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小説:脱楽園

大学生のころに書いた掌編です。
GRAPEVINEのRAKUENという曲にインスパイアされて書きました。

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 雪を降らせよう。彼が最初にそう言ったのはいまから一二一年前のことだ。
   争いをなくすために。外の世界は赤い空に覆われ、雲は一かけらも生まれない。そんな世界に雪が降ったら? みんな戦いの手を休め、空を見上げ恍惚とするだろう。一瞬でもいい、心がひとつになったなら、その一瞬で世界は変わる。
 僕たちは彼の話に興味を示さなかった。彼がその目的のための製作を始めても同じだった。すると彼は自分から説明を始めた。スノウフレイクという名の蝶が彼の目的を生んだ原因であり、またそれを達成するための手段でもあった。スノウフレイクには雪を降らせる力がある、と彼が僕たちに見せた『幻想生物図鑑』には記述されていた。その書物は彼が地下の廃墟を探索中に発見したもので、彼の製作の材料もそこで調達されていた。彼の生活は食事と睡眠と入浴を除けばすべてが製作に費やされ、油で黒ずみ鉄の臭いを漂わせる彼の衣類を洗濯するのに僕たちはひどく難儀した。
 彼がホームに現れたのはいまから一三〇年前のことだ。朝、僕たちが目を覚ますと彼はいた。一人で歩くこともできない年齢で、肌、髪、目は黒く、僕たちの外見とは対照的だったが、マザーは彼が僕たちの一員に加わることを望んだので、僕たちはそれに従った。彼には僕たちのようにホーム内の気象を調整する能力は備わっておらず、幼い彼はよく僕たちに雪を見せてと頼んだ。年中快適な気候を保ち続けているホームでは本来雪などありえないのだが、マザーが許可したので僕たちはそうした。彼はすごいすごいと一人で歓声を上げ僕たちに拍手を送り時には抱きつきもした。彼の調整能力の欠如は身体能力と知識によって補われた。彼は僕たちの三倍の速度で成長した。さらに地下に潜ってマザーから与えられる以外の書物を入手できるようになると、炊事・洗濯・掃除・育児用具に改良を加えた。その結果彼の属するグループの作業効率は一時飛躍的に上昇したが、生じた他グループとの差はマザーの迅速な処置によってなかったことにされた。スポーツにおいても彼は恵まれた体躯と僕たちの知らない戦略によって優位に立つことが多かったが、例によって負けている側にはもれなくマザーが手助けをするので試合は最後には必ず引き分けになった。団体種目、特に彼の愛好する雪合戦で引き分けにされると彼は近くにいるチームメイトの胸ぐらを掴んで悔しくないのかよと叫び地団駄を踏むことが度々あったが、一二四年前のあるとき彼が雪を追って丘の向こうへ落ち怪我をすると雪は禁止され雪合戦も行われなくなった。
 彼が僕たちの廃棄と生産について知ったのはいまから一二二年前のことだ。僕たちは生産されて三九年を迎えると廃棄され、同時に廃棄されたのと同じ数が新たに生産される。いかにマザーが慎重にことを運ぼうと、年に一度、その日だけ僕たちが夜更しをして特別な作業に勤しむことを、彼に隠し続けることは不可能だった。廃棄の現場を見つけるやいなや中断させようと暴れだした彼を僕たちは数十人がかりで抑えつけた。円い空に太陽が昇り朝が訪れると彼はすり傷のできた顔で俺だけに隠していたのかと訊いた。ただマザーの言いつけに従っていただけだと僕たちが答えると彼は完全に脱力して低い声で喋り始めた。
 お前らの言うマザーのことを、俺は知らない。お前らが聞こえるっていう声も、俺には聞こえない。でもそいつが考えていることだったら、なんとなくわかるんだ。なあ、お前らを生みだし、この広大なホームの環境システムを完璧に維持するだけのテクノロジーを持ちながら、そいつがわざわざお前らに気象の調整、家事の真似事、年少者の世話をさせるのは何故だと思う? ……手伝いをさせたいんだよ。子から親への思いやり、その証明となる行動を擬似的に再現しているんだ。お前らは理想の男の子じゃないか。朝は早くから起きて算数を勉強し、昼は元気に後腐れのないスポーツをしたり、草や花の絵を描いたり、粘土で恐竜の人形を作ったり、夜はみんな揃って食卓を囲み、月明かりのなか手を合わせ、聖母様への祈りを捧げ――ひたすら同じことを繰り返し、男の子から男へ変わりだす歳になると殺される。勝手な理想を守るために。成長が遅いのもそのせいだ。……なあ、お前らは俺のことが好きか? ……じゃあマザーのことは? ……そうか。俺は好きにはなれないよ。俺がマザーを認識できないことを差し引いてもな。赤ん坊の俺を拾ってくれたことには感謝してる。でも、だからって好きにならなきゃいけないわけじゃない。そういうのって、誰かに強いられることじゃないんだよ。俺はお前らのことは好きだぜ。正直顔の見分けはつかないけどさ、それでも俺は、ほんとの気持ちで、一人残らず愛してる。だからお前らのためにがんばるよ。お前らが俺のために雪を降らせてくれたみたいにさ。
