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あなたの知らない物語(1)

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1980年代後半、ちょっと特殊な学校の、ちょっとおかしな青春の記録


タダで進学できるかな?【前編】

大学に行きたい


 1986年。
 私こと須恵村すえむら、当年18歳。市内二番手レベルの公立女子高校(**下記注1)3年に在学中。

 卒業後はごく普通に大学に行きたいと思っていたが、どうやらウチには金というものがないらしい。
 金がないだけならまだしも、3年上の兄は1年浪人の後、金のかかる芸術系の学部に入学していた。
 兄が金食い虫だから貧乏なのではない。もともと貧乏なのに分不相応な学校に行っていたのだ。
 私としては、大嫌いな兄の犠牲になるような形で諦めるのは不本意だった。

 科目の絞れる私立文系なら何とかなるけれど、金銭的に難しい。しかし国公立受験となると、共通一次試験の末期の世代(**下記注2)である。一次の受験が不要な推薦枠をねらうか、理数系の科目も人並みに点数を取れるようになるかの二択を迫られる。
 評定平均値4.0、欠席多しという微妙さでは国立推薦は絶望的だし、苦手な理数系をすぐに克服する妙案もない。ぼやっとした頭で、バイトしながら学費の安い二部[夜間]に行こうかとか、まずお金を貯めてから考えようかとか、非生産的な思いつきをもてあそぶ毎日だった。

 そしてそして、何だかんだで親が何とかしてくれるに違いないという甘い展望もなくはなかったろう。

 公立の短大という手もあったが、県内の学校には行きたい学科がなく、隣県の公立女子短大だと、苦手な親戚の家に下宿一択。おまけに後から知った話だが、その親戚の家のすぐ近くに住んでいた、私と年格好の近い遠縁男子の嫁候補と目されていたらしかった。

 そもそも受験して合格したかどうかとか、私の容姿やパーソナリティーがその遠縁男子のお気に召したかどうかはともかくとして、「あー、行かなくてよかった」と胸をなでおろした。
 当時の私には、一応付き合っている男性がいたし(高校卒業前に別れたけれど)、何年か後にたまたま親戚の結婚式で顔を合わせた「遠縁男子」は、控え目に言って「あ、パスで」なタイプだった。そう、はばかりながら、私にも選ぶ権利はある。

 話は少し逸れたが。
 体力も根性もない自分に新聞奨学生が務まるわけはないし、就職に切り替えるには欠席日数が多過ぎた。まずバイトなりで働いてお金を貯めて…とか言っていると、絶対に1年後には目的を見失っている気がする。

 こう書いていくと、やりもしないで決め付けてばかりいると思われそうだし、それは否定しないが、結局、自分のことは自分が一番分かっているのだ。「やればできる」の「やれば」に行きつかない時点で負け戦確定。やるまでもないということなのだ。

**1
現在は、当時別学だった元男子校2校と元女子校2校の計4校が全て共学となったため、市内の比較的進学率の高い公立4校の中では「四天王最弱」ポジです

**2
共通一次試験の末期の世代この年の共通一次は、従来の「5教科7科目1,000点満点」から「5教科5科目800点満点」に変更になったほか、急な改変があって大混乱だったようです。
一部公立大文系で1次試験での理数系科目受験が不要になったため、私立文系組だった筆者に「共通一次模試を(にぎやかしで)受けないか?金は俺が出す」と声をかけてきたのは、1・2年次の担任だったK教諭でした。
市内の私立短大や女子大に推薦で行くというのがスタンダードな進学コースだったため、3年次の担任には受験情報や知識が絶望的になく、全くあてになりませんでした。

こんな学校 あったんかい

 そんな高校3年の10月頃、『衆議院速記者そっきしゃ養成所』という学校の生徒募集を知る。
 修業年限2年で受験資格は19歳まで(実際には多くの公務員試験同様、誕生年月日で切られる)。

 名前から分かるように、衆議院の速記士を養成するための学習機関で、文部省(現・文部科学省)の管轄ではないので、この学校に進学したとしても、学歴的には高卒である。一応就職時には便宜上「短大卒程度」として扱われることもあった。

 こんな言い方も嫌らしいのだが、私が進学したかった理由は、「とにかく家を出たかった」ことと、「何でもいいから勉強できることを勉強してみたかった」からであって、学歴が欲しかったわけではない。
 といっても、当時抱いていた本音をすこーんと都合よく忘れているだけで、やはり大卒や短大卒として普通に扱われた方が面倒が少ないだろう――くらいにはきっと考えていたと思う。結局とどのつまり、私はそういう人間だからだ。

 パンフレットを取り寄せてみると、授業内容や昨年までの試験の倍率などが書かれていた。
 15人程度の採用数に対して100~150人といった志願者が集まるようだ。
 結構厳しい競争率ではあるが、試してみる価値はありそうだと思い、願書を提出した。

 1987年3月9日、1次試験のために東京農業大学のキャンパスへと赴いた。養成所から最も近いところにあった大学である。
 ちなみに同日行われた参議院養成所の試験会場は学習院大学だったそうだが、参議院の校舎は世田谷のかなり川崎寄りのところにあった。些細なことではあるが、試験会場の下見ついでに衆議院の校舎の場所も確認できたので、単純に衆議院にしてよかったなと思った。

 衆議院と参議院のどちらを受験するか、実は迷っていたのだが、決め手になったのは、「将来もし日本が一院制になったとき、残るのは衆議院の方だろう」という家族の一言だった。

 試験科目は国語・英語・政治経済だが、いずれも問題内容は平易で、ごく普通に大学受験を意識して勉強した人には楽勝だったと思われる。

 ただし、「適性試験」として行われたものがかなり独特だった。

 「ケンコセイカツトテンワ」というタイトルのついた文章。全て片仮名で、しかも句読点は全くなく、濁点、拗音、促音も清音として処理されている。それを「漢字仮名交じりにせよ」というミッションだった。

 「ケンコセイカツトテンワ→言語生活と電話」ということは、問題文を読んでいると、何となく見えてくる。
 あとは仮定し、すり合わせ、確定する――を繰り返すだけだ。問題文自体があまり難度が高くないこともあり、意外とすんなり解けた(**下記注)。
 これに何の意味があるかといえば、この作業こそが、速記符号を日本語の文章に直す「反訳」と呼ばれる作業の考え方なのだ。

 問題自体はそう難しくなかったが、競争率10倍程度だったこともあり、合格できた手応えなど全くない。
 「とりあえず、バイト探すか…」と思いながら家に帰った。

 新幹線なら1時間強の距離だったが、みじめったらしい気持ちを抱えたまま、各駅停車を乗り継いで、5時間近くかけて帰った。

**
この翌年に行われた試験では、「竹下登首相 所信表明演説」(1987年11月27日)の一部がそのまま採用されたようです。

ちなみにこの冒頭文だけを「設問」にすると、こうなります。

ワタクシハサキノコツカイニオイナイカクソウリタイシンニシメイサレコクセイヲニナウコトトナリマシタナイカイノシヨウセイカキヒシイナカコクミンノミナサマノキタイトシンライニコタエルヘクセンリヨクヲツクシテコクセイノスイコウニアタツテマイリマスヨロシクコシエンノホトオネカイモウシアケマス」

模範解答
「私は、さきの国会において、内閣総理大臣に指名され、国政を担うことになりました。内外の情勢が厳しい中、国民の皆様の期待と信頼にこたえるべく、全力を尽くして国政の遂行に当たってまいります。よろしく御支援のほどをお願い申し上げます。」

国会会議録「第111回国会 衆議院 本会議 第1号 昭和62年11月27日」からの引き写しです。
上記は「国会会議録用字例」に準拠しているので、人によって読点の打ち方や表記に差が出ますが、大意が合っていれば大きな減点にはならなかったのでは…と推測されます。何しろ受験生は、また用字例も支給されていない状態だったので、「高校生にしちゃ上出来」のクオリティーで十分だったのではと。

一瀉千里


 それから2週間弱経った頃、我が家の電話が鳴った。
 両親は仕事で不在。祖父母は耳が遠いので、基本的にはあまり電話に出ない。中学生の弟は春休み前――となると、電話に出るのは必然的に私である。

 聞き覚えのない成人男性の声で、“私”はいるかと確認された。

 「はい、本人ですが」
 『私は衆議院速記者養成所の○○と申します』
 「え…」
 『一次試験の結果、合格が決まりましたので、そのご連絡です。近々はがきが正式に届くと思います。』
 「えーっ、本当ですかあ?」

 4月からの身の振り方を割と真面目に考えていた矢先の、思いがけない合格通知だった。
 2次試験の日程や必要なものなどを告げられ、必死でメモを取った。まさに無我夢中。当然、まだ速記はできなかったけれど、一言たりとも書き落すものかという気持ちだった。

『今私が申し上げたことをメモしましたか?』
「はい!」
『では、復唱してみてください』

 電話内容を復唱させること自体は珍しくないかもしれないが、、あれは1次試験と2次試験間の「1.5次試験」だったのではないかと思う。
 日程はともかく、耳なじみのない試験会場の名前、田舎娘にはハードルの高い地下鉄最寄り駅の駅名、聞いた記憶だけで復唱するのは難しいだろうから、「メモを取っているのが当然だ。それすらしない人間は、うちの学校には不向きである」――ということではないか、と。

 そういった真意は分からないものの、私は指示通りの場所に、指示通りの時間に試験に向かい、身体測定と面接を経て、その試験の2日後には正式に合格の通知が来た。
 あのときは合格そのものよりも、3月中に進路が決まったことが、とにかくうれしかった。

 ゆっくり落ち込んでいた身が、にわかに忙しくなった。

中編に続く ↓


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