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花房 けぶそ

花房 けぶそ 
 
ここ数日、汗ばむくらいの陽気。 
先週の日曜は、山歩きで雨に濡れ 
体の芯から冷え切ったのが嘘のようだ。 
久しぶりの雨の山は、鮮やか過ぎるほどのおびただしい緑色と 
生命の湿度のようなものが溢れかえっていた。  
 
最近の気に入り、ムシカリから始まり、ウツギ、チゴユリに藤、 
そしてもうすっかり大きくなったワラビの葉っぱ、シダ、谷ふさぎ…
 
 
銀閣寺の花士であった方をお招きして、山歩きをしながら花を愛で、 
花を山からいただき、献花するというイベントに参加した。 
花士、はなのふ 
というものを今回初めて知ったのだが、 
この万物に花を手向けるという行為にどうしても心惹かれるものがあり、 
思い切って参加した。 
今の自分にはかなり高額な参加費ではあったが、 
その目に見えないところへの畏敬の念を表す行為 
というものに惹かれてしまう。 
 
そういう性分なのは、もう変わりようがないものだろう。 
 
歩きながらの山中での会話や、そのあとの献花、花あそび。 
 
 
水際10センチメートルに見る、立て花の美しさの集約。 
そして余白をよむ、ということ。 
 
視線の対象を少し変えるだけで、ここまで違う世界が広がるのかということ。 
 
目には見えない 
のではなく 
見ていないのだと思う。 
もしくは見方を知らない。  
  
 
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この辺りの地名で、花房と書いて『けぶそ』 
と読む土地がある。 
 
これは、工房の方たちと行った桜花茶会の後に教えていただいた地名。 
その時は、なぜそんな名前になったのかね、 
なんだかあまり可愛くない呼び方だねという話で終わった。  
 
 
 
花を『け』と呼ぶことは、あるのだろうか。 
調べたら、一般的ではないけれどあることはある。 
 
 
花紋陵 けもんりょうー花の文様を降りだした綾 
 
では、房のぶそは?
 
こんなことをぐるぐると考えていた。 
 
この土地近くを夜運転する時に、ひどい靄が発生することが多い。 
免許を取り立てで、見通せない怖さから、ライトをハイビームにして、 
さらに見えなくて途方にくれたように運転してきた。 
 
その後も度々、靄の中を走ることが多くなり、 
慣れてくるとその不思議な美しさに心地良さを感じるようになってきた。 
 
風の塊が見えるというか、『木の目』があるように風や大気の動きにも、 
『目』のような筋があることが見えてくる。 
普段は意識することのない、大気の塊が横へ流れていく。 
しばらく車を止めて、その流れを見る。 
 
 
けぶそとは「煙ぞ」 
かもしれないとふと思う。 
 
けぶぞ、から転じたのかも、と。
 
ここの地形が大きく変わっていないのなら、 
昔からの霧や靄が発生してたまる所はそう簡単には変わらないことを 
京都の大枝で知っている。 
もしこの加賀の地形がそこまで大きく変わっていないとしたら、 
もしかして、古の人はこの山道で靄がたちこめやすい難所だったことを 
同じように体感していたのかもしれない。
 
 
 
晴れた日は、山のあちらこちらに少し前なら桜が、 
今は藤が盛りとなって咲いている。 
 
桜の時は、山のあちらこちらから美しい色の靄が立ち上ってくるようだった。 
旅人たちは山を見て、人の気配を感じ取り安心していたかもしれない。 
あそこに立ちのぼっているのは煙か?靄か? 
 
加賀に住んでから、目に見えないものの気配が濃厚になる瞬間が多い。 
垣間見の記録。 
 
 
 

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