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水槽の見る夢(前篇)

 学校の地下にある薄暗い部屋に置かれた水槽の水の中で、一人の少年が膝を抱えて眠っている。
 ぼくたちはみんな、その少年の見る夢の中で暮らしているらしい。
 母親が宗教の偉いポストについていて、いじめられている子がいたらそれが他のクラスの子であっても助けに行かずにいられない、正義感に満ちた少年は、誰が言い出したのだかわからないその話を聞いて、こう思った。
 その子はもしかしたら、ぼくたちのこの世界を成り立たせるために、夢につながれて、永遠に目覚めることができないんじゃないだろうか。だとしたらその子は、この世界にいじめられているということになる。ぼくはお母さんの教えを守って、今すぐその子を助けに行くべきだ。でないと、ぼくがぼくである理由はなくなり、ぼくという存在はばらばらに砕け散ってしまうだろう。
 そしてその正義感に満ちた少年は、学校から学校へ、電車やバスや自転車を乗り継いで渡り歩いた。目的である夢見る水槽の少年が、どこの学校にいるのか誰も知らなかったから、しらみつぶしにいろんな学校の地下室を訪れていった。知らない学校へ忍びこむために、わざわざそれぞれの学校の制服を用意して、毎回着替えていた。そこが女子校なら、女装までして行った。衣装を揃えるのにはお金がかかり、お小遣いだけでは足りなくなって、母親に相談したら、喜んでお金を出し、後押ししてくれた。母親公認で応援されると、いよいよ後には引けず、少年は毎日水槽の少年を探し続けたが、いっこうに見つかる気配はない。地下の部屋で水槽を見つけるところまでは行っても、その中に入っているのは、かつてびっくり箱の中身だったと思われる、ばねがついたピエロの生首であったり、赤いハートのシールで封をされたままの、泣いているように見える一通のラブレターだったりした。
 そうして何年経ったのか、自分がもう何歳なのかもわからないが、傍からは浮浪者にしか見えなくなった彼は、いつものように何の収穫もなかった帰り道、夜の駅のホームで突然両膝をついて、「ぼくはきっと、すでにたくさんのものを失ってしまったし、今なお失い続けているのだろうが、後悔はしていない、するつもりもない。なぜならぼくは、正しいことをしているからだ。誰にも、あなたにも、まるで恥じることのない、正しさの中にいるからだ」と天に向かって言ったが、天にいるのかもしれない誰かからの返事はなかった。雨も雷も降ることはなく、空ではただ星が澄んでいた。「またあの人いるよ」と、遠目に彼を見ていた女生徒が、友達に囁きかけた。「お母さんと二人暮らしらしいよ。かわいそうだね、お母さん。人生の被害者だね」
 それからも、いろいろな場所で、男女それぞれのいろいろな制服を着た、なぜか学校の警備にも引っかからず、気づけば校内へ潜りこんでいる奇怪な男の姿が目撃された。ただ、この男は、行く場所はさまざまだが、帰る場所はいつも同じなので、ある目撃者は毎晩、その男が自分と同じ電車の、別の車両へ乗りこみ、同じ駅で降りるのを、見るでもなく見ていたのだけれど、ある日、電車へ乗った男が、いつもの駅で降りてこず、その翌日も、翌々日も、姿を見かけなくなって、それっきりだった。
 彼はどこへ行ってしまったのだろう?
 ある人は言った。
「大したことじゃないさ。彼は落ちてしまったんだよ。駅のホームから電車へ乗りこむときに、足を踏み外して、その隙間の闇の中へ。何年も、何十年も、もしかしたら何百年も、毎日毎日学校という学校へ歩き続けた彼の足は、とっくの昔に限界を越えて壊れ、いつその奈落へ落っこちたって、おかしくなかったんだな。今もきっと、ホームの下の暗がりに横たわっているよ。動かなくなった足を抱えて、恵みの雨を求めるように口を開けたまま、ね」
 別のある人は言った。
「水槽の少年を見つける前に、今ある学校を全部探し終わってしまったんじゃないかな。でも、それは見つかりませんでしたってことにはならないよ? だって、学校は『今あるもの』だけじゃないんだから。過去に取り壊された学校の幽霊もいるし、それに、これからつくられる学校だって、あるわけでしょう? あの人は今頃、新しい学校を自分で建てているんじゃないかな。夜の山の中にでも。それか、もう学校はできあがって、地下室に水槽を置いて……あとはその中に入れるための少年を、見つけるだけだったりして!
 ところできみ、さっきからきみの後ろに立っているその男の人は、誰?」
 こんなことを言う人もいた。
「なぜみなさん、悲劇ばかりを思い浮かべるのでしょう?
 だからつまり……こういう可能性はないのでしょうか?
 彼は探し求めていたあの少年と、出会ったのです。
 だから彼はもう歩き続ける必要がなくなった。ハッピーエンドじゃないですか。
 ……え? 少年と会った後、彼がどうなったのか? ……そうですね。そもそも、現れた少年は、彼が話に聞いていた様子とはずいぶん違っていました。少年は、水槽の中にはいなかった。その場所は学校でさえなく、たくさんの人々がてんでばらばらな方向へ行き交う、ある晴れた日の街の雑踏の真ん中だったのです。でも、彼にはたしかにそれが、あの少年だとわかりました。というのも、黄色い太陽の光を浴びながら立っているその少年は、たった今水槽から出てきましたと言わんばかりに全身がずぶ濡れで、白いブリーフ一丁という出で立ち、そしてきわめつけに、ただ彼一人だけをまっすぐ見つめて微笑んでいたからです。
 それは間違いなく彼の、私たちの暮らすこの夢の、主(あるじ)でした。
 水槽の中での長い揺籃期を終えて、ついに主は、主として、自由にこの夢の中を歩き回れるようになっていたのです。
 主は、さながら自らの一番目の使徒を見つけたイエス=キリストのように、男へと手を差し出しました。
 男は、自分が探していたはずの少年から、いつしか自分が探され、ついに見出されたのだと知ると、体の中で感動の奔流が雪崩れるのを感じました。男の片膝は地に着き、両手はうやうやしく、差し出された美しい小さな手を、花のように包みました。
 そして…………すみません、私にわかるのは、ここまでです。
 実際、どうなってしまうのでしょうね?
 夢の中の登場人物が、夢の主と出会ってしまったら。
 きっと主は、今もこの夢の中を歩き巡っています。
 私もあなたもいずれ、思いがけずどこかで、彼と会ってしまうかもしれない。
 会っても、彼が主だと気づかなければ、見過ごされるのでしょうか?
 ああ、でも……気づかずにいるのはもう不可能ですね。
 あなたはこの話を聞いてしまったのですから」

 私と同じ部屋で暮らしていた男が、こう言った。
「そろそろ子供を産んでくれないか」
 男が実家から子供をつくれと急かされているのは知っていた。
 これまで、私の子供は音楽だけだった。
「君には間違いなく才能がある。他のすべてを投げ打ってでも、打ち込む価値のある音楽だ」と男は言っていた。
 そんなに自信満々に言うのなら、そうなのかな、と私は思った。
「僕が働いて、君を支えるよ。君は何も心配せず、作曲に集中してくれていい」
 それで私は、音楽を作り続けた。膨大な音楽に、通常「曲」と呼ばれるだろう区切りをつけてゆき、数え上げてみると、全部で千三百十二曲あった。
 そのうちの一曲たりとも、人の耳にとまることはなく、気づけば私は三十八歳、男は四十一歳になっていた。
「僕は間違っていたのかもしれない」と男の四十一歳の誕生日に男が言った。
 私は何も言わず、ケーキを食べた。
 ケーキを食べ終わると、男が私の音源を流しはじめた。二人とも立ったままで十分くらい聴いた後、男が
「バースデーソングはないのか」
「ないと思う」
「千三百十二曲もあって、一曲も?」
 私はうなずいた。
 さらに十分ほどの時間が流れた。
「これは」と男が言った。「音楽なのか?」
 私に訊かれてもわからない。
 男も、長いこと私の側でそれを昼となく夜となく聞き続けたせいで、わからなくなっているようだった。
 その場にわかる人がいないので、仕方なく、男は実家へ電話をかけて、音源を聴いてもらい、私へしたのと同じ問いをした。
 返ってきた答えは同じだった。
 わからない。
 そんなことより、早く子供をつくれ、と、そう言われたそうだ。
 男は電話を切ると、ふらふら外へ出ていった。夜中に帰ってきたときには、男はひどく酔っ払っていて、私の部屋のドアを大きな音を立てて開き、私の作業を中断させた。そんなことが起こったのはこの二十五年間で、初めてだった。
「僕の人生を返してくれ」と男が言った。
「あなたの人生はまだ半分くらいある」と私が答えた。
「なんだそれは。こんなときくらい、まともな返答ができないのか。……なあ、君は、僕がどんな仕事をしているか、知っているか」
「…………」
「外回りの営業だよ。工場から工場へ、油まみれの荒んだ見知らぬ男たちへ頭を下げて回る、ただそれだけの仕事。君には、想像もつかないだろうな、夏の工場の中がどれだけ暑いか、そこでもジャケットを脱ぐことは許されないのが、サラリーマンというものなんだ。毎日、毎日、頭を下げるという動作を繰り返すだけの、単純な機械と同じさ、何年もそればかり、ひたすら、何万回、何十万回、何百万回も、そのうち僕の感情は、すっかり摩耗してしまって、君のつくったものを聞いても、何も思わなくなっていたんだ、そうさ、実は、途中からずっとそうだったが、もう後戻りはできないと、神の袖に縋りつくように君を信じていた。君はそんなこと、全然気づいていなかっただろう。まあ、いいさ、それは、気づかれないようにしていたんだから、君の世界に、僕が日々煩わされている浮世の塵芥が紛れ込んで、ノイズになってしまわないよう、気を払っていたんだからね。でもそれも、今日で終わりだ。まず君が気づくべきなのは、いやさすがに気づいているかな、僕の頭が、頭というのはつまり髪の毛のことだが、そいつが年々、薄くなっていること。これは仕事で頭を下げたときに、頭のてっぺんへ唾を吐きかけられたことがあって、そのせいじゃないかと、僕はにらんでいる、あの時ばかりは、完全にすり減ってなくなったと思っていた心が、呼び戻されて、痛みに燃えたものだが、その炎で、頭が焼け野原になったのだと思わないか?」
「……うーん」
「ああ、どうでもいいんだ、返事なんて。求めてない。僕が君に要求するのは、時間を返すのが無理なら、せめて髪の毛だけでも返してくれってことだ」
「それは……育毛剤を使えば良いのでは」
「ああそうだな。ふざけるなよ。そんなこと、考えなかったと思っているのか。考えても、使う金がなかったんだ。君の音楽をつくるための機材に、ボーナスは全部注ぎ込んできた」
「相談してくれれば」
「機材は買わなかったのか?」
「…………」
「無理だろう。我慢するなんてこと、君はもうできない体質になっている。金がなくなったら闇金に手を出して、破産しても止まることはなかっただろう」
「……そうかもしれないけど、これからは私のためにそこまでしてくれなくて良い」
「だからあなたは自由に育毛でも植毛でも何でもすればいい。それで解決。そう言いたいのか? ところがどっこい、事はそう簡単じゃないんだ。君は何もわかっていないな。それはわかっていたが。いいか、僕は、君に返してほしいと言ってるんだ。わかるか?」
「なんとなく。でも、私は育毛剤でも毛植え師でもないので、期待には応えられそうにない」
「そうか。髪の毛も、無理か」
「おそらく」
「それじゃあ」
 ということで、私は子供を産むことになった。たしかに、髪の毛よりは子供のほうが、産める可能性は高そうな気がする。しかし難しいのは、それが音楽ではなく、人間の子供だということだった。音楽なら、もう長いこと、呼吸をするようにつくりつづけてきたけれど、人間の子供については、まったくの素人だ。
 私は男に尋ねた。
「産む前に、産むための子供をつくらないといけない。というところまでは合っている?」
「ああ」
「じゃあ、その子供のつくり方は? ここが私にはわからない」
「普通なら、セックスをしてつくる」
 セックス。何だったろうか。なつかしい響きだ。
「だが、僕たちは残念ながらもう、普通とは言い難い。だからセックスのことは忘れろ」
 調べてみると、今の世の中、子供をつくるための方法は星の粒ほどたくさんあった。ただ、それだけたくさんの方法がありながら、実際にできる子供の数は多くの場合、一人の女につき一人から三人程度だ。しかもその確率は、その他のいろいろな条件によっても変わり、私の持っている条件を洗い出してみたところ、子供をつくれる確率は平均をずいぶん下回っていた。
 とりあえず、方法のたくさん集まる場所へ行ってみようと思い、相談所を訪れた。平日、窓口が開く午前十時の、三十分前に着くと、灰色のブラインドが下りている一つの窓口へ、女たちの長蛇の列ができていた。十時になるとブラインドが上がり、それぞれの女の希望を聞いて、あなたはあっち、あなたはそっち、と別の部屋へ案内する。私は、希望と条件を確認するための申込書を書くのにひどく手こずって、その間他の女たちに、どんどん順番を抜かされていった。
 途方もなく長い時間が経ったような気がした後で、私の名前が呼ばれ、私は操り人形のように窓口へ歩いていった。
 そこには、紺色の事務員の服を着た、茶色いパーマの中年の女がいて、べっこう縁の四角い眼鏡の向こうの目が、私の出した書類を上から下へ舐め回し、毒リンゴのように赤く塗られた厚い唇が開くと、
「これは何?」と言った。
