ぼくは引きこもり

 2020年は引きこもりの年だった。思い返してみると、3月か4月頃から外出自粛が要請されて、それからすぐに大学はオンライン授業になった。新たな授業形式に戸惑いつつも、いつか普通に戻るだろうと思っていたら、いつの間にか12月になっていて、今ではオンライン授業が日常になっている。そうして来年もこの状況のままだろう。

 世界は大きく変わったが、僕の生活にはさほどの変化を生じなかった。むしろ外に出なくていい理由を得たから、大いに家の中で引きこもり生活を満喫していた。

 人は20歳をすぎると、突然その本性が現れ始めると思う。自分のアイデンティティーが顔を出してきて、いやでも主張を始める。過去からの圧迫によるものや、今でも抑制されていたもの、それまで生きてきた環境の作用やらが顕著にその人に現れる。
 僕の場合は、あまりに複雑で、それを言い尽くすことができないが、どういう運命の結果か、僕の20年分はひきこもりを促した。

 まず午後に起きる。大抵腹は減っていないから飯は食わない。それからパソコンで授業を受けて、課題をやって、そうしているうちに夜になっている。適当に飯を食って、また課題をやる。時間が余ったら絵を描いて、本を読んで、それからウイスキーをラッパ飲みして寝る。
 本当にこれだけだ。外には出ないどころか、雨戸を締め切っているんだから外さえ見ない。誰とも喋らない。二週間は同じ服を着ている。毎日椅子と布団を往来するだけだ。
 それでも週一回の体育と実験で多少の人間らしさを回復するが、それ以外に健全な人間らしい生活をしない。ぼくのような不具にとっては悪くない生活だった。何とも思わない。寂しくもない。いや、寂しいことには寂しいが、全くそれを埋め合わせる資格と、埋め合わせようとするだけの反作用を持っていない。このまま、4,50年生きて死ぬだろうとも思われる。この状況をどうにか述してみると、辺りがたしかに暗いのだが、夜目が効いて、暗いことを厭わないような、病床に臥していながら、そこで半跏を組んで座禅をするような、そんな感じがする。僕はこの暗くて狭い部屋の中で、どれほど高尚な所へも、どれほど低俗な所へも出入できる。そうしてどれほど幸福な営みよりも、はるかに高級な幸福を感ずることができるのだ。

 しかし、周りを見渡してみると、意外と正常な心とともに暮らしている人が多い。みんな引きこもるとちゃんと辛くなる。辛いとちゃんと鬱になる。みんな真面目に働いている。サークルにも出向いている。彼女はいる。クリスマスプレゼントで何を渡すか悩んでいる。セックスの話でゲラゲラ笑っている。

 ......はてどうして僕はこんなに歪んでしまったんだろう。僕ほど恵まれていて、かつこれほど侘しい生活を送っているものがこの世に何人いるだろうか。僕はいつ普通から足を踏み外してしまったのだろう。何で何も感じないのだろう。それでいて、なぜ時折、いっそ癌で余命宣告を受けた方が楽だろうと思うのだろう。

 同時に、こうはいいながらも、クリスマスの一週間前に、知人にクリスマスの予定を聞かれたときに、もっと話しようがあったのに、ただ散歩でもしようかなといって、それ以上の話をしなかったのだからまだまだ若いと思う。自分でもやっぱりこの体たらくを恥ずかしいと思うのだろう。20歳はまだまだ若い。何もわからない。

 ここで少し、僕の12月24日の実際について述懐しよう。この日は分子生物学と哲学(この授業はなかなか酷いものだった)の期末試験があった。午前と午後にそれをオンラインで受けて、それからは全く暇になった。僕の大学の知人たちは、みな僕と同じような人種だが、みな真面目なものでバイトがあるそうだから、やはり一人で暇になった。
 僕は思い立ったように服を着替えて、厚いダウンを上に着て、一人でつくば駅まで歩くことにした。外に出ると、意外と寒くて歩くのが嫌になったから、自転車で駅まで行った。

 駅の近くの駐輪場に自転車を止めて、明るいほうへ歩いて行った。平生より人の多い感じはあまりしない。ショッピングモールには取ってつけたようなクリスマスツリーがあった。イヤホンからmerry christmasが流れている。しかしながら、何も無い一日の、やはり何も無い夜に過ぎない。それからショッピングモールの本屋へ行って漫画を買った。久しぶりに娑婆に出たから、レジに並ぶ時に、前の人に睨まれた気がした。

