見出し画像

〈残余〉として書くこと,あるいはアマチュアであること。

以前書いたのはもう三年前なのかと,その事実に呆然とする。

しばらく書いていなかった理由はたくさんある。しかし数ある書けない理由のなかでも最大のものはといえば,一番最初の note で自己紹介がてら自分のことを,〈「教育学」のなかでうまくやってくことを決めた人間である〉と書いてしまったからだ。
なぜそれが書けない理由なのか。単純だ。

私はいまや教育学徒ではないからだ。

アイデンティティなんて鼻から一貫性に欠けるのだから,自分の専門が変わることくらい別に恥ずかしいこととも思わないけれど,「自己紹介」で〈おかれた場所で咲きましょう〉的な偉そうなことを書いておいて,自分はおかれた場所から去ってしまっているなんてこれは少し恥ずかしいw
(とはいえ,置かれた環境でその環境そのものを批判するような学問のあり方はつねに大事だと今でも思っています。)

ではなぜ今書くことにしたのか。まあ特段これといった理由はない。書けない理由だって「ある」とはいったが,〈書けない〉理由は〈書かない〉理由の後付けでしかない。なんだかんだいって,ページをひらけば言葉は氾濫するだろう。
そうはいっても,書くきっかけというのはある。今回私が書こうとおもったきっかけは,いくつかあるがそれを三つに絞って書いていこう。

1.〈新たなる自己〉紹介

 まず一つは,修士論文を提出し終わったということ。これは単に時間の余裕ができただけではなくて,学部時代に卒論を書いた〈教育哲学〉という分野からの引っ越しが一応は完了して,新たなフィールドで自己紹介ができるようになったということだ。
 しかし自己紹介というのは難しい。そもそも「自己」を紹介することなど可能なのだろうか。今これを書いている「私」は,きっとモスバーガーの店員とかかわる「私」とは違うし,バイト先で子どもと話してる「私」ともちがうし,そもそも以前に「自己紹介」した私とは専門も考え方もかなり違う。細胞も更新されていて,肉体によって同一性を保障することも日常思っているよりは望み薄である(そもそも「自己」が何かもわからないのにその「肉体」がみずからに帰属していると思うことなどどうしてできようか!!)。
 「自己紹介」をめぐる哲学は案外厄介だ。クラス替えやサークルの新歓で最初にやる「自己紹介」タイムに怯える人は「コミュ障」ではなくて,「自己」の同一性をめぐるあたりまえの不安を抱えているだけだ。
 とはいえ,そんなことを言っていてもこれもまた書かない言い訳を滔々と述べて書くことを延期しているにすぎない。「書くこと」は「話すこと」同様,自らを他者へと委ねることだ。嫌われるかもしれないし,しょもないなと思われるかもしれないし,逆に熱狂的なファンがつくかもしれない。「自己紹介」とは,あらゆる可能性に自らを投げ出すことだ。これには勇気がいる。しかしやるべきことは単純だ。

 私が語るべきことは,私が伝えたいと思うことだ!

 伝わるかわからないし,伝えられるかわからない。読まれるかはわからないし,誤読されるかもしれない。それでも何か言いたいことがある。この衝動に身を任せて,誰でもないあなたへとこの駄文を届けること,このボトル・メールこそが「自己紹介」だ。そしてそれはたとえ「自分」について書いていなくても,書くたびごとに〈新たなる自己〉を他者へと晒すことになるだろう。だから,今回は前回のように専門分野を限定して自己紹介することはやめよう。私がこれを書くもう一つのきっかけを書くことで私の〈自己〉を読んでくれているみなさんに委ねることにしよう。

