旅する修復士 見習い
水と龍 まだヨーロッパ譚の続きもまで書けておらず、季節感も全くない話で大変恐縮なのだけれども。 いつかこのことも書こう書こうと思いながら、すっかり時間がたってしまった。 ========================== 昨年の秋から仕事の都合で、山奥の集落に数ヶ月住まわせていただくこととなった。 そこは、茶事をする方が、わざわざそのために汲みにこられるほどの『銘水』が湧き出ているような場所で、山奥と聞いて想像するその少しばかり手前といった処だ。
『あはい』と移動 1 どうやら私はtipicalな日本人らしくない ということをウィーンにきて改めてわかった。 私の名前firstnameは、かの有名なアーティストのおかげで、 戸惑われる余地もないほどにtipicalなものだが、 外見や体格がどうも違うらしいのである。 ロシアからこちらへきて学んでいる大学生のルームメイトと その友人達と、日中韓(この字面の並びにすら意識を向けないではないが、今はこのorderで)の顔の見分けをつけるのはとても難しい
明るい空白 この日曜日に、滑り込みで川俣正先生の作品をみに 金沢の21世紀美術館に行ってきた。 懐かしさに包まれながら、船底のような床の傾斜に、柱に、 記憶も心も揺れるような感覚だった。 その後、同時開催されていた展示 『Death LAB Democratizing Death -死を民主化せよ-』 もみることができた。 ============================ この夏、父方と母方両方の祖母が立て続けに入院した。
voidと西田幾多郎 2 季節の移り変わり、確かさというもの。 野の花が咲いて、また居なくなって、それを悲しんで。 でもまた土の中で確実に、次の季節への準備をしていて、 場所は変わるかもしれないけれど、 また芽吹いて、会うことができて。 このたしかさ。 おそらくこの確かさは、自分の人生よりももっと長く続いていくだろうし、 種(しゅ)によっては、過去から未来に通じて、永遠というものに果てしなく近い道のりを歩んでいる植物もあるだろうし、かなり普遍的なものとして
voidと西田幾多郎 1 『西田幾多郎の新たなノート50冊発見』 という記事が、 5月の終わりにこちらの地方紙一面に掲載された。 西田幾多郎といえば、京都で名所中の名所 銀閣寺に続く 『哲学の道』である。 もちろん、哲学書の『善の研究』も読んだことはないし、 大学生時分は銀閣寺よりも、断然南禅寺付近をうろうろとしていたので、あまり馴染みはない。 ただ、少し懐かしい名前に再会したような心持ちと、この方はかほく出身だったのか、ということで記事を読み始めた。
花房 けぶそ ここ数日、汗ばむくらいの陽気。 先週の日曜は、山歩きで雨に濡れ 体の芯から冷え切ったのが嘘のようだ。 久しぶりの雨の山は、鮮やか過ぎるほどのおびただしい緑色と 生命の湿度のようなものが溢れかえっていた。 最近の気に入り、ムシカリから始まり、ウツギ、チゴユリに藤、 そしてもうすっかり大きくなったワラビの葉っぱ、シダ、谷ふさぎ… 銀閣寺の花士であった方をお招きして、山歩きをしながら花を愛で、 花を山からいただき、献花するというイベ
石川のこの地に移り住んで3度目の春がきた。 まだ肌寒い日があるにしろ、 もうすっかり春と言い切って差し支えない柔らかな空気に変わった。 たった二週間ほど前には、少し山の方面に車を走らせると 林の奥に固くなった残雪や、除雪で積み上げられた雪の山が まだ残っており、今年の雪の激しさがそこかしこに残って いるようだった。 ようやくの春。 今まで様々な土地に居してきたが、ここまで四季が鮮やかに 別れている土地は初めてではないかと思う。 春の訪れは、体が強張っていた