 もっと明るいところは無いかと思って、駅の広場に行った。青と白の電灯が木に括り付けられていた。電飾が散見された。それだけだった。

画像1

 エキスポセンターの方の広場にも行った。噴水がいつもより大きく噴き出していて、赤や黄色に照らされていた。近くで見ようと柵の方まで寄って行ったら、生垣の裏に隠れて、女を膝の上に乗せてベンチに座っている男女に気がついた。少しく憐憫の感を抱いてしまった。あの噴水は、二人で見るにはあまりに質素すぎる。

 ぼくは彼らから4つほど離れたベンチに座って、ダウンの胸ポケットからジョニーウォーカーの小瓶を取り出した。一口嚥下すると、胸が熱くなる。飲み口が普段より小さいから度数がきつく堪える。確かに暗いなりに、いつもと趣が異なるかも知れない。

 程なくして暗い道を再び歩き出した。明るい光に顔を上げると、前からくる自転車のライトだった。自転車はぎりぎりでぼくを避ける。これを二編ほど繰り返した。ぼくが見えていないのか。向こうも頭が判然としていないのか。

 ぼくはつまらなくなって、家へ帰ろうと思った。自転車を出すときに150円の駐輪代を取られた。クソ野郎と思いながら自転車を漕いだらすぐ家に着いてしまった。

 まだ歩きたりなかったから、自転車を置いて再び歩き出した。明るいところが無いと分かったから、今度は暗い方を目指して歩いて行った。桜の広場から大学構内へ入って、ペデストリアンを歩き出した。下を向いて黄色い点字ブロックの上をわざわざ歩いた。途中、芸専の棟で、人が集まって話していた。こんな所で話すのは退屈だろうと思った。二学食堂の入り口で、また幾らか人がいた。手や足を細かく動かしている。ダンスの練習らしい。全員が1秒か2秒かしか体を動かさないで、すぐぶらぶらしているから、ひどく奇妙だった。ウイスキーを飲むのにマスクが鬱陶しくなったから外してしまった。依然下を見て歩いている。黄色いレールの上をはみ出さないように歩いている。レールが早く尽きないかと思いながら歩いている。この誘導ブロックは律儀に宿舎までずっと続いた。ウイスキーは半分残っている。

 ついに昔住んでいた7A棟の前まで来た。駐輪場が一杯になっていて、いくつかは全然はみ出したところに停めている。もうぼくじゃない人が住んでいて、すっかり慣れてしまっただろう。別段寂しくもなかった。もうあすこには戻りたくない。

画像2

 今度はループに出て、そこをずっと歩いて帰ることにした。点字ブロックはもう無かった。ぐいぐい飲んでいたら、足元が少し落ち着かなくなってきた。少しくレールが恋しくなる。途中のコンビニでチキンとメロンパンを買った。天久保公園の一つしかないベンチで食べた。空を見上げたら星がいっぱい光っていた。月がだんだん傾いてきたと感じた頃にウイスキーが無くなったから家に帰った。

 布団にくるまって気付いたことは、漫画を買ったことだ。まあ読まないでもいいと思って、寝苦しい夜を迎えた。

 寝苦しい理由と、それを解消する術を20の僕はまだ知らない。まだまだ到底わかるまい。


 ついでに、年の瀬にあまり暗い話ばかりしてもつまらないから、ぼくの12月29日についても述懐しておこう。
 この日は千葉に帰り、『納豆』のK君と再会して、一緒に懐かしい子に会いに行った。K君の昔の家の隣に住んでいた姉弟で、くーちゃんといぶぞうという。
 元K君の家は、現代的な集合住宅みたいになっていて、門を同じくしている家が7,8件連なってできていた。だから僕やK君が外に出ると、よくその集合住宅のちびっこたち、すなわちこの姉弟が遊んでいて、ちょっと遊び相手をしてあげているうちに、いつの間にか昵懇になったのだ。
 姉弟のお母さんも快く迎えてくれて、ぼくらはおよそ二年ぶりに再会を果たした。二人ともすっかり、というほどではないが大きくなっていて、いