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小説 空気 13 慣れ

その日の放課後、朝顔の苗を、兎小屋の後ろから用具倉庫の後ろへ植え替えた。加賀さんは家の手伝いがあるからと、帰りの挨拶をしたらすぐに帰った。私は朝顔の苗の伸び始めた蔓がしっかりフェンスを掴めるように植えた。

ランドセルを取りに教室へ戻ると、まだ先生はクラス一人一人の理科の観察ノートに花丸とコメントを書いていた。

私がランドセルを取りに教室に入るないなや、
「佐々木さん、あなた今日は何をしていたの?」
と先生は訝しげな表情でこちらを見た。
「あ、えーとえーと、内緒なんです。」
私はさようならだけを言って教室を出ようとしていたので、口ごもってしまった。
「え、何ですって?」
先生の質問を適当にかわそうとしたが、そうもいかないようだ。
「私、何も壊したりはしてません。壊すの反対。」
私は少し観念して、内緒の範囲内で最大限の説明をした。
「壊すの反対?」
先生はこんなにいい子になった私をまだ信じていないらしい。先生の表情はどんどん曇っていった。
「ちゃんと咲いたら、先生にも見せます。でも今は内緒。」
そう言うと、自分の机へ駆け寄り、ランドセルを背負った。
「咲くって?」
慌てている私に先生はそうつぶやいた。
「あっ。」
私はお叱りを受ける心の準備をした。目を閉じて、耳を塞ぐイメージをした。しかし、
「まったくあなたは。他の先生に見つかるんじゃないよ。」
先生は意外にも安心しているようだった。少し苦笑いをしながら、ペンを持ち直して、再びノートにコメントを書き始めた。
「はい。」
私は拍子抜けしながら、先生の血管の浮き出た皺のある手を暫く眺めていた。

「先生、席替えありがとうございました。」
授業が始まるといつも思い出す、伝えたいと思いつつ言えていなかったことをやっと言うことができた。
「いいえ。」
先生はとても忙しそうだった。しかし、思い切って続けた。
「それから、大きな手提げ袋も持ってきました。」
「あらそう。」
先生は手を止めて、振り返り、椅子の背後の棚の戸を開けて、本を3冊取り出した。2冊はとても大きく厚く、確かに重そうだ。
「あなたにもらってもらいたいなと思って。」
先生は、広げられた誰かの観察ノートの上に3冊の本を並べるようにして置いた。本はルノアールの画集、シャガールの画集、そして「やさしい論語」という本だった。
「今度小さな家に引っ越すの。捨てようかと思ったけど、この前の放課後、あなたと話していたら、あなたにもらってもらいたくなったの。」
先生はメガネを取って、布でメガネを拭き始めた。
「先生のお家、遠いのですか?」
「いいえ。昨年主人も亡くなってしまって、今年私も60歳。もうおばあちゃん。もう物を集めようと思わなくなったの。むしろ、集めていたものも、要らなくなったのよ。」
先生はメガネをかけて、右の肘をついてこちらを見た。
「でもなぜ私に。」
「確か、4月の最初の図工の時間に、それぞれ好きなように絵を描いてという授業したわよね。屋根の上でカラスとフクロウと女の子が月を見ている絵、良かったわよ。 どことなく似てるなとも。それを思い出してね。」
「あ!ありがとうございます。」
「夏休みに色々また描いたり作ったりしてみたらいかが?」
「はい。」

クラス全員の絵が廊下に貼り出された時、先生が声をかけてくれた事を思い出した。誰かが私の絵を見て、
「フクロウがこんなに小さいのになぜカラスがこんなに大きいの?それに、女の子もカラスもフクロウも、焚き火の上にいるみたい。焼けちゃうよね。変だね。」
と言うのが聞こえてきた時、
「気にしないで。」
と先生が声をかけてくれた。絵が下手な私を可哀想と考えたのだろうと思っていたけど、そうではなかったようだ。ちゃんと屋根の上にいるところって分かってくれてた。嬉しくて笑みが抑えられなくなった。

「もう一冊の本は何ですか。」
「やさしい論語」という新書を手に取りながら言った。
「論語の本。」
「論語、難しそうな本ですね。」
「そうね。読めるところからでいいのよ。」
本の真ん中辺りを開いた。そこには漢字ばかりの、平仮名も無い文章が書かれていた。次のページには、前のページに書かれていた漢字だけの文章の意味が日本語で書かれていた。日本語の文章は読めそうな気がした。
「あなたに限らず、みんな正義とか正しいとかいう言葉をよく使うけれど、本当にそうかどうか、よく考えてみる必要があるのよ。本当のことは多数決で決まるものでもないの。どんなに沢山の人が正しいと言う事でも、本当にそれが正しいとは限らない。」