 私は、男に「これは音楽なのか?」と訊かれたときのことを思い出した。音楽でさえ何だかわからないのに、それ以外のものについて同じような質問をされても、答えられるはずがない。
 黙っていると、女の目がちろっと私を見て、
「大学卒業後、アマチュアで音楽制作。それによる報酬は特になし。演奏経験も。三十八歳。家事経験、結婚歴、資格、特技、何もない……あなたね、ここは真剣に子供をつくりたい人が来る場所なの。冷やかしなら迷惑だから、よそでやってちょうだい」
 家に帰って、音楽をつくった。たぶん音楽だろう。夜中になると男が帰ってきて、台所の床に嘔吐した。私がそれを掃除した。雑巾を動かす私を、テディベアのように座っている男の赤ら顔が、じっと見ていた。
「子供はできそうか」
「難しい」
「……しばらく、音楽をつくるのはやめろ。夜は、自分の部屋じゃなく、脱衣所で眠るんだ。子供のことだけ考えて、子供の夢を見て眠れ。いいな」
「わかった」
 ひんやりした脱衣所の白い床の上で灰色のブランケットにくるまり、電気はつけたまま眠る。見上げれば小窓の外は深い青の夜空だ。意外にも、私はその寝床を気に入ってしまった。男に言われたことを思い出し、目を閉じて、目蓋の裏の青く黒い深海へ、赤ん坊の姿を浮かべる。マネキンのような、抽象・一般の「赤ん坊」。それはまだ、「私の子供」になりきれていない。私はじっと、それを見ているけれど、何をどうやって、「私の子供」にしていけばいいのかわからず、そのうち、音色がやってくる。祝祭の、色とりどりの紙吹雪とラッパの音のように、音楽が鳴りはじめて、私は、形に残すことのできない、ただ通り過ぎていくだけのその音楽の流れ、パレードを見送りながら、幸せに眠る。
 起きている間は、毎日書類を書いては、相談所へ行った。あの窓口の女に、何度も何度もはねつけられて、そのたびに書類を書き直しては持って行くうちに、やる気だけは伝わったようで、ある日ついに、相談用の部屋へは相変わらず通されないものの、ときどきは「あなたにでもなんとかなりそうな」方法を紹介してもらえるようになった。
 たとえば、銀色の未来都市のミニチュアの高速道路を駆け抜ける、青い光を目で追い続けるという方法。その光はとてもすばしっこくて、速い動きに慣れていない私の眼球はすぐに痛みだしてしまい、途中であきらめて目を上げ、その実験室のような部屋の中で大きなテーブルの上に備え付けられたミニチュア都市を取り囲んでいる、私以外の六人の女の顔を見た。女たちの顔の中では、やっぱり二つの目玉が高速で動いていて、そのせいで目が充血していたり、瞳が左右に激しくぶれて、卒倒してしまったりする人が出た。倒れた人が、白衣を着た施設の係員たちの手で、運び出されていくけれども、残りの女たちはまるで気づいている素振りを見せず、必死で目を動かし続けている。とうの昔に試合を放棄した私は、残りの時間、天井を見上げて、そこにひよこが輪を描いて飛んでいないかと探りながら、頭の中では、音楽を鳴らし続けていた。にもかかわらず、その施設を出て、黄色い光の下に晒されると、背中からどっと疲れが襲ってきて、小柄な老人の妖怪を背負わされているかのようになり、ああ、人間の子供をつくるというのは、なんて大変なことなんだろうかと思う、頭の中では、やんちゃな天使たちが雲の上、黄金の空の中で、神様の目を盗んで、スナック菓子を食い荒らし、クラッカーややかましい楽器を弾けさせて騒いでいるかのような、真っ黄色の音楽がトゲトゲの心臓のように脈打って、頭の殻を突き破ろうとしていた。
 家に帰って、男へ、「今日は方法を一つ試した」と報告した。
 男は、憔悴した私の顔を見て、納得したのか、「今日は曲を一つ、作ってもいい」と許可した。
 私はその夜、少しでも長く音楽をつくる時間に浸っていたかったので、本当はそんなに長くなくていい音楽を、むりやり延命させて、私の快楽の奴隷にした。そんなことをしたのは生まれて初めてで、私は途中で座っている自分の腿へ、嘔吐してしまったけれども、それでも音楽をつくることはやめなかった。
 私が、人間の子供をつくるための方法を外で試してくるたび、男は一曲作ることを許可した。毎回、私は音楽をむりやり延ばして、できあがったのは、一人の人間の皮や内臓や何かをすべて広げて潰して、布のように薄くして敷いた道のような、惨殺死体をさらにこれでもかと惨殺したような曲ばかりだった。それでも、つくっている間は充実していた。完成した後は、絶対に聴き返さなかった。たまたま、うちを訪れた小学生がその音源を聞いてしまって、卒倒し、春の晴れたのどかな道路の上を、救急車に運ばれていく。それを男と私が並んで見送るということがあった。
 それ以降、男は私の音楽を、完全に禁止した。

 森の中で、熊は苦悩していた。
 熊はこれまで、平和な日々を送っていた。森に遊びにきた子供たちに、枝でつつかれるのは楽しかったし、急に立ち上がって両腕を振り上げ、ワーッと吠えれば、子供たちが歓声を上げながら散っていくのを見るのも好きだった。知り合いの熊の中には、はちみつを食べることにしか興味がない輩もいるけれど、自分にとっては、子供たちと遊ぶのが一番楽しいことだ、はちみつなんてくだらない。そう思っていた。あの話を聞くまでは。
「俺たちは、一人の人間のガキが見ている、夢の中に暮らしているんだぜ」
 そう耳打ちしてきたのは、嫌われものの熊だった。この熊は、人間の子供を好んで食らうどころか、熊の子供まで食べてしまい、しかも全身ぺろりとたいらげるのではなく、うまいところだけを選んで食って、食い荒らした後の無残なバラバラの体を、見せつけるようにあちこちへ残していくという、非常に残忍な性質だったので、嫌われていた。
 けれどこの熊は、真実を言い当てる熊としても知られていた。「そんなの、信じられない」と子供好きな熊は言った。
「俺が、本当のことしか言わないのは知ってるだろう。本当のことを言うやつは、嫌われる。俺が嫌われものだということが、俺が言ってることは本当だってことの、何よりの証明なんだぜ」
 子供好きな熊は、必死でその話を忘れようとした。が、忘れようと思えば思うほど忘却から遠ざかり、眠れぬ夜をいくつも過ごすことになった。それでもある晩、体が限界を迎えたのか、ついに眠りに落ち、朝目覚めたときには、不思議と頭がさっぱりしていて、やっぱりあんな話、嘘に決まっている、あんな嫌なやつのことは気にせず、大好きな子供たちと遊ぼう、と思い、起き上がって、子供たちの集まる場所へ、歩いていった。
 そこには、いつものように子供たちがいて、二本足で立っている熊の顔を見ると、あー、と声を上げて指さし、駆け寄ってきた。しかしその瞬間、熊は後ろへ飛び退き、四本足になると、ぐるるるる、と歯茎を剥き出し、よだれを垂らしながら唸っていた。まるで人食い熊のように! 子供たちは、みんな凍りついて熊を見ていた。もちろん、笑顔は消えている。そして、その場から走って逃げだしたのは、熊の方だった。
 自分は、いったいどうしたのだろうか、と走りながら熊は考えた。どうして? どうして? どうして?
 子供たちが駆け寄ってきた、あの瞬間を思い出す。
 あのとき自分が抱いた感情は――「恐怖」だ。
「人間のガキが見ている、夢の中」
 子供。人間のガキ。
 自分の大好きな子供たちの中に、もしかしたら、その夢を見ているガキが紛れこんでいるかもしれない。
 もし、そうだったとして――どの子供がそれなのか、自分が気づいてしまったら――途方もなく恐ろしいことが起こるような気がして、心の中が真っ暗になった。
 熊は、誰にも見つからないよう、大きな木の洞の中で、頭を抱えて震えていた。
 どれくらい経っただろうか。
「くまさん」
 声が降ってきた。
 ゆっくり目を開けて見上げると、洞の入り口に、青い月夜を背負って、一人の女の子が立っていた。
 その子は、熊の最初の友達になってくれた子供だった。
 学校でいじめられていたその子は、人間のいるところが嫌になって、泣きべそをかきながら森の小道を歩いていた。
 そこで、熊と出会って、仲良くなって……性格も、見違えるように明るくなったその子は、学校でも人気者になって、友達みんなを連れて、熊のところへ遊びにくるようになったのだ。
「ねえくまさん。泣いているの?」
「泣いていないよ。怖くて震えているんだ」
「なにが怖いの?」
「きみたちが怖い」
「……くまさん、わたしとあなたが最初、どうやって仲良くなったか覚えてる?」
「……追いかけっこをした」
「そうだよ。
 ねえ、久しぶりに二人きりで、追いかけっこをしようよ」
 夜の森で、熊は女の子を追いかけた。女の子は、ふうわりふうわりと、蝶のように妖精のように軽やかに熊の先を跳ねてゆき、熊がつかまえようと、手を伸ばして空振りすると、振り向いてくすっと笑ってみせた。
「きみは本当にすてきになった」と熊は言った。「あんなに泣き虫で転んでばかりだったのに、信じられないや。もうきっとぼくには、つかまえられないんだろうな」
「そんなことないよ。わたしがこんな風になれたのは、くまさんのおかげだもの。それにくまさんは、本当はわたしよりずっと速く走れるんだから、つかまえられないわけないじゃない。優しいから、気づかないうちに手加減をしてくれてるんだよ。
 ねえ、今から、本気で追いかけてみてよ。わたしは少しくらいケガをしても、大丈夫だから。くまさんのおかげで、わたし、楽しくなれた。今度は、わたしがあなたを、助けてあげる番だよ」
 熊は、少し迷ってから、言われたとおり、少しずつ速度を上げて、女の子を追いかけはじめた。獲物の鹿をとらえるときのように、どんどんと重い足音を立て、黒い爪を光らせ、ぶんぶん腕を振り回し、空気を切り裂いた。それでも、女の子がつかまる様子はなかった。熊は安心していた。やっぱり、大丈夫だ。この子はぼくにつかまったりしない。この子となら、何も心配せずに、ずっとずっと遊んでいられる――
 そのとき頭の中で、何か黒いものが、自分のものではない声が命じた。
 やれ。
 咆哮が響き、月をも切り裂きそうな凄まじい勢いで、鋭い鉤爪が一閃した。
 少し後、木の下に熊は座っていた。女の子は熊の体に背をあずけて座り、月を見上げていた。
 女の子の体には、割れた大地のように黒々と巨大な裂け目ができていた。もはやその裂け目に、女の子が呑みこまれてしまいそうだった。
「わたしとあなたが、最初に会ったとき」女の子が、かすれた息で言った。「あなたは何て言ったか、覚えてる?」
「おじょうさん、おにげなさい」
「そう。でも、逃げたわたしを、あなたは追いかけてきたの。それはどうして?」
「きみが、白い貝殻のイヤリングを落としたから……それを、渡してあげようと思って」
「そうだよ。あのね、あのイヤリング、わたしのおばあちゃんの、形見だったんだ。だから、言いたかったの。ずっと、忘れてたけど……ありがとう」
静かになった。熊は、腕の中で冷たくなっていく女の子の微笑んだ顔を、じっと見下ろしていた。
 かすかな音がして、顔を上げると、前方の草の上に嫌われものの熊が立って、こっちを見ていた。
「ほらみろ。やっぱり俺は正しかった」と嫌われものの熊は言った。「熊が人間のガキと仲良くするなんて、まちがっている。そんなのは、ただの夢さ。熊は人間を食うものだ。おまえは嘘つきなんだ」
「……嘘つきなんかじゃない」
「そうか? 森の神に誓って、一度も嘘をついたことがないと言えるか?」
「言える」
「そうか……」嫌われものの熊は、嫌われものらしく、いやらしい笑みをつくった。「それじゃあ、おまえがそのガキと初めて会ったときに、おにげなさい、と言ったのはなぜだ?」
「それは……心配だったから。森には、おまえのような悪い熊もいるから、早く逃げた方がいい……」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「そうか? ならもう一つ訊くぞ。そのガキの着ている服の、ポケットの中。そこに何が入っているか、おまえは知っているな?」
「もちろん。この子はぼくの、大切な友達だもの」
「で、何が入ってるんだ?」
「……白い貝殻のイヤリングさ」
「そうかい。じゃあそのイヤリングとやらを、取り出してみせてくれよ」
 熊は女の子のポケットに爪をさしこんだ。なにか、固いものに爪先が触れ、悪寒が走った。
「……どうした? 早くしろよ」
 熊は、それを爪の先に引っかけて、ゆっくりポケットから出した。
 黒い拳銃だった。
「おまえの爪とそっくりだな? 黒くて固くて……たしかに、おまえとそのガキは、仲が良いのかもしれないな?」嫌われものの熊は、せせら笑った。「おまえは、やっぱり嘘をついていたな。おまえはあのとき、『おじょうさん おにげなさい』と言った。だがそれは少し、言葉が足りていない。正確にはこうだ。『おじょうさん、きみは銃を持っていないみたいだね。それなら早く逃げた方がいいよ』。わかるか? おまえは、銃を持っていない人間のガキを見て、すぐにでも捕まえられるのを知っていながら、わざと逃して狩りを楽しもうとしたのさ。卑劣で残忍な熊め。おまえのおぞましさに比べれば、恐怖を感じさせる間もなくバラバラにしてやるおれの方が、どんなにか良心的なことだろう!