 彼の製作が完了したのはいまから一一九年前のことだ。彼が造り上げたのは二人乗りのプロペラ機だった。明日の朝出発すると彼は告げたが、マザーからは何の言葉もなかったので僕たちは普段通りに就寝した。
   緑の丘のふもと、女が見ている、少年、僕たちと同じ顔、白くかがやく歯、僕たちにはできない笑顔、丘に立って、空に手を拡げて、掴もうとした星が、落ちてくる、津波、絵本で見た方舟、振り落とされていく人々、荒野、火、火、逃げて集う人々、空を怯れ、方舟をひっくり返す、天から隠し、未来を託す、女ひとり、水に濡れた図鑑を胸に抱いて、闇のなか、
   夜が明けた。夢を見るのは初めてだった。まだ意識の曖昧な僕たちに彼は白い風船を配って回った。空には彼が描いたものと思われる青い×印があった。いずれも夜のうちに準備したのだろう。彼の横顔は一晩で生まれ変わったようにやけに精悍に見えた。今日は俺の誕生日で、旅立ちの日だ! 盛大に頼むぜ、お前ら! 彼はホームじゅうに響き渡る大声で叫ぶと飛行機に乗って緑の丘から飛び立った。彼に言われたとおり僕たちが風船を放すと空は白で埋め尽くされた。ありがとう、いってくるぜと振り向きざまに手を振りながら彼が見せた大きな笑顔は夢で見た少年のものとそっくりに白い歯がきらめいていた。後部座席には僕たちのうちの廃棄寸前の一個体が潜んでいたが飛行機はそのまま×印を突き破り、その後二度と戻ってくることはなかった。
  白い蝶が空から入ってきたのはいまから一年前のことだ。マザーが何も言わないので彼が飛行機で開けた穴はそのままにされていたのだった。蝶は飛びながら点々と白いものを落とした。雪だった。一人残らず作業を止めて見上げているといつのまにか足元に一人の老人がいた。その老人がかつて密かに飛行機に乗りこんだあの個体だと僕たちにはすぐにわかった。マザーが僕たち以外の動物をホームに入れることはなかったからだ。老人はかすれた声で僕たちに語った。飛行機が外に出ると、老人はマザーの言いつけに従い彼を廃棄した。彼は逆らうことなくただ箱を一つきり老人に渡した。箱の中身は虫かごで、たくさんの白い蝶が入っていた。彼はスノウフレイクが外の世界に実在しないと知っていた。だから自分で創った。僕たちの気象調整能力を、僕たちとは違い繁殖と飛行による広範囲の移動が可能な蝶に応用させた。老人は彼を廃棄したらすぐにホームに戻るようにとのマザーの言いつけに背き蝶とともに旅立った。語り終えると老人はどこかを見上げて微笑みながら目を閉じ、再び目を開くことはなかった。僕たちと老人とは既に意識を共有できなくなっていたので、老人が最後に何を見ていたのかは正確にはわからなかった。蝶はいなくなっていた。僕たちは穴の向こうの赤い空をじっと見つめていた。
 僕たちが外へ出たのはいまから数時間前のことだ。世界は変わっていなかった。鉄屑と岩が転がり地平線の上に炎が揺れ、かすかに銃声と悲鳴が聞こえるようだった。喜ぶべきか悲しむべきかわからなかったが、ともかく僕たちには向かう先があった。世界を変えるためには、それぞれが別の方角へ向かわなければならない。できる限り早く。この環境下では、僕たちに残された時間は少ない。足音とともに散り散りになっていく意識の流れ。取り残された僕は僕でしかなく、彼らは彼らであり、僕たちはもうどこにもいなくなった。僕たちの間で共有され蓄積されてきた記録は記憶と化し、忘却という作用によって失われる概念へと変化を遂げた。彼らのこともマザーのこともホームのことも彼のことも、いずれは忘れてしまうのだろうか。
 だとすれば、彼の雪が僕たちにもたらすものとは何なのか。僕たちのためにがんばると彼は言った。しかし僕たちは何も望んではいなかった。だから彼は彼の思うようにした。そして僕たちはマザーを壊した。初めてだった、壊すということは。手間はかかったが、僕たちがホームで過ごした年月と比べれば一瞬だった。マザーは最後まで何も言わなかった。どんな気持ちだったろう。マザーはどんな気持ちで彼を、消えていった数々の彼らを、廃棄したのだろう。……僕にはまだ、わからない。彼は僕に、彼らに、何を望んでいたのか。僕たちの選択は、正しかったのか。
 瓦礫に腰掛け、彼らが先に歩み去った荒野を眺めながら、僕はいま、これを書いている。個人としての思考の流れを文章化するのは快いことだと気づいた。この快さに囚われる前に、僕も旅立つことにする。これはここに置いていこう。僕がすべてを忘れたころに、誰かが見つけてくれるといい。


 少年は、ふと、手に持っていた風船を放した。赤い空へ、遠く小さくなってゆく姿は、孤独な白い蝶のようだった。
 しかし、孤独ではないはずだ、と少年は思った。
 閉ざした目蓋の闇に白が降る。
 最初の一歩、足の裏に、まっさらな雪の感触を踏みしめた。
 風船の行く末は誰も知らない。

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