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あなたの知らない物語(2)

1980年代後半、ちょっと特殊な学校の、ちょっとおかしな青春の記録

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タダで勉強できるかな?【中編】寮生活

80年代学生寮事情(ただしちょっと特殊?)


 中編は寮での日常生活に特化して書いているため、速記者養成所の授業内容は一切書いていません。
 したがいまして、速記や文字起こしに興味があってこちらを読んでくださっている方には、オチもなく退屈な話かもしれません。何とぞご了承ください。

 また、最後の方でインキュバスがどうのという頭煮えたことを言っておりますこともご承知おきくださいませ。

◇◇◇

 寮は4畳半のひとり部屋で、ヒーターは備え付けられていたが、クーラーはなかった。
 夏になると、当時の流行だったレトロブームに乗ったわけでもないだろうが、小さいのにやたら重い、そしてやたらクラシックな扇風機が支給された。

※イメージ…でしかないのですが、何だかバックが学生寮の壁に見えてきました。

 この扇風機はもちろん、木製の机、青いビロード張りの椅子、こたつなど、部屋の備品一つ一つに「衆議院物品標示標」なるものが貼られ、管理されていた。ちなみに教室の机・椅子と部屋の備品のそれらは、全く同じものが使われていた。
 トイレで使っていたペーパーも、一つ一つ「衆議院」と書かれた紙に個包装されたものだが、ペーパーの質自体はそういいものではなかったと記憶している。

 入寮手引の中に、「家具・電化製品の持ち込みは最低限に」くらいの注意書きがあったように記憶している。私は布団、炊飯器、食器と調理器具、アイロン、本、衣類程度を家から持っていき、整理用のカラーボックスの類は寮の近くの店で買った。

 スマホはおろかフィーチャーフォンもなく、ポケベルも一部ビジネスパーソンだけが使っていた時代、寮に電話は1回線しかない。
 電話がかかってくると、そのとき電話の一番近くにいた人間が「出まーす」と言いながら出て、かかってきた人の部屋のベルを鳴らすか、口頭で知らせるかした。
 常時15人程度が住んでいるだけの小さな寮だったので、電話のベルだけは、大体どこにいても聞こえた。

 寮に電話をかけてくる人の弁によると、「人気アーティストのコンサートチケットを取るときみたいに全然つながらない」とのこと。こちらから外にかける場合、外の公衆電話を使うことも多かった。

 寮の固定電話から電話をする際、東京03エリア内なら3分ごとに10円を自分で計算し、市外局番にかける場合は「100番通話」を利用した。
 いったん100番に電話し、オペレーターに番号を告げて接続してもらう。そして通話後に料金を知らされるので、日付、名前、料金(自己申告)を電話脇のノートに書いておく。
 その料金は、月末に寮長が徴収にくる。極端なごまかしをする人は多分いなかったと信じるが、かなり性善説にのっとったやり方だった。

大きな声では言えない話


 授業は9時20分頃開始し、16時頃終わる。寮の門限は22時だった。

 アルバイトは禁止されていたし、寮にテレビはなかったので、ごはん(自炊・外食)や入浴の後は勉強(符号の反復練習等)するか、ラジオを聞くか程度だった。
 一つ屋根の下、9時に寝て4時5時に起きるという人がいる一方で、3時に寝て8時に起きる人も存在したので、いつもどこかに明かりがともっていた。

 普段の食材や生活財の買い物は、世田谷通りと用賀中町通りが交差したところにあったサミットストア馬事公苑前店か、商店街に行った。
 当時は商店街にありとあらゆる種類の小さな店が立ち並んでいたが、先日Googleストリートビュー(**下記注)で見たところ、そのほとんどがなくなっていた。
 一方でサミットや、そこからもう少し渋谷方向に進んだところの三越馬事公苑、ロイヤルホスト馬事公苑店などは健在のようだった。

 小田急線経堂駅・千歳船橋駅及び東急新玉川線(現・田園都市線)用賀駅のいずれからも徒歩20分程度かかっていたので、どこを最寄り駅と呼ぶべきか、卒業であそこを離れるまで分からなかった。
 ちょっと遊びにいくにしても、近くのバス停から渋谷に行く人が多かったし、新宿に出るときは、成城学園前までバスで行って、そこから小田急に乗ったりしていた。(余談だが、最も近くのバス停は「成城学園前駅」と「田園調布駅」を結ぶという冗談のような路線だった)

 田舎者のさがか、住んでいるところを最寄り駅で呼ぶことに尋常ならざる憧れがあったが、郷里の友人には「世田谷に住んでいる」とだけ言って、やたらとうらやましがられた。
 多少東京に土地勘のある人に「地名でいうと上用賀で…」と言ってみたけれど、「ああ、ヨーガ!」という反応だったので、「じゃなくて、東京農大とか馬事公苑とかがあるあたりで…」「うーん、その辺よくわかんない」と、さして盛り上がらずというあんばいだった。