 それにおまえは、卑劣で残忍なだけじゃない。救い難く愚かだ。ガキが銃を隠していることに気づかず、ノコノコ追いかけて行ったんだからな。そのガキは、おまえを家までおびき寄せて撃ち殺し、家の敷物にしちまおうと企んでいたんだぜ。だが、ビビリのおまえは森から出てこようとはしなかった。それでガキは作戦を変更し、森の中でおまえを仕留めることにした。仲間のガキどもをわらわら連れてきたのは、おまえの注意を逸らして、その隙に弾丸をぶち込むためさ。全員でおまえを敷物にしちまおうと淡々と狙っていたのさ。冬は床が、冷たいからな。人間にとってはそうなのさ。
 これでようやくわかっただろう。おまえは嘘つきだ。そして、おまえが信じていると自分に言い聞かせていたガキどもも、嘘つきだった。ここには、おまえには、嘘しかないということだ!」
 嫌われものの熊が、子供を脅かすように勢いよく両手を上げると、木々から黒い影の鳥たちが、バサバサ飛び立った。
「こんなの、悪い夢だ。そう思いたいだろう。そうだ。これは夢だぜ。おまえはずっと、夢を見ていたのさ。嘘の塊であるおまえ自身だって、夢の一部さ。夢の外には、本当のおまえがいる! 人間を食う、ごく普通の熊。それがおまえの、おれたちの本当の姿だ。その姿に戻れば、おまえはもう苦しまずに済む。人間のガキどもを食い荒らして、幸せに暮らせる。だから、早く、そのガキを食っちまえ。塵ひとつ残さず噛み砕いて、飲みこんじまえよ、さあ!」
 熊は、女の子を見下ろした。しばらくそのまま見てから、むしゃむしゃと食べた。嫌われものの熊はそれを、ニタァ、と歯茎を剥き出して、剥き出しすぎて体の裏表が入れ替わってしまうくらいの満面の笑みを浮かべて、見ていた。
 女の子を食べ終わった熊は、何もなくなった地面を見つめて、少しの間、じっとしていた。それから、おもむろに自分自身を食べはじめた。最後には口だけが残って、ぱくぱく動いていたけれど、それも食い削られていって、ついにはすっかり消えてしまった。
 嫌われものの熊は、もう笑っていなかった。
「馬鹿なやつめ」と言った。
 嘘つきめ、とは言わなかった。

 私に運命というものがあるとすれば、それが運命の日だった。
 いつものように相談所を訪れた私を、窓口の女が、慣れた口調で呼びつけた。
「あなた、音楽をつくるのが好きなのよね」
「はあ。まあ」
「人の書いた詞に、曲をつけたことは?」
「ないです」
「そう。でも、やればできる?」
「たぶん……」
「ならいいわ。あなたに、おすすめの方法があるの」
「本当に?」
 これまで私に宛てがわれてきたのは、「大体誰にでも適する方法」ばかりで、「私に向いている方法」というものは、一つもなかった。
「そんなものが、この世に存在するとは」
「私もそう思うわ。これは運命かもしれないわね」
「運命。それは」命を運ぶ、と書く。「前に紹介してもらって、試してみたあの方法。ミニチュアの未来都市の高速道路を駆け抜けていく、青い光。今、思い出すと、あの青い光の中には、白いおたまじゃくしがいた気がする。あれは、命が運ばれていた? そして、運ばれた命が、見ていた人のお腹に宿って、……きっと、あのときあの場で、白いおたまじゃくしを見つけられた人には、命が宿ったのでしょう。私は、運命を逃してしまった」
「それは、逃す運命だったんじゃないかしら。もっと大きな別の運命の中に、あなたは含まれているのかもしれない」
 私は自分が、巨大な青い管のようなカエルの卵の中に、包まれている気がした。それは初めての、心地よい感覚だった。


 ある人が、草の数を数えていた。小さな山のようなリュックサックを背負って、地球上のありとあらゆる草を、一本一本、数えて回っていた。砂漠の砂に埋もれるように生えている一本も、廃校舎の机の脚の下から生えている一本も、けっして見逃すことはなく、数え続け、今ではすべての草の数を正確に把握していると自負していた。そして、地球が終わったので、次は月に行って、月の草の数を数えようと思っていた。
 ところが、その人は気づいた。草の数が変わっている。というより、ぶれている。揺らいでいる。目を凝らすと、草原の中に一本、虹色の蜃気楼のような草が伸びて、誘うようにゆらゆら揺らめいていた。
「あの草は、何だ? あんな草、あるわけがない。あるわけがない草が、ある。でも、あるわけがない。おれはあの草を、一本と数えてよいのか? 数えぬべきか?」
 その人は、これまで大体なんでも、自分の頭で判断してきたが、今回ばかりは決めきれず、知り合いの植物学者のところへ行った。彼らは小さなころ、近所の山や野原を歩き回って、草を見て歩いていた。いや、二人は、同じことをしているようで、少し違っていて、一人は、草の前にしゃがみこんで、つぶさにいろいろな角度から観察して、資料に残しており、こちらが学者になった。もう一人は、ただ草を見、触れるだけで満足し、その後何十年か経っても、同じように野山を散策していた。変わったことといえば、数を数えるという、学者からすればひどく無意味な目的が加わっただけだった。
 だからその人から、数えるべきか否か分からない蜃気楼のような草について訊かれたとき、学者はこう答えた。
「数えられないから、何だというんだ? それは重要なことなのか?」
「ああ」
「そうか。なぜそんなに重要なのかわからんし、わかりたいとも思わんが、とにかくおまえは、私に助言を求めてきたんだな? 私が、おまえの目的をきちんと理解していないとしても、とにかく私はただ答えを吐き出せばいいんだな? 機械のように」
「そうだ。白い紙を吐き出す、機械のように」
「それじゃあ、数に入れてしまえ」
「なぜ?」
「なぜ? そうだな。それが何であろうと、おまえはその草を、草だと認識しているんだろう? なら草として数えてしまえばいい」
