明るい空白
明るい空白
この日曜日に、滑り込みで川俣正先生の作品をみに
金沢の21世紀美術館に行ってきた。
懐かしさに包まれながら、船底のような床の傾斜に、柱に、
記憶も心も揺れるような感覚だった。
その後、同時開催されていた展示
『Death LAB Democratizing Death -死を民主化せよ-』
もみることができた。
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この夏、父方と母方両方の祖母が立て続けに入院した。
今まで、頻繁に会いに行くことができなかった祖母達だった。この9、10月は関西に戻り、できる限りの時間を過ごすことができた。
母は元来気丈で明るい人だが、看病疲れが溜まっているようだった。
「個室から4人部屋に移ったが、あまりにも狭い病室に押し込まれているようで、不憫でならない。」と、母が涙していた病室に入る時は、正直緊張した。
しかし、私が訪ねた時は暖かな日で、柔らかな陽射しに溢れていたせいか、悲惨さは微塵も感じることはなく、むしろ管理の行き届いた明るい空白が目立つ部屋だった。
祖母は、驚くほど小さく、その体のサイズには過不足のないスペースが与えられているような気がした。
「それで、いつ退院できるの?」と、何度も聞く祖母は、祖父と永年暮らした家に高齢になっても一人で住み続けた。これからも戻ってその生活を続けたいという。
もちろん一人暮らしといっても、多くの方の支えがあってからこそ成り立っている生活。
祖母の望みを叶えるためにはどうしたらいいのか。
私が関西に戻って、一緒に暮らしたら叶えらるのだろうか。
ずっと、実家を離れて暮らしていると、こうした時に軽い罪悪感のようなものに改めて向き合わないとならない。
家族との話し合い。親族との話し合いのことを聞く。
2つの病院に見舞いに行き、何度も多くの老人達を見ていると、『管理される死』について、考えてしまう。
例えば、トイレの扉がなく、カーテンで仕切ること。
もちろん安全面として中で倒れていたら危険だからこそだ。
でも、人はどこまでを『尊厳』として求めるのだろうか。
今まで身繕いを丁寧にしていた祖母が、気力と共に『尊厳』がさらさらと砂がこぼれ落ちるようになくなっていくことが、母には見ていて辛いのだろう。
人はどこまで『死』に向かう道を選択できるのだろうか。
そして、人のその選択を尊重できるのだろうか。
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関西に帰省した際は、大きな書店に何店舗か立ち寄る。
ぐるっと一巡して、無意識に目に飛び込んでくる本達。
ベストセラーや本屋の一押しは、目につきやすい。
今回はやはり『ホモ・ゼウス』が潮流としては一押しだろう。
その次に、表の一番いいところにはないものの、どの本屋でも目についたのが、シェリー・ケイガン著の『DEATH 「死」とは何か ーイェール大学で23年連続の人気講義ー』だ。
あとは『終活』関連の本と、聴覚障害についての本が目につく。
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21世紀美術館での『Death LAB Democratizing Death -死を民主化せよ-』は、コロンビア大学に2013年に創設されたラボの指導のもとに構築された展示だ。
同大学の建築学科を大学院まで修め、自身も現在准教授であるカーラ・マリア・ロススタインが創設したDeath LABデスラボは、建築を切り口としつつ、あらゆる角度から『死』についての考察を続けている。
人口が過密化し、土地高騰していく世界の都市部で、『死』というものと、その故人の記憶と、悼む人の想いをどう共存させていくのか。
『死』は、日常の幸せを乱すものとして、忌み嫌われ、目につかないところへ、日常から切り離された場所へと追いやられたのは、なんと20世紀からだという歴史的側面。
ローマ時代ごろから19世紀までは、墓地は、公園と同じような存在で、ピクニックをしたり、散歩をしたり、馬車に乗ったり、野外彫刻が置かれた彫刻庭園としての機能を持っていたという。 墓場と日常というのは相入れないものではなかったのだ。
次に不動産としての墓場についての側面。
墓場の場所が足りなくなり、どんどん郊外に広がっていくしかないということ。 そうした草原に個人の墓標が、フラットなプレートで埋め込まれ、一見するとただの草原にしか見えないように景観をデザインしたもの。さらに墓所にすることで、自然保護にもなるという。
アメリカ退役軍人省なるものが存在し、従軍者の遺体を埋葬する墓地が足らなくなってきており、ニューヨーク州北部に2014年、132エーカー(約16万坪)もの土地を購入したこと。 こうした土地不足の問題とともに、どんどん墓所は人の日常から遠ざかって行くことが問題だとLABは提起する。
他にも、宗教や文化背景の多様さをどこまで尊重しつつ、 『死』への悼みかた、弔い方、埋葬の仕方にも言及する。
ことさら興味深かったのが、
『埋葬の仕方についてのオルタナティブ』についてだ。死とエコロジーの側面。
日本では一般的な火葬は省スペースではあるが、燃料が必要なこと、二酸化炭素の排出があるためエコロジカルではないという。
他の土葬や、風葬、鳥葬と様々な埋葬方法が世界中にはあるわけだが、人の肉体をどう地球に還元して行くかをエコロジーという点から考察している。
これらの解として、コロンビア大学の大学院生達は弔うスペースや遺体を収納し、還元していく場所としての構造物の設計を進めて行く。
模型展示されていたプランは、『星空の広場』(2014)。
マンハッタン橋の下に、棺を格納し、人々が個人を偲びにこれる場所の構想。 この棺の一つ一つが、遺体を一年かけて無数のバクテリアに分解させ、その過程で出るエネルギーで光るというもの。
「人が亡くなったら、星になる」というポエティックな世界を、エコロジーの観点から可視化している。
そして、一年かけて分解されたら、そこに新たな遺体がくるというサスティナブルな構想となっている。
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人の存在がなくなっていくということで、光るエネルギーに変えるというプラン。
愛する人を失った人の喪失感が、1年で埋められるか、弔い切れるかどうかは人それぞれだろう。
ただ、目に見えて最後までその人の存在が「光」として残ることは、文化や宗教を超えたところでの「死」というものについての考察の解の一つになりうる気がする。
この「死」について、個人の想い、コミュニティの中での位置付け、世界の中での位置付け、あまりにもそもそもの立ち位置が異なるテーマ。
それでも、これからの地球全体での人類の在り方を考えなければならない時に、それぞれの輪が少しでも重なるスペースが大きくなればいいのに、と願わずにはいられない。
死という個人的体験と、社会としての死の扱いかた。
privateとpublicの最大共通項。
共通項の解は、明るい空白となっていくのかもしれない。
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『Death LAB Democratizing Death -死を民主化せよ-』
期間:
2018年7月7日(土) 〜2019年3月24日(日)
10:00〜18:00(金・土曜日は20:00まで)
会場:金沢21世紀美術館 デザインギャラリー
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