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イノシシ騒動と京都の友人

今年の夏、京都市中にイノシシが出没して街中が騒然となった。

警察も出動し、捕物劇となったようだが、その様子をハラハラしながらリアルタイムで見守っていた人が一人。

『ホンマ、どないしよう。捕まえられて殺されはったりしたら』
「まだ捕まってないの?」
『捕まらんで嵐山とか宇治の山奥の方に帰ったほうがええと、念じたねんで。イノシシも人も危ないやん』
「野生動物相手にそれは無理でしょ。これだけの騒動になっていて、怪我人も出てるし、捕獲しなきゃ」
『そうやけど、それはわかるんやけど、可哀想や。ちょっと遊びに来たくて鴨川泳いできたら、人間に囚われてあの世行きやなんて。鴨川が三途の川になってしもうて、ホンマに・・・』

涙ぐんでいる。
と、その前に!

「それより、〇〇ちゃん(京都の友人のこと)! 仕事中に電話してきちゃダメでしょ!真面目に仕事して!」


京都の友人はミステリアスな空気を漂わせていて、見た目から感情を推し量れないのだが、気を許しているごく少数の人には意外にも喜怒哀楽を露わにする。仕事では静かに対応しなくてはいけないから、オフの時はかなり素の姿を見せるというのか。

本人曰く、「吉田兼好の『徒然草』にな、物言わぬは腹ふくるるわざなり、という言葉があんねん。言いたいことを言わへんと腹に不満がたまるで、という意味や。言い換えれば、自分の感情を押し殺すことは身体の害になるっちゅうこと。せやから、適度に感情を発散するんやで」、なのだそう。

なので、可愛い子供や動物を見ると、「可愛ええなぁ、可愛くて齧りたいねん」と悶絶し、嫌味を言ってくる人がいたら、「それはあんさん、どういうことや。もう一度話してもらえますやろか、お互いに腹を割って話そうじゃないの、えぇ?」と啖呵を切ったり。私の祖母が亡くなった時は淡々と冷静に「施設の近くにある葬儀屋の手配して、誰に連絡取るか考えや。大丈夫やで、うちがついてるで」と涙声で指示してくれたり、人間味あふれる人柄だ。

ころころと表情を変えていくミステリアスな京都の友人を目の当たりにすると、感情を持つと言うことは素晴らしいことなのだと思う。何せ、私はあまり喜怒哀楽が少なく、怒っているのに気付かれず、喜んでいるのに気付かれず、悲しんでいてもわかってもらえないという、あまり感情が顔に出ないので、周囲からすれば鉄の女。そんな私だが、京都の友人と話をする時はつられて私なりに喜怒哀楽を出せているように思う。HSP気質は感情を内に秘めやすい。自分の感情を押し殺し過ぎて、自律神経を壊して病気になったことがあるので、適度に感情を開放するということも大切だと実感していて、京都の友人と話すときは私も素の姿で感情を出していこうと思っている。


さて、翌日のこと。

『eve!おはようさん。あのイノシシのことやけどな、捕獲された後に山に帰されたんやって。良かったわ。射殺されたら可哀想やろ。安否がわかるまで全然眠れへんかったわぁ』
「良かったね、〇〇ちゃん。ホッとしたね」
『京都に平和が戻ったわ。これで安心して仕事できるねん』
「〇〇ちゃん、仕事中に電話かけてきちゃダメじゃない! 」
『大丈夫や! ちゃんとイノシシの件で連絡せなあかんところがあると言ってあるから』
「あかんやろ!同僚に迷惑かけちゃ。早く、仕事に戻りなさいってば!」


ここから数日間、京都の友人の話題は山に帰って行ったイノシシのことで持ちきりだった。何をそんなにイノシシに感情移入しているのだかわからないが、わかったことは、友人の働く場所は温かい人たちに恵まれた良い環境なのだということだ。

《終》


この度はサポートして頂き、誠にありがとうございます。 皆様からの温かいサポートを胸に、心に残る作品の数々を生み出すことができたらと思っています。