2.崩れたライスバーガー

 さて,「自己紹介」の代わりにさっき食べたライスバーガーの話をしよう。こちらが本命だ。「そうだ,ライスバーガーの話をしよう」が note を改めて書くに至る最大のきっかけである。
 私はモスバーガーのライスバーガーが好きだ。ファストフード店が出すライスバーガーで一番おいしいと思う。(でも昔あった「きんぴらバーガー」がなくなったのは少し不満だ。)少し高いけれど,たまに食べる昼ご飯には少し贅沢な感じもするしそれも含めて好きなのだ。
 今日もライスバーガーを注文した。今日のは少し油や汁が多くて,すぐに崩れてしまった。そのうえバーガーを包む紙には米が何粒かついていて,食べるために包み紙を剥がそうとすると米が手についてしまう。正直ちょっと煩わしい。だが,味がうまいのでそれでいい。平野レミではないが,「口にいれちゃえば一緒よ~~!」精神でいよう。

 「崩れたライスバーガー」を頬張りながら,私はこのライスバーガーが「私たち自身」なのではないかと思った。そしてこの「ライスバーガー」はこの国の未来を予示しているかのようである。ここで私が言いたいのは,この国は客にまともな商品も提供できないのか!とかそういうはなしまったくない。むしろその逆で,この国で生きようとするとき私たちは「崩れたライスバーガー」であらざるを得ないのではないかということだ。
 いま私が食事をしている店舗では,一般的には「日本人」と呼ばれるであろう人たちが仕事をしてる。しかし近年は,これが「普通」ではない。多くの外国人労働者がこの国の低賃金労働を支えているからだ。彼女らは低い賃金で過酷な労働に日々従事している。
 ファスト・フードも例外ではない。むしろ,そうした職場のなかでも目に付きやすいのはコンビニかファスト・フードだろう。今回のようなちょっと崩れた商品が出て来た時,日本人の店員にはクレームがつかないのに,外国人の店員(特にアジア系)だとすぐにクレームがついたり,クレームがつかなくても「あーまあ○○人だから」と言われて,商品の問題や製造工程の問題が人種化(racialize)されることはよくある。
 しかしちょっと考えてみればわかるが,「日本人」であるか「外国人」であるかは大きな問題ではない。問題なのは製造工程やオペレーション,店員の研修制度などの経営管理上のシステムだ。かといって,経営管理システムを修正すればそれでよいかというとそれにはうなずき難い。「資本主義」と「人種主義」(racism)はつねに手を携えている。クレームによって差別的言説が生産される機会を減らしたいだけなら,経営管理システムを修正しさえすればよいだろう。しかし,それは経営管理の側の都合であって,むしろそれでも生じかねないエラーはますます人種化の度合いを強めていく。最大の問題は人種主義を生産する資本主義システムそのものなのだ。
 こういうことを言うと,「日本人」というのはもとから「真面目」で「勤勉」で,だから「外国人」が増えたら仕事が雑になって云々ということをいう輩が現われる。しかし,そんなのは虚妄である。それは近代国家としての「日本」には,それまで江戸幕府に直接臣従していたわけではない「沖縄」や「アイヌ」の人々が組み込まれているということを見れば明らかだ。「本州」と呼ばれるあの大きな島を考えてみても,その「内部」にいくらでも方言があるし,そもそも天武天皇(在位: 673-686)が「日本」とか「天皇」という号を初めて使ったのだと仮定しても,このときに「日本」の範囲がどこまでだったか,いやそもそも明確な範囲が想定されていたかさえ判然としない。近代以降に限ったとしても,「変だ!」と言われない「日本人」は果たしてどれだけいるのだろうか。中産階級で,異性愛者,そして標準語を話し,高校ないし大学に行き,大手の企業に就職し,果ては家庭を作り,子どもを産み,家をローンで買って,孫を見て,終活をして,静かに果てる。こんな「典型的」な「日本人」,果たしてこの国に何人いるのだろうか——しかし残念ながら,このライフ・コースに疑問を抱いたことのない者が「マジョリティ」だ。
 「日本」だけでなく,世界中に典型的な「○○人」は存在しない。だから「崩れたライスバーガー」は私たちの姿だ。均整の取れた思い描く通りの商品が出てくることはない。同じように私たちも要求されるものから何らかの仕方で逸脱してる。しかし「崩れたライスバーガー」で何が悪いのか。すべての「ライスバーガー」は,私たちが本当は見たことも聞いたこともない〈理想的〉な「ライスバーガーのイデア」からは少しずつずれている。同じように,私たちは「日本人のイデア」からはみなそれぞれの仕方でズレている。その意味で私たちは例外なく「外国人」である。
 そもそも〈典型的な○○人〉という語りそのものがイデオロギーだ。明治維新以来,「日本」という国は,自ら仮構した「西洋」という〈理想〉に追いつかんとし,「勤勉さ」というイデオロギーをみずからの内に抱え込んでしまった。
 クラスの憧れの〈あの子〉(西洋)に褒められたい,そう思って頑張っていたら,その子が急に〈私〉(日本)のことを褒めてくれるようになった。しかし本当は,〈あの子〉は〈私〉のことを,購買でパンを買ってくれるパシリとしか思っていないのだ。ところが,褒められれば褒められるほど,〈私〉は〈あの子〉に褒められた部分を,自分の長所として内面化してしまう。そうして思い上がった〈私〉は,「〈あの子〉と違って〈私〉は優しいからね」,なんて言ってしまう。挙句に,〈私〉は自分を小間使いしようとする〈あの子〉の思惑通りに動くのである。「日本人」が「勤勉だ」なんていうのは,まさにこの状況を追認するようなものである。