先日の、休み時間の職員室を思い出した。私が怪我をさせたのかさせていないのか、それを判断する根拠を調べてくれた。私のことを信じてくれてはいなかったけど、私のことを好きではなかったようだけど、そんな感情だけで、先生は犯人と決めつけたりはしなかった。それを思い出してまた嬉しくなった。でもそれを言葉にすることができず、頷くことしかできなかった。

先生は続けた。
「例えば、戦争だって本当はしたくない、してはいけないとみんな分かっていたはずなのに起こってしまった。あんな事は何があっても絶対に繰り返してはいけません。みんなが言ってるから、同じにしておこう、というのは危険なのよ。」 

先生は、あちら側ではないかもしれない。世の中ってそんなもん、とは言わない人かもしれない。お兄ちゃんの事を話してみても良い人なのかもしれない。そう思い始めた。

「先生、私のおじいちゃんも同じ事を言っていました。」
「あらそう。」
少しだけ妙に弾んだ声の私に、先生は淡々と答えた。

「私はよく、おじいちゃんの布団に入って一緒に眠る事があります。おじいちゃんは、終戦から40年以上経っているのに、まだ夢でうなされています。夜中に、冷や汗をかきながら歯軋りをして、唸り声を上げます。そんな時は起こしてあげないと。」

「あら、そう。」
いつも淡々と話す先生には珍しく、少しだけ驚いた様子で答えた。

「うなされているおじいちゃんを見ながら、どんな怖い事があったのだろうと、いつも思ってきました。」
「そうなの。」
「はい。この前、私が殺されそうになったらどうする?と質問したら、戦争の時出来て、良子のために出来ない事があるか、と言われました。上官の命令で従わざるを得なかった、自分だけがしたわけではなかったとしても、したくない事をしてしまった、してはいけない事をしてしまった、と自分にもとても怒っているのかなって。」
「そうですか。」
私を見ている先生の目の瞳孔がわずかに開いて、私の額の辺りをを貫通した先、ずっと遠くのものを見るような目をした。

「先生。死ぬのも怖い。生き残ってもとても苦しい。戦争はとても怖い事なのですね。」
「そうね・・・。」
先生の遠い目が、ゆっくりとここへ戻ってきた。

「先生はね、今の日立市で生まれ育ったの。日立という町は海に面していて、しかも横から見るとお雛様の段のようになっていて、海から土地が良く見える地形なのよ。日立は軍需工場が沢山ある街で、空襲は連日のように激しかった。疎開した農村から、海に浮かぶアメリカの大きな戦艦から砲撃されて燃えていく街を何度も見たわ。」
「お家も?」
「ええ。」

「戦時中は私たち女学生たちは工場で労働があってね。労働からの帰り道、機銃掃射に遭ったことがあるの。2回。機銃掃射って分かる?」
「はい。近所のおばあちゃんから聞いたことがあります。戦闘機が陸を歩いている敵国の人を見つけると、急に低空飛行してきて、逃げる人たちを狙い撃ちすしてくる。初めて聞いた日は怖くて眠れませんでした。先生は2回も?」
「ええ。どちらも同級の子と畑道を下っている時だったの。1度目は、低空飛行してきた戦闘機に気付いて5メートルくらい離れた林に逃げ込んだの。林に入るや否や、一緒にいた子が私を突き飛ばした。次の瞬間、私とその子の間を機関銃が撃ち抜いて飛び去っていったわ。」
「一緒に走っていたら・・・。」
「そうね。死んでいたかもしれないわね。」


「2回目は?」
「そうね。本当なら私が死ぬはずだったように思うわ。」
「どういうことですか。」
「戦闘機に気付くのが遅かったの。また農地の中の道を2人で歩いていたの。1回目の子とは違う人だったのだけど、逃げる時間がもうほとんどなかった。私は咄嗟に、もう一人の子から離れたの。でも私が走った方には背の低い草原しかなかった。上から見たら私は丸見えよね。もう逃げられないと思った。でも、私ではなく、林の方へ入ったもう一人の子だった。」
「どういうことですか?」
「もう一人の子は林の方へ走ったの。でも、飛行機が飛び去った後に、木陰に倒れたその子がいたの。腰から肩まで斜めに3発撃ち抜かれてた。」
私は怖くなって言葉も出なくなった。
「どうして撃たれたのが私ではなかったのか、とまだたまに思うの。」
何か言いたかったが、やはり頷くことしかできなかった。
そんな私を見て、先生は急に苦笑いして言った。
「こんな話しちゃいけなかったわね。」
先生はまたコメントを書き始めた。

私は、怖かったけれど、先生の体験を想像した。1度目と2度目の機銃掃射を。数回繰り返し想像した後、どうしてこの経験を忘れられないで、先生は何度も思い出してしまうのかを想像した。
「先生、聞きたい。お話聞きたいです。」
今度は少し先生が困った顔をした。それでも忙しそうな先生に向かって続けた。
「先生もずっと考えているの?どうして狙いやすい先生でなくて、木の下にに逃げた子が撃たれてしまったのかなって。」
先生は驚いた表情で顔を上げた。
「・・・ええ。運が良かった、そう思う事もできる。・・・けど。」
先生は子供に言って良いことなのか考えているようだ。でも先生、私はそこが聞きたいのです。こんな気持ちを込めて相槌を打った。
「けど?」
少しの沈黙の後、先生は話した。
「機関銃を操作した人の気になってみると、猟師がウサギを撃ったような、そんな感覚を感じるような気もするのよ。」
「どういうことですか?」
「要はね、もし機関銃を操作していた人が、慣れていない人だったらどちらを狙ったかしらと。きっと、草原を走る丸見えの私よね。」
私は頷いた。
「でも実際は違った。狙いにくい方をあえて選んだ。恐ろしいことも回を重ねると慣れて麻痺して、そのうちに娯楽とまではいかないとしても、うさぎを標的にするくらいの感覚で楽しむようになってしまうのかもしれない。人には誰にも恐ろしい部分があるのかもしれないと思うの。」
「先生、機関銃を操作していた人が違う人だったら、とかそういうことを考えたりしますか?」
「そうね。そして、どうして生きてるのかしらって。やはりたまたまなのかしら。運が良かったのかしらねぇ。」
独り言を呟くように言った。

先生もまだ怒っているのかもしれない。命を弄ばれた、先生の悔しい気持ちが伝わってきた。
「先生、ずっとずっと悔いている人もいると思う。」
どうしたら癒せるのだろう。先生もおじいちゃんも。そんな祈りのような気持ちになった。
すると先生も、私にも分かりやすいように言葉を選びながら答えた。
「そうね。人によっては、戦地から帰って、人を殺した事を武勇伝のように話す人もいる。方や、あなたのおじいさんのようにずっと心の中で戦い続いている人もいる。あなたのおじいさんはとても辛い方を選んだ。それは尊い事だと思うわ。」
私はまた頷いた。
「先生は今日、あなたのおじいさんの話を聞けて、癒されたような気がしたわ。おじいさんを助けてあげて。」
先生は少し微笑んだ。
「はい。」
私も家へ帰ったらおじいちゃんに話さないと、と思った。

論語の本を手提げ袋に入れようとした時、急に思い出した。「最強」になる方法を教えてもらわなければ。
「あの、先生、論語には、この前先生が話していた、「最強」というか、戦わずに勝つとか、戦わずに解決する、という方法が書いてあるのですか?」
「そうねぇ、この本には書いていないかもしれないわね。でもね、最強になるためには、まずは自分が潔白でなければならないと思うの。」
「潔白?」
「何と言うのかしらね、ズルをしない、弱いものいじめをしない、よくないと思う事をしない、出来るだけ嘘をつかない、そういう生き方をするということかしらね。」
「どうして良くない事をしないということが最強に必要なのですか?」
「そうね、そうでないと、いつか強い人になったとしても結局は身を滅ぼすことになる、身から出た錆ということになるの。」
強い人って何だろう、身を滅ぼすって何だろう。先生の言葉を想像することが全く出来ずに困惑していると、先生が私の頭を撫でながら言った。
「あなたには少し難しいかしらね。」
また先生は苦笑いをした。
「はい。でも・・・。」
何とか食い下がった。分からないかもしれないけど、私にも分かりたい事情がある。今度お兄ちゃんと会う時までに、考えておかないといけない事があった。
先生はそんな私に、また言葉を選んで話してくれた。
「とにかく、強い人になりたいとあなたが思うなら、どんな時も、どんな人にも、出来る限り親切にすることです。助けることですよ。」
「どんな時も?どんな人にも?」
「ええ。論語にはそのような大切な事が沢山書いてあるのよ。」
強い人と親切と助けるはとても繋がっているらしい。論語には強い人になる方法が書かれているらしい。そうだったのか。
「そうですか。先生、ありがとうございます。」
私が3冊の本を手提げ袋にしまい終えると、先生は窓を閉め始めた。そして、カーテンを束ねながら、メガネを少しあげて、一度だけ涙を拭ったのが見えた。
私は先生の背中にさようならをして教室を出た。
先生の悪夢もまだ終わっていない。そう思った。

帰り道の横断歩道を渡り終える頃には、すっかり夕方の空になっていた。
森の方から、あのカラスの
「カアカアカアカア。」
という声が聞こえた。

お兄ちゃんは、慣れていたのかな。

あの日のことを思い出した。

何も見えなかったけど、お兄ちゃんは楽しそうだった。
少なくともそう聞こえた。

きっと初めてではなかった。

もし慣れているなら、私の他にも眠らされている子がいるのかな・・・。

それなら、今度お兄ちゃんが現れたら、何と言おうか。

どんな言葉を選んだとしても、その目的は、この二つになった。

もう私の前に現れないでほしい。
そして、もう誰のことも眠らせないでほしい。

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