「草というのは、ただの言葉だ。もしかしたら本当は、草ではないかもしれない」
「じゃあ、それは何なんだ?」
「夢に似ている。夢が草のふりをして、紛れこんでいる」
「ずいぶん局所的な、小さな夢だな」
「だが、それが世界中にあるとしたらどうだ? 草のふりをした夢は自分を草だと思いこんで、繁殖する。するといつか草という草は、いや、草だけではない、山も海も空も建物も地面も魚も人も……鈴も牛車も遺跡も白い砂もヨークシャーテリアも何もかも、夢になってしまうのだ」
「だからそれが、何だというんだ。何がそんなに大変なのか、私にはわからない。おまえがこれまで数えてきた草、すべてが夢だったとしたら、おまえの人生は意味がなかったことになる。そう言いたいのか。だがそれなら心配ないだろう、みんな夢になるなら、みんな一緒さ、誰にも何にも、意味はなかったということだろう」
 その人はふらふらと学者の家を出て、世界中の草という草に火を放ちはじめた。砂漠に一本だけ懸命に生えていた草は、炎の中で、涙を流しているように見えた。
 学者は何人か人を雇って、その人を探させたが、杳として足取りはつかめない。砂漠の丘の上にその人が、両腕をだらりと下げて立っているのを目撃したという者はいたが、その人の体は透明な虹色で、蜃気楼のようだった。暑さで夢を見ただけかもしれません、と目撃者が報告すると、学者は、遠くの空を見て言った。
「そうだな。君は夢を見たのかもしれない。あいつ自身が、夢になってしまったのかもしれない」


 私は、小さな地図を持って、私のための「方法」を教えてくれる場所へ行った。そこは灰色い箱型の、三階建ての小さな建物で、小さい割に、目の前に立って見上げると、こちらへ雲が流れてくる灰色の空を制するようにものものしく、巨大な石の扉のように立っていた。そこへ行くまでに、歯並びの悪い団地のような場所を通り抜けてきた。海へ突き出したその土地には、意外と住む人の需要があるようだったが、陸地から外れたその土地の、さらに外れの岬にぽつんと立っているその建物の周りには、何もない。ただ一つだけ、建物の横には小さな畑があって、白い麦わら帽子をかぶった、ランニングシャツに短パンの少年がしゃがみこんで、何かしていた。近づいて後ろに立ち、覗き込んでみると、少年の前の地面に、男の赤い顔が埋まっていて、それは生きている、ということは、男の全身が埋まっていて、顔だけが出ているのだろうけれど、少年はその顔へ、水色のじょうろで水をやろうとしていた。男は口を開けて、あああああ、と声を上げながら、首を横に振りたそうにもぞもぞ動いている。少年は、じょうろを脇へ置いて、そばに置いてあった植物の苗を握り、男の顔の上へかざした。苗の根から土がぽろぽろ落ちて、男の口へ入るけれど、男は口を閉じようとせず、あああああ、と声を上げながら、もぞもぞ動いている。
 キイ、と音がして見上げると、建物から銀色の縦長のドアを開けて、人間が出てきた。真っ白な、看護師のような服を着ている。建物の中で働いている職員だろう。
「胚くん、そろそろ中に戻りなさい」と少年へ向かって、職員が言った。少年は地面の男の顔を見下ろしたまま、立ち上がった。
 職員が私を見て、「Yさんですね。お待ちしておりました」と言う。
 そういえば、とても天気の良い、心地よい日だった。白日夢の中にいるみたいだと私は思った。
 私の前に立っている少年の頭が捻られ、私を振り仰いだ。少年の顔は、右半分が日の光に、左半分が私の影によって裂かれ、ぎゅっと細めた目で、太陽と私を見た。右目は、太陽のまぶしさに、左目は、私への警戒か不快感か、そのようなものによって、細められているようだった。
 職員に案内され、私は建物の中を歩いた。廊下を歩き、階段を上り、ときどき他の職員とすれ違うが、職員たちはあいさつをしないどころか、こちらへ目を向けてくることさえなく、まっすぐ前の空間だけを見て、カーナビのように目的地へ向かっていた。もしくは、目的地なんてないけれど、あるふりをして歩いていた。私の前を行く職員は、足の生えていない幽霊のように、生命の感じられないするするとした動きをした。
 なんともない、ある廊下の、なんともないドアの前に立たされた。
「こちらで施設長が待っております」
「はあ……なんだか、あまり施設長がいる感じの部屋ではないですね」
「はい。施設長はそのような部屋を好むのです。自分がいなさそうな部屋を。日や時間帯によって、いる部屋が違うこともありますので、今後ご留意ください」
「はあ……」
 部屋の中は、思ったより広かった。大きなステンレス製の本棚が、壁を埋め尽くしている。部屋の隅には、子供が遊ぶためのカラフルなスペースがあり、ついさっきまでそこで遊んでいた子供が、私が入ってきたことによって忽然と消えてしまったかのように、遊びかけの人形やジグソーパズルや絵本が放り出されている。永遠に遊びかけのまま。
 前方の中央のデスクに、施設長が座っていた。短い黒髪を頭に撫でつけるようにした卵型の顔が、にっこり笑ってえくぼをつくる。三十半ばくらいの男で……男だろうか? とにかく、予想外に若い。
「ようこそ」
 私は小さく礼をした。
 施設長は、手元の白い紙を読みはじめた。おそらく、相談所の女が送った、私についての書類だろう。なぜ、今ここで読むのだろうか。私の前で。事前に読むこともできないほど、忙しいのだろうか。ときどき白い大きなマグカップに口をつけながら、施設長の目は、何度も上下に動いていて、繰り返し読んでいるようだ。私はその間、部屋の中央で、軍人のように立っていた。施設長の背後には窓があり、窓の外には午前十時の光と、明るい木々の緑、枝にとまった黄色い小鳥の声。しかし私は、肺と気管を窮屈な灰色の箱に閉じこめられているかのような息苦しさを感じて、何度も唾を飲んでいた。