 〈多様性〉が巷で騒がれるようになって久しいが,日本社会は未だ「崩れたライスバーガー」を許すことがまったくできないでいる。しかし今こそ,「崩れたライスバーガー」を許そう,それは自らを許すということでもあるからだ。「勤勉さ」なんてクソなのだ。

これが言いたくて note を書き始めた。

3.社会の政治化と共同運営のXアカウントの創設

 この三年で,私は一挙に政治化したかもしれない。いやむしろこの三年で政治化しなかった人などいるのだろうか,と思ってしまう。
 ここで私が「政治化」と呼んでいるものは,かなり広い意味を持っている。言ってみれば,自分が「崩れたライスバーガー」だという意識をどこかで自覚し,「政治」に不満を持ち,自分なりになんらかの「意見」を持っていることだ。必ずしも直接的に行動に結びついている必要はない。世の中に対する「なんか違うんだよなあ」感,これを抱えることを「政治化」とひとまず呼ぼう。
 その上で,この三年を振り返ってみよう。コロナが流行し,私達の移動は制限され,私達の健康はますます国家の管理の下に置かれた。アメリカでは,トランプ支持者が議会に乱入する事件が起き,民主主義そのものの存亡が足もとから揺らいだ。そしてそれに呼応するかのように世界情勢も不安定化し,ロシアのウクライナ侵攻が始まり,イスラエルはガザにおける大量虐殺を止める気配がない。日本では,安倍晋三の殺害によって統一教会問題が明るみになったし,最近では安倍派の裏金献金問題まで明るみになり,自民党政治の根本的な問題が明らかになりつつある。
 こんな大局的な「政治」のことばかりではなく,不登校児童・生徒数が年々過去最高を更新していたり,今年の年始に起きた能登地震の対応が遅々として進んでいなかったり,女性の自殺者が急増したり,外国人労働者の待遇が全く改善されなかったり,〈多様性社会〉を謳うわりに,あまりにもあぶれる者が多すぎる。
 おそらくこうした状況の中で,多くの人が「政治化」したのではないだろうか。「何かおかしくないか?」となんとなく思っているはずだ。それで最近は,「おかしいなら声をあげよう!」という人がちらほらでてくるようになった。いいことだと思う。でも,やっぱり声を上げるのは難しい,という気持ちもわかる。
 おそらく,その理由の一つは,何が問題なのかはっきりとわからないということだ。もちろん直観で,「なんかおかしい!だから変えなくては!」といって声を挙げられる人もいる。しかし多くの場合,「なにかおかしい!でも結局何がおかしいのだ?」ということで立ち止まる人も少なくないと私は思っている。そして,そこで立ち止まれることもまた重要なことのように思う。
 最大の問題は,このように「あぶれてしまった人たち」,言い換えれば,〈残余〉の者たち——酒井直樹という思想家の表現だ——が,それぞれ別々の問題に苦しんでいるかのように感じ,無力感に苛まれてしまうことだ。たしかに個別の苦しみがあるだろう。そして,それぞれの問題には固有の歴史的変遷があるだろう。この歴史的な重みは,そうした排除の形態をどう乗り越えるかを考えるうえでも軽視できるものではない。しかし,それでもなお〈残余〉としてのわれわれは,互いがどうして〈残余〉であるのかに向き合い,その限りで共通のものを持たなくてはならない。同じ国籍であるとか,同じ性別であるとか,そういうものは関係ない。われわれはみな「難民」なのだ。
