが今見るととんでもない内容だとか、昔は悪書と呼ばれていたが今は名著と呼ばれているとか、そういう本を集めた一冊である。

元々、ニコニコ動画やYou Tubeで投稿していた内容を一冊の本にまとめたものらしい。動画の方は全く見たことが無いのだが、一度見てみたいなぁと思った。まぁつまり、面白い本だったのである。

まず、紹介される本のジャンルが様々で驚いた。最初に紹介されているのは「魔女狩り」についての本で、その次はペテン師が妄想で書き上げた『台湾誌』という本。かと思えば明治時代の偉人が書いた新聞のコラム(?)『野球と其害毒』というものも紹介していたりする。とにかく幅が広い。

内容も、本の内容そのものに加えてそれが書かれた時代背景等も書いていてわかりやすかった。私は各時代について全く詳しくないので、著者がまとめてくれたものが正しいかどうかの判断ができない。歴史というのはとても大きなものだし、少なくとも本にまとめられたことが全てではなく他の要素も絡んだ上での結果だと思う。だから書かれたことだけを鵜呑みにするのは危険だと思うのだが。著者の目で見た歴史、背景を読むことができたのは面白かったし良かったと思う。

3冊目の紹介を読んだ辺りからだろうか。「この奇書たちに共通することは何だろう?」と自然と考えながら読んでいた。そしてふっと出てきたのが、

「人は書きたいものを書き、読みたいものを読む」

ということだった。
奇しくも最後の解説を読んでいると

語り手は語りたいことを語るし、聞き手は信じたいものを信じる

と解説者の方も同じようなことを書いていた。

結局のところ、「本」「文章」というのは、そういうものなのだと思う。何かしら書きたい理由があるから書く人がいる。読みたい人は自分が読みたいように読む。

それが政治的に使えるものなら大々的に利用されることもあるし、逆に世に出ないようにされることもある。著者が意図しないところで読者がヒントを得たり感銘を受けて、後の技術の発展に繋がったりもする。

何がどう転がるかはわからない。万人の目に触れれば触れるほど、時間が経てば経つほど、著者の意図とはかけ離れたものになっていきやすいのかもしれない。読んだ人の数だけ、覚えている部分も感じたものも違うのである。

それは、noteに書くこの文章も同じ。基本的にこの文章を読んでいる人は私のこのページにアクセスした人だけだろうから、読む文章自体は皆一緒である。しかし人それぞれ、受け取り方は違うだろう。

それが文章の面白いところで、怖いところでもあるのだろうな。

いろんな本や背景を知れて面白かったと共に、「文章」というものについてつい考えてしまう良い本だった。


ではまた明日。