「……うん」と施設長が言って、ようやく書類を置くと、私を見た。「音楽をつくり続けてきたんだね」
「はい」
「子供の頃から、ずっと?」
「はい」
「子供の頃は、曲をつくるための楽器も機材も、持っていなかっただろう? どうやってつくっていたんだい?」
「直接、いろいろなものを鳴らして。ゴミ捨て場で拾ってきた、赤いおもちゃの鍵盤と、ラジカセ。カセットテープだけは兄からもらって、それで録音していました」
「その頃つくっていた音楽が――というよりは、音楽をつくっていた時のあなたの状態が、あなたにとっては理想だったんじゃないのかな?」
「…………」
「その頃の感覚を、今はもう思い出すことができないんだろう」
 床に座って音楽をつくっている、子供の私の周りでは、虹色の夢の泡がいくつも立ち上っては、天井へ吸い込まれていった。ぶよぶよした膜に包まれたその光景を、今の私が外から見ている。一見シャボン玉に似たその膜に手を当てるだけで、決してその膜を今の自分は破れないことが、私にはわかる。
「だから、つくってもつくっても、終わりがこないんだ」
「……でも、もう終わらせます」
「人に言われてだろう? 顔を見ればわかる。あなたの頭の中では、今も音楽が鳴り続けている。耳を閉ざしても、逃れることはできない」
「……あの。なぜ音楽の話なんですか? 私は、人間の子供を産むための方法を教わりに、ここへ来ました」
「普通、『人間の子供』なんてわざわざ言わない。『子供』だけ言えば、それが人間の子供のことなんだ。普通はね」
「……やっぱり、私に親の資格はないということですか。親になりたければ、音楽のことは忘れろと、言いたいのですか」
「そんなことは言っていない。むしろ、あなただからいいんだ。聞いているだろう? これは、他の誰でもなく、あなたに適した方法だと。あなたとは何か。音楽をつくり続けてきた人。二十五年間、音楽をつくり続けてきて、いまだ一度も人に聴かれたことのない人。一度も聴かれたことのない音楽を、誰も拾い手のいない音楽を捨てて、人間の子供を産もうとしている人。それがあなただ。そのあなたにこそ、やってもらいたい方法が、ここにはあるんだよ」
 静かになった。私の体を周りから中心の一箇所へ押し込めようとしているような圧迫感は、なくなっていた。
「決まりだね」と施設長が笑みをつくる。「毎日、ここまで通うのも大変だろう。空いている部屋に入ってもらってもかまわないよ」
 私は、それをあの男に相談しなくても大丈夫だろうか、と考えた。けれども、そうする義務は、私にはないように思えた。
「ありがとうございます。そうします」
「よし」施設長が、デスクの上のクリーム色の受話器を取って、話しかけた。すると、あの職員がやってきて、私を部屋から連れ出した。


 世界中で、いろいろなものが夢へと変わりつつあった。
 たとえば、明るい波打ち際で、両手を組んで仰向けになっている、目を閉じ微笑んでいるあの子の眠ろうとしている体も。その眠りが永遠の眠りになることは、誰の目から見ても明らかだ。あの子の前にさっきから立っていた少年は、あの子の体が眠りに覆われて、海へ攫われてしまう前に、最後に一度だけその体へ触れようとしたけれど、伸ばした手はあの子の心臓をすり抜けて、その先の砂に触れた。
「わたし、死なないみたい」目を閉じたままの、あの子の口が動いて言った。「ここからいなくなるだけなのね」
 ここからいなくなるだけ。少年にはそれが嫌だった。なくなるくらいなら、目の前できちんと死ぬところを見届けたかった。けれどそう思う少年をよそに、あの子の体は容赦なく透き通ってゆき、なくなった。そこにあの子がいたことを示すものは何もない。砂のくぼみ一つさえ。少年は、自分が夢を見ていたような気がした。いや違う。今ここが悪い夢の中なんだ。少年は顔を上向け、青空へ吠えた。その咆哮で、分厚い空の膜を突き破り、夢の外へ出ようとした。
 もちろん、何も起こらなかった。空は、ちっぽけな少年の声一つで揺らぐようにはできていない。
 その後少年は、死ぬまであの子の幻を追い、影に沈んで生きた。
 ……今の、最後の一行は、感傷の物語の回路が吐かせた嘘だ。本当はそんな物語はなかった。少年も、あの子と同じく、最後まで自分の人生を生きて死ぬことはできなかったに決まっている。
 だって、あらゆる物語は道を閉ざされたのだから。夢によって。
「透明に透き通っていく夢」は、予兆にすぎなかった。透明になりきった後、夢は黒ずんでゆき、しまいには真っ黒な球体になって、道の途中に待ち構え、そこへやってきた物語を、片っ端から食べてしまうようになったのだ。
 もちろんこれも、一つの物語、比喩にすぎない。
 そのとき生まれた「それ」が何なのか、ぼくたちには誰もわからないし、きっとわからないまま、「それ」に食べられておしまいだろう。どんな道を選んでも、選ばなくても、ぼくたちは何らかの道の上を勝手に進んでいて、そしてすべての道は結局、同じところへ通じている。あの真っ暗な、死よりも暗い口の中へ。


 職員が先を歩き、私を案内していた。歩いているのは暗い廊下で、両側を壁に挟まれ、いつ押し潰されてもおかしくない気がする。壁は上半分がガラス張りになっており、その向こうに、廊下と平行に水槽が並んで、どこまでも続いている。後ろを振り向くと、水槽はそちらにもずっと続いていて、どちらが前で後ろなのか、すぐにわからなくなる。私はずっとこの廊下を歩いてきたはずだけれど、前も後ろも、先は闇に呑まれ、いつからここを歩いているのか、これからどこへ向かうのか、思い出せない。
 すべての水槽には、濃い青の液体が詰まっていて、多くの場合、その中に子供が浮かんで眠っている。子供たちは胎児のように体を丸め、目を閉じているけれど、胎児ではなく、大体が十歳くらいの子供だ。
「どうしましたか」
