水と龍
水と龍
まだヨーロッパ譚の続きもまで書けておらず、季節感も全くない話で大変恐縮なのだけれども。
いつかこのことも書こう書こうと思いながら、すっかり時間がたってしまった。
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昨年の秋から仕事の都合で、山奥の集落に数ヶ月住まわせていただくこととなった。
そこは、茶事をする方が、わざわざそのために汲みにこられるほどの『銘水』が湧き出ているような場所で、山奥と聞いて想像するその少しばかり手前といった処だ。
その湧き水がどこにあるのか確かめようと思っていたが、
日常の細やかなことに紛れて延ばし延ばしとなっていたある日。
いつものように工房へ続く道を歩いていると、イチョウの木の下からどうも水が滲み出ているような気がする。水の滲みは日に日に広がっていく。
どうしたものか、と見ていたのだが、もしかして先日立てた石灯籠を据える際に、水道管に触ったのかもしれないと思い当たった。いつまでも放っておくわけにいかず、市の水道の管轄の方をお呼び立てすることとなった。
町から水道のご担当者と業者の方と、二人がみえた。
二人はしばらくの間、辺りを丹念に調査なさっていたが、どうも原因が見つからないとおっしゃる。
調査には、銀のジョウゴの先を杖のように長く伸ばした道具を、先だけ地面に差し、ジョウゴの口が開いた方へ片耳を押し当てて、土の中の音を聞いていく。
あちらこちらの土の中の音を聞いていたが、
「普通はね、水道管が破裂して水が漏れるとちょろちょろと音がするんだけれどねぇ。」
と顔をこちらに向けられる。
先ほどからその不思議な道具が気になっていたので、私も土の中の音を聞かせていただく。
なるほど、水が流れるような音は一切しない。
シンとしたままだ。
しかし、水は確実に毎日広がっていくのだ。
3人でどうしたものかねぇと立ち話をしていた。
すると突然、すぐ足元から水が『ゴボゴボ!』という音とともに溢れかえってきた。
それは先ほどまで、落ち葉で隠され、、土に埋められ石で塞がれていたのをどかした水道管の掃除用の穴からだった。
3人とも足元が濡れないように慌てて脇にそれたが、全員不思議でならない。
これはこれは。
どうやら浄水槽に溜めている水がある一定の水位に達すると、流れ出てくる仕組みとなっていたようだ。そこで溢れた水が壊れた掃除用の穴から定期的に地面を濡らしていたらしい。
地面にイチョウが張り付いている様はそれはそれで美しかったが、そうも言ってられない。直していただくこととなった。
その3人で途方に暮れてお話しをしていた際に、
興味深かったのが、『湧き水』についての話だ。
この辺りの湧き水は美味しいのか。
という話をしていた時に、水道のご担当者は
「山からの水だからいろんな不純物を湧き水は含んでいる。」と。
「水道水の方が、よっぽど綺麗で純粋な水ですよ。」
純粋な水。
人間の味の美味しさとは、意外と純粋さではなく『雑味』にあるのかもしれないとぼんやり思う。
清濁併せ呑む、という言葉があるように、清いだけでは生きていけないのかもしれない。山からのミネラルや微生物であったり。そういうものが溶け出たものをうまいと感じるのであろう。
茶の湯の方はそういった水を使う。
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若葉の初々しい柔らかな緑に覆われていた山も、あっという間に瑞々しく力強い濃い緑へと変わった。
水の粒が、空気の中に目に見えるのではないかというほどたくさん含まれるようになっていく。
もうこれ以上は含められないというほどたふたふになった空気の層は、何かの弾みで流れ落ちそうになりながら靄になる。
ついに梅雨が始まった。
もう耐えきれないといった風情で、空気の層がいきなり何かの弾みでもち崩し、せきを切ったように大雨となって降り続いている。
限界集落の家は、中にいても外の気配が濃い。
この辺りでは雷が激しい。
そして、雷が多い。
例えば、大雪が降る前の『雪がみなり』、春雷、梅雨時の雷、晩夏の遠雷、立秋過ぎてからの台風の雷。
その凄まじさは、今まで都会では聞いたことのないものだ。
山の帰路を夜運転している時に、山際が光るのをみた。
と、同時に音が轟く。
雷の光で照らされた雲がうねり、それはまるで龍の腹が山の端を擦って音がなったかのようだ。
あぁ、なるほど雷とは龍の腹びれが山の端に当たる音だったのか、
と納得するような圧倒される光景だった。
魚の鱗を剥がす時に飛び散る感覚の音。
龍の鱗。
こうした発想になったのも、この土地に越してきてからだ。
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ある日、定期的な集まりである先生のところへ伺がうと、
みんなが神妙な面持ちで話を聞いている。
どうしたものかと、話を聞いていると、先生のご子息がこの数年、腕の痛みがひどく、それがもう眠れぬほどになったと。
あまりにもひどい痛みで、ありとあらゆる西洋医学に通ずるところにかかり、またその方ご自身が西洋医学の従事者だったのだが、どうにも原因がわからないという。途方に暮れていたところ、ある人から、
「これは龍がついているね」
と言われたという。
私は心の中で、
龍!!
とかなり驚いたのだが、周りの方達は変わらず神妙な面持ちのまま話を頷いて聞いていらっしゃる。
龍がついてしまったのかそれは大変だ、
と何か納得したような雰囲気である。
そして、その後も話は進み、ご子息についた龍はどんなたちのものであったか、色は、などもわかり。最終的に護摩焚きで火とともに龍は離れて空に上がっていき、痛みは嘘のように治った、と。
痛みが取れて良かったという想いと同時に、
私の中では「龍がつく」というのがあまりにも自然に受け入れられてしまったこのコミュニティの在り方に驚いてしまった。
こんなに龍とは身近にいるものなのか、と。
その後、龍にまつわる出来事が続き、そうしたことが無意識にどんどん私の中に、山の端に流れる雲が龍に見えるようにしていったのだろう。
風土というのは、こうして私の中に確実に何かを作っていく。
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西洋医学でも東洋医学でもなく。
何かしらその、目に見えぬ世界は存在して、それを許容するものというのものもあるのかもしれない。
聖と俗、そして目に見える見えないだけではなくて、全て併せ飲むような。
そういったもの。そういった在り方。
それそが私の求めるものに近いのではないかと思う。
人間とはそもそもそういう存在なのである。
清濁合わせもち、一人の中にどちらもあるのだ。
湧き水のようにそちらの方がよっぽど味わい深いに違いない。
人は目に見えるものだけで生きているのではない。
そんな簡単な存在ではない、人間もまた自然の一部なのである。
そういった野生の思考に立ち返らなければいけないタイミングにきているのだと思う。野生に立ちかえるべきなのである。
しかし、野生というと何か勘違いをしてしまいがちだが、野生というのは『野蛮』ということではない。
洗練の粋を極めた茶事に湧き水を使うように、野蛮さとはかけ離れたものだ。
自然をどう切り取り、どう掬い取るのか。
様々な方法でその掬い方を示してくださる土地で、
日々日々、
世界は美しいと驚く。
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