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近代的自己への反省と仏教を学ぶ意義

中村元先生の書籍を読んでまたdotsがconnectingしたので、記事を書きます。
connecting the dotsについてはこちら↓

読んだ本はこちら↓

キーワードは、近代的自己。
デカルトが「我思う、故に我あり」と言った。近代的自己の始まりである。
現代の日本は1億2千万人の近代的自己が暮らしているのだが、そもそも「日本の近代的自己」というのは西洋の文化を積極的に取り入れ始めた明治時代から始まっているものだ。
それ以前にどういう自己観が有ったのかは定かではない。おそらく神道や仏教がその自己観を形作っていたのではないかと僕は想像している。

明治維新以降、日本の成長には目覚ましいものがある。途中戦争に敗れたとはいえ、一時期は世界一の経済大国まで登りつめた。
まさに繁栄を極めた日本だったのだが、ここ最近はなんだか明るいニュースがないような気がするのは僕だけか?

中村先生の本は2000年に刊行されたものだが、その時点でもう日本人の自己観に警鐘を鳴らしていたということだ。
この本はタイトルの通り、仏教の真髄である釈迦の思想をわかりやすく紹介している。
そして釈迦の思想を学ぶことこそが、近代的自己観とそこから生まれた日本社会の閉塞感への反省へと繋がるという。

昨年、僕は阿蘇を登ってモヤモヤしていたのだが、今回のこの本を読んでスッキリした気がする。
このスッキリ感が皆さんに伝わればいいなと思いながら書いていく。
(阿蘇に行って感じたことも記事にしてるので良かったら見てください↓)

1.モヤモヤの正体。代替可能である個人。

さて、まずモヤモヤの正体が何だったのかという話から。結論から言うと、自分は代替可能である個人に過ぎないという事実に気がついてモヤモヤしていたのだ。

昨年9月に、2泊3日で阿蘇を満喫してきた。時の流れに身を委ね、思うままに山の中を自転車で走り回っていた。本当に気持ちが良い3日間だった。
その後仕事に戻ったら、当たり前だがタスクがたくさんあるのだ。何だこのタスクってやつは?何のためにやってるんだ?
当然、お金を稼ぐためにやっているのだが、これは別に僕がやらなくてもいいことなんだな。他の人がやっても結果は同じ。じゃあ「僕が」このタスクをする事に本質的な意味は無いじゃないか。

もちろん僕にしかできない仕事はあるんだけど、そうじゃない雑務(データ入力とか)は僕以外の人でもできるのだ。当たり前のことだけど、なぜかこのときに気がついた。
自然の中では自分の思うままに過ごしていた。自分にしかできない仕事は、自分の裁量でやり方を決めれる割合が比較的多い。だが雑務はというと、僕にコントロールできる余地はない。ただやるだけ。機械と一緒だ。

自然のゆったりとした時の流れと、現実の忙しい時の流れのギャップがその事実に気が付かせてくれたのだ。
幸い僕の仕事の大半は、「僕である」必要が割とある。あると思いたい。
でも宇宙飛行士をやってるわけでもないのだから、代替可能な個人に変わりはないのだろうな。

2.近代的自己の問題点

近代的自己というのは、まさにこの代替可能な個人のことだ。ここが問題だ。
「我思う、故に我あり」は、人の精神を精神以外のものから切り離し、独立させた。

「負荷なき自己」という考え方があるそうだ。正直ここはまだ不勉強であるが、何となくニュアンスで書かせてもらう。
人間を自然から切り離した近代的自己の考え方は、個人を伝統的な共同体の枠組みから脱出させ、自由な主体として約束した。社会はこの自由で負荷のかかっていない個人が集まってできていると考える。

どうだろう、そんな負荷のかかっていない個人なんているのだろうか。僕は日本に生まれて日本語で記事を書いている。英語を話せるとして、自由だからと明日から急に英語しか話さなくなったら、僕は職場で相当浮いてしまうに違いない。生まれた瞬間から僕は日本人であることを余儀なくされている。

伝統的共同体から飛び出た個人は、誰とも代替可能な個人になってしまう。田舎を出て都会で仕事している人々は、その多くが代替可能な個人のはずだ。そうでなければ、満員電車のサラリーマンたちが皆死んだような顔をしているのを説明できない。

そこでは自分は自分である必要がない。となると、何だかモヤモヤしてこないかな?
じゃあ自分は何で生きているのだ?何の為にこんなに頑張ってるんだ?自分の生き甲斐って何だ?
こういう悩みを抱えながらも現状を打破できず、モヤモヤし続ける人が大多数ではないだろうか?

これは社会のあり方として問題じゃないかな?中村先生はこうした現状を指摘し、その原因を近代化の過程で日本人が仏教的な自己観を見失ったことにあると言っている。
仏教的な自己観とは果たしてどんな自己観だろうか…

3.仏教的自己「我は生きている、故に我あり」

近代的自己はキリスト教的世界観から生まれたものだが、キリスト教の枠内では個人一人一人を絶対のものとして説明するのが難しい。人は神によって作られたもの。そこに優劣は存在せず神の前では平等であるからだ。
しかし平等とは言うものの、個人はそれぞれとても個性的である。完全なる神が何故このように多種多様な人間(言葉を選ばずに言えば、優れた人間もいれば、劣った人間もいる)をつくったのか。

仏教的な自己観は、近代的自己が生まれる以前から存在したわけだが、デカルトの「我思う、故に我あり」をその前提から問い直す。
我が思うのは、我が生きているからだ。言い換えるならば、「我は生きている、故に我あり」なのだ。こう言い換えた途端に、自分は「生かされている」という感覚がしてくる。

仏教には縁起の思想というのがあり、個人が生きているのは過去の宇宙の一切のものがその個人に影響を及ぼしているからだという。
何もないところに突然自己が生まれるわけではない。何億年も前に地球ができ、たくさんの元素が集まって生命が生まれ、多くの先祖がめいめいに生を全うし、その先祖のDNAを受け継いだ自分が生まれてきたのだ。
こう考えると自分が今存在しているのは奇跡のような気がしてくる。重要なのは、これは自分の周りにいる他の人にも当てはまると言うことだ。

親、パートナーはもちろん、誰にでも一人はいるだろう嫌なヤツも、道ですれ違う他人も地球の反対側の外国人も、みな過去の一切のものが原因となり、現在奇跡的に生まれてきた存在なのだ。
個人に影響を及ぼしているものは、一人一人違う。同じ家に生まれても全く違う兄弟姉妹になるように、我々はありとあらゆるものに影響を受け、育まれているのだ。
だから、みんな違って、みんなかけがえのない存在なのだ。

4.華厳経の教え、慈悲の心

中村先生は現代社会を「員数」社会と呼び、一人二人と個人の中に計量される自己があるとした。400名の会社員。この車両の定員は50名といった感じだ。
一方で人には計量されない自己もあるとした。それを支えているのが、一人一人に過去の宇宙の一切のものが影響を及ぼしているという考え方である。みんな違ってみんな良いのだ。

華厳経という大乗仏教の経典がある。修行をしていなくても、衆生を救うのが大乗仏教だ。
華厳経には、「この世界の一切の存在と現象は、相互に連関している。そして一切の存在を差別なく尊重する」という思想がある。
計量されない自己がある、そして一切の存在を尊重する。

こうした仏教的な自己観をもって、どのように生きていくのが良いか。釈迦は「善を為し、悪を為さない」と言ったという。(誰でも言えそうだな)
その言葉の根本には、上記のような思想の体系がある。「我も人の子、彼も人の子」。根本は一つ、人に対して温かい心を持って接すること。これを仏教では慈悲と呼ぶ。「慈」は友情。「悲」は同情を意味する。
「愛」は感性的である。人は油断すると醜いものよりも美しいものを愛してしまう。慈悲の立場に立つならばこれは許されない。親しい人も見知らぬ人も、動植物にも同じように慈悲の心は広がっていなくてはならない。

釈迦は、慈悲の心こそがこよなき幸せに繋がると言っている。人を利する利他こそが、自分への自利になる。自利即利他。

5.生き甲斐、いのちの尊さ

生き甲斐とは何だろう。やりたい事がありませんという言葉はよく聞く。やりたい事探しは若い人の間で結構流行ってるんじゃないだろうか。

残念ながら、代替可能な個人である限りやりたい事なんて見つかりっこないと思う。世の中いろんな仕事、職種があるけど、それらのほとんど全てが「システムに組み込まれた人間の役割」の域を出ない以上、そこにやり甲斐を求めるのは無駄というものだ。
やり甲斐というのはたぶん自己の内部にあるものだ。中村先生は人格の完成という事について素晴らしい示唆に富んだ言葉を残している。

人格の完成とは、その独自の意義において完全に生きるということです。それが自己の完成であり、これは偉大なものによって生かされているという心を持つことでもあります。

我々は生まれたとき、すでに過去の一切のものという独自の意義を持って生まれてきている。個人的には「生まれる」というのもおこがましい気がする。「生まれさせてもらった」のだ。そして今「生かされている」のだ。
そこに独自性があるというのだ。万人にそうした独自性があることを理解し、慈悲の心を持って人の為に仕事をする。もしかするとその瞬間に生き甲斐というものが、自分の中から湧いて出てくるのではないだろうか。

近代的自己は自分を形作る原因を想定していないため、生きている実感に乏しい。仏教的自己観は、自己は結果であり、原因に「生かされている」という思想がある。
これが「いのちの尊さ」にも繋がるのだろう。我々はもう一度この「いのちの尊さ」に気が付かなければならない。「いのちの尊さ」を実感できる共同体の復興、そしてその共同体を支える宗教性が必要だと中村先生は言う。

6.仏教を学ぶ意義

仏教の生命感は、僕たちにとても大事なものを教えてくれている気がする。
自分は過去の宇宙の一切のものを背負って生まれてきたのだ。いや、生まれさせてもらったのだ。

たまたまこの体に自分という意識が宿っただけだ。僕は最近そう考えるようになった。
脳科学的には、意識も進化の過程で身についた人の体のシステムなのだ。脳の情報がパターンとして統合される状態の時、意識がある。深い睡眠中はニューロン同士の統合が途切れるので意識がなくなる。
結局脳が活動するから、僕という意識が存在できるのだ。

なぜか僕の体がこの世に生み出されて、脳が発達していく過程で僕という意識をそこに宿したのだ。どっかに僕の魂があって、この体と合体したとかそんなファンタジーに期待していた時期もあったけどもう止めた。

でも案外これはこれでとても気持ちがいい感覚もある。「生かされている」という実感は心を豊かにしてくれるのはたぶん間違いないと思う。
通勤の道に咲く花が美しいと思うようになった。仕事で人と話している時間がかけがえのないものだと思うようになった。自分の仕事で人が笑顔になるのが幸せだと思えるようになった。

仏教を学ぶことで心が豊かになれる。
これはたぶんガチだ。

ものが豊かになった時代。何故か人の欲は留まることを知らない。ものが満たされても、心が満たされていないのではないだろうか。
仏教を学ぶ意義はそこにあると思う。心の豊かさはもので埋めることはできない。

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