 2万円前後の生徒手当から数千円の光熱水費と新聞購読料が天引きされ、あとはお小遣いにしたり、蓄えたりした。家からの仕送りだけで生活できていた人は、貯金して卒業後の部屋を借りるのに使ったらしい。
 生徒手当が出ると、みんなで外でごはんを食べるのが月一の楽しみだった。
 あんなお高そうな街に住んでいながら、月5万円も仕送りを受けていなかったと思う。

 また、大きな声では言えないが、高校を卒業すると、成人前でも平気でみんな飲酒していたような時代なので、先輩方と経堂か千歳船橋の駅前、時には下北沢あたりまで「遠征して」飲みにいったりもしていた。

 女子という生き物は、お酒はサワーを全種類注文してみんなで一口ずつ飲んだりする程度だが、とにかくよく食べる。7人で飲みにいって、2万円ほどを割り勘にした。ばかげて長くなったレシートを、お風呂場の黒板(自分が入りたい時間を書き込んで、入浴が終わったら次の人に声をかけていた)に張り付けて、「大作映画のエンドロールみたいだね」などと言って笑った。

 寮内での飲酒は禁止されていたが、たばこに関しては「灰皿を使う」程度の規則しかなかった。少なくとも女子寮には喫煙者自体がいなかったと思われる。

**
注釈というより余談ですが。
2024年現在、『テニスの王子様テニプリ』大好きおばさんと化している私は、このストリートビューを見て、たいそうテンションが上がりました。
というのも、商店街で「電気店」と「クリーニング店」が隣り合っているのを確認したからです。

テニプリには主人公が所属する学校以外にライバル校が幾つか登場しますが、そのうちでも人気のある氷帝ひょうてい学園は、外観のモデルが成城学園だと言われています(小学校を「幼稚舎」と呼ぶなど、学校自体のモデルは慶應義塾説あり)。
その氷帝中等部男子テニス部の3年生キャラで、向日岳人むかひがくと君と芥川慈朗あくたがわじろう君という子がいて、家が隣同士、幼稚舎時代からの幼馴染という設定があるのですが、それぞれのおうちの家業が「電気店」と「クリーニング店」なのですよ。

小っちゃくてかわいい2人が、半ズボン履いてリセエンヌバッグをしょって、小田急の電車か小田急(あるいは東急)のバスに乗って学校に通ってた幼気いたいけなさまを想像してしまうというものです。
私はいわゆるショタ属性にはさほど興味はありませんが、やはりかわいいものは素直にでたいという欲があります。

このテンションの上がり方は、「1階が喫茶店、2階が探偵事務所」という建物を見て「あーっ、『探偵物語』だ!」と反応するファンに匹敵するかと。
ちなみに『名探偵コナン』や『文豪ストレイドックス』も、この条件に該当しますね。
**

掃除・洗濯

 洗濯は、各階に洗濯機が2台ずつ置かれていたので、多分1台を3、4人で使っていた計算だと思う。それを適当に時間をやりくりしながら使い、寮の南側の庭に干した。
 目隠しの塀が周りに張り巡らされていたので、油断して下着を干したら、先輩に注意された。
 きつく言われたわけではなく、大変やんわり言われただけなのだが、時期的に軽いホームシックにかかっていたこともあり、「すみませんでした!」と謝りながら、下着だけ持って部屋に戻って泣いた。

 私は18まで母方の祖父母と両親と暮らしていたが、嫁姑問題よりもえげつない母娘問題でけっこうギスギスしており、「こんな家、高校を卒業したらすぐに出ていってやる!」と思ったのも、進学で東京に行った理由の一つだった。
 しかしいざ出てみると、「頑固ばばあ」「菓子ばかり食べてぶくぶく太って」と、お互いの悪口を聞かされていたことすら、美しい思い出になってしまったようで、「家に帰りたいなあ」などと、あり得ないことを考えていた。けんかばかりしていた弟にも会いたかった。

 庭には小ぶりの桃のような果実の生る木が1本だけあり、夏になると、収穫もされずに朽ち落ちた果実が甘い腐臭を放っていて、においのせいで眠れないこともあった。

 寮内に目を向けると、各部屋は使っているものが(随意というか自己責任というか…)、浴室と台所は当番が掃除した。
 そのほかに、年末に閉鎖される前に分担して大掃除をした――と思うのだが、実はあまり覚えていない。

 また、春・秋の遠足で寮が空になるタイミングで、燻煙式殺虫剤バル●ンを焚いたこともある。
 これはいいアイデアだとは思うのだが、今冷静に考えると、少なくとも私が在学中は一度だけだったと記憶している。

 というのも、遠足の打ち上げ的な感じでご飯やお酒に行くことも多かったのだが、そのお楽しみの後に「バ●サンの後始末」というのは、結構な心の負担になるはずだ。
 いろいろな経験から、自分は他人と行動をともにするのに向いていないと思い知っていた私は、「私、先に帰って片付けておきます」と申し出た。

 「ゴキブリの死骸はにおうよ」「大変だから無理しないで」と止められたが、私はにっこり笑って「気にしないで楽しんできてください――明日デートだから早く帰りたいんです」と言っておいた。好感度を(むだに)上げた後に(ごく普通に)下げる、我ながらバランスのいい発言だったと思う。

 まあさんざん脅されていたので、一応戦々恐々として寮のドアを開けたが、目立った死骸はなかった。
 寮の隅から隅まで見回ったので、もちろん皆無ではないけれど、ささっとほうきでかき取って、小さな袋に入れてぽいっという程度で済んだ。
 多分、生命力の強い彼らは、煙を感知した時点で外に逃げ出してしまったのだろう。
 各人の部屋のことは各人で対応してもらうしかないが、少なくとも私の部屋には何もいなかった。

 学校からテレビを借り、予備室に置いておくことも忘れなかったので、「気が利くねえ」と感謝された。
 私としては、面倒くさいご飯や飲みをていよく断れたので、「これくらいお安い御用!」ってなものだった。

 実は寮には「勉強の妨げになる」という理由でテレビがなかったので、週末に学校から借りて、月曜日の朝返却することになっていた。
 長期休暇で帰省している人が多い場合、誰も見ないテレビがぽつんと予備室に置かれていたので、それを自室まで運び、深夜映画を見たこともあった。

 つまりまあ、体重40キロ台のうら若き女子一人の力でそういうことができちゃう程度のテレビだったということである。
 小さなディスプレイ、室内アンテナ、丸っこいフォルム――カラーの番組が映るのが不思議なほどのクラシックさだった。
 いずれにしても、スマホでYou TubeなりTikTokなりを見る日常を送る令和の子たちには、一から十までビジョンが浮かばない光景ではないかと思われる。

ねんいち合コン&おまけ


未成年飲酒のくだりで書こうとも思ったのだが、うまくまとまらなそうだったのでこちらで。

 実は在学中、二度「合コン」というものをしたことがある。
 1度目のお相手は、2年先輩の紹介による名門私立大学音楽愛好系サークルで、場所は六本木(一次会・二次会とも)。正直あまり印象に残っていない。

 しいていえば、同級生の中でもひときわ美少女として名高かったKちゃん狙いの男性が、日本で未公開の映画をアメリカで見てきたばかりだという話をしているのが聞こえ、映画好きだったためそのタイトルに反応してしまい、「あ、全然関係ない話してるんで」と意味不明な拒絶をされるという、大変空気の読めないことをやらかしてしまったことくらいだ。
(負け惜しみでも何でもなく、私もその人自身には全く興味がなかったので、かなり遺憾なんだこのヤローでした)

 2度目は後輩が口を利いてくれたとのことで、お相手は堅そうな某国立大の学生さんたちだった。
 これは――誰が悪いわけではない、強いていえば「天気が悪かった」。

 暴風雨の中、渋谷ハチ公前で土曜日の夜に待ち合わせの上、実はお互い「顔をよく知らない」という手際の悪さだったので、1時間遅れとはいえ、よく対戦校おあいてに巡り合えたものだと今でも不思議でならない。

 「浪人と留年を重ね、3歳年下の妹さんと同じ大学で同学年という“お兄さん”」が、自虐ネタで笑わせてくれた。

 「二次会で行った地下の巨大居酒屋で、半地下的なロフトっぽい空間で飲んでいた学生グループが、調子に乗ってガラス板を下に落としたという暴挙により、一時騒然となった」というのが、悪い意味で印象に残っている。
 幸いけが人などは出なかったが、もしも実被害があったら、当時の天皇陛下ご不例による自粛ムードも相まって、大層たたかれたことだろう。「酔っ払いってやあね」で軽く済んだのが、よかったのか悪かったのか。

 ちなみにどちらも、カップルは全く成立しなかった。

◇◇◇

 唐突にオカルト話など。

 私にはいわゆる霊感というものはないと思うが、この寮の2階に住んでいた当時、しばしば金縛りに遭った。
 今まで人の話を聞いても全くピンと来ず、「手足が動かせなくなる」程度の認識だったのだが、実際に自分が経験した金縛りというのは、「何者かが侵入してきて、自分の上に覆いかぶさり、腕を押さえつけたり、耳元で息を吐いたりする」という、ほぼレイプ未遂のようなものだった。体を何とか動かしたり、声を出したりして「抵抗」すると、ふっと消えるように軽くなった。
 2年に進級し、部屋替えで1階に引っ越すと、そういったことは一切なくなった。

 あれはまさか…インキュバスでは?

続く後編はこちらから ↓


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