 しかし,何度も言うがこの難民性,あるいは無力さのようなものに自覚的になるのは容易なことではない。だから,バラバラに散らばっている苦しみが,それでももっている〈共通なもの〉は何か考えなくてはならない。私は一応は,修士課程にいて,博士課程への進学を希望し,アカデミアに残って研究を続けようとしている身だ。だが,私はアカデミアである以前に,いやむしろアカデミアに残ろうとするその無謀さのゆえに,私もまた〈残余〉である。大学の制度化された知のなかで研究するということは,私に身分保証を与えてはくれる。しかし,むしろ制度化された知識の体系は,資本の要求するものを再生産する帰結をも生み出しかねない。日本の場合も,アメリカほどひどくはないにせよ,やはりプロフェッショナルであるということと,権力関係に取り込まれた知の生産と流通を担うこととはある程度共犯関係にあるといえるだろう。だから私が制度化された知の枠組みの中に身をおきつつも,それでもなお〈残余〉として,拡大解釈された〈市民〉——通常,「市民」は法によって政治参画が認められた「有権者」と同一視されるが,ここではそれを超えた意味で用いている——として書き,語るためには,自分の専門外のことについて,〈アマチュア〉として書かなくてはならないと思った。

ウクライナ出身で,アメリカで活躍した前衛映画作家のマヤ・デレン(1917-1961)は,「自由」であるために,〈アマチュア〉であることにこだわり続けたが,われわれは彼女にならって,政治を語るべきである。

アマチュア映画作家の主な障害は,プロの制作物に対する自分自身の劣等感だ。「アマチュア」という分類には申し訳なさそうな響きがある。しかし,ラテン語で「愛する人」を意味する "amateur "に由来するこの言葉には,経済的な理由や必要性よりむしろ,そのことが好きで何かをする人という意味がある。そしてこの意味からこそ,アマチュア映画作家はヒントを得るべきだ。脚本家や台詞作家,訓練された俳優,洗練されたスタッフやセット,莫大な製作費などでプロの映画をうらやむのではなく、アマチュアは,すべてのプロがうらやむ一つの大きな利点,すなわち,芸術的にも肉体的にも自由であることを利用すべきである。

Deren, Maya., 'Amateur Versus Professional', Film Culture 39 (1965): 45.(翻訳と強調は筆者)

 そんなことを考えていたことも,今年のはじめに私がnoteを三年ぶりに更新するきっかけの一つである。せっかくなので実践しようと思って,先日,学部時代の先輩と共同運営のTwitter(Xとは言わないぞ!)を始めた。まだ始めたばかりでフォロワーも全然いないけれど,〈アマチュア〉として,〈残余〉として書くことを試してみよう。

※せっかくなのでリンクを載せておきます。
https://x.com/dandadaaaaahn?s=11&t=Heiwut9P5F1_ZoXHYWpdYw


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?