 立ち止まっている私に気づき、職員が言う。
「この子供たちを、私の『方法』として使うんですか?」
「悪く言えば、そうなるかもしれません。しかし、あなたにやっていただくことは、子供たちのためにもなるはずだと、施設長が申しておりました」
「この子供たちは、病気なのですか?」
「病気、と言っていいのかはわかりませんが……みな、夢に囚われています」
「夢に囚われている」
「夢を発生させるための装置として、眠り続けることを強制されている。というのが、施設長の見解です」
「強制とは、誰が?」
「それは、夢の中の住人、あるいは、夢そのものが、ではないでしょうか」
「起きることは、ないのですか。この子供たち」
「あります。が、その間も、意識は夢に囚われている状態です。口が動き、言葉を発しますが、それは現実世界の我々と、コミュニケーションを取るための言葉ではなく、夢の表出。施設長はそれを便宜的に、『詩』と称します」
「詩」
「そうです。あなたに曲をつけていただきたいのは、その『詩』です」


「それ」が生まれた、そのとき。
 町の上空に、人の上半身の形をした巨大な黒いものがいて、黒い雲を背に、町へ両手を広げてみせた。逃げながら振り返り、空を見上げた子供たちは、非日常の高揚を顔に表していたけれど、迫り来る津波のような影に覆われると、一瞬で表情が冷め、それを契機としたかのように、巨大な黒い手が、一人の子供をすくい取った。
 二階の寝室からリビングへ下りてくると、いつものパジャマを着た息子が食卓の横に立っていて、こっちを見て、ニイッと笑った。息子の顔は真っ黒に塗り潰され、歯だけが白く輝いており、食卓の白い皿には、大きな赤いロブスターが横たわって、湯気を立てていた。
 校舎裏へ行くと、告白するために呼び出した先輩が、黒いずだ袋になっていた。近づいて見ると血まみれで、見た人の脳裏には、飼育小屋の前にしゃがみこんで、網越しに鶏へエサをやっていた先輩の笑っている横顔が思い出され、片目から涙が流れた。
 甚平を着た老人が縁側に座って、小さな庭を眺めている。庭の花はすべて花弁が真っ黒になり、昨日開いていた花は、今日、口をすぼめて蕾になり、地面に落ちていた。いまは白髪で、うちわを動かしている老人も、昨日は年端もいかない少年だったのだけど、そのことを知っている者は誰もいない。開いているのかいないのかわからない、細めた目の老人本人さえ、それに気づいていなかった。老人の曲がった背中の後ろには和室の薄暗がりがあって、そこに老人の家族はいない。あるいは、昨日の家族はみんなその部屋の暗がりとなって、老人の背や首筋を見つめていた。
 ずっと一匹でいる猫。親から産まれた記憶も、育てられた記憶も、捨てられた記憶もないその猫は、いつも一匹で歩き、探り、食べ、眠り、昨日と今日の境をなくしていた。
 昼と夜なら、知っている。昼は他の動物、特に人間から隠れて木陰で眠り、夜は商店街の柱や建物の陰で、こそこそ人間の食い残しを漁っていた。昼は人間の足という足が、意思を持った林のように絶え間なく動いて、渡ることのできない商店街の通りも、夜になるとすっからかんで、簡単に横切ることができた。ときどき歩いてくる酔っぱらいに気をつけていれば、危険はない。たまに淋しさを持て余した人間が猫を見つけて、手を差し出してくることがあり、その掌の上には、食べ物が乗っていることもある。食べ物が乗っていようがいまいが、その手が自分を撫でようとしたら猫は身をひるがえし、人間の入ってこれない暗い隙間へ潜り込む。
 しかしある日、猫が利用している数十個の逃走用の隙間の一つに、何か黒いものが詰まっていて、入れなかった。それは物質ではなさそうだった。見た目もにおいも手触りも、普通の闇と変わらないのに、なぜか体をねじ込もうとすると拒まれるのだ。もたもたしているうちに、人間の手が猫の腰をつかみ、抱き上げ、部屋に連れ帰ってしまった。
 猫はその部屋で、狭く白い、ひんやりとしたベランダにばかりいた。隣には、小さな鉢植えがいる。ベランダの窓は開いていて、後ろから人間が猫を呼び、手で「こっちへ来い」と求めるけれど、猫は無視して、夜空を見上げている。そこには大きな満月がある。遮るもののない、澄んだ夜空に、一つだけ在る月。本当は周りに星が散らばっているのだろうけど、それは街の光にかき消されて、猫の瞳には月だけが映っている。高いところへ来て、初めてその存在に気づいたのだろうか、猫は毎日月を見上げて、ぴくりとも動かずに夜を明かした。
 そんな猫だったから、気づいた。いつもと変わらないように見える夜空の星が、何か別のものに変わっていることに。いつのまにそうなったのか、わからない。だって猫は、時間というものを知らなかったから。しゅうううう、と猫の喉から息が流れ出た。人間が、後ろから近づいてきた。静かなその猫が音を立てるのを、人間は初めて聞いたのだ。猫の視線を追い、人間も月を見上げ、「月が、どうかしたの?」と訊く。どうかしたのは、月ではない。人間は、猫の考えていることを、理解していない。けれどそのとき人間が自分の体を抱き、頭に顎を乗せてきたことに対して、初めて猫の心の中に、何かが生まれた。
 それから、その猫と人間の間には、何か変化があったかもしれない。
 だけど、その変化が、変わっていく世界を食い止めたり、別の方向へ変えたりすることはなかった。
「それ」は確実にすべてを侵食してゆき、猫も人間も、やがて別の何かに変わった。
 だから、猫も、人間も――ぼくがここまでに書いた、あるいは書かなかった、かつてあったはずの何もかも――本当は、誰かに見られた一刹那の、夢の泡でしかなかったのかもしれない。

つづき⇒水槽の見る夢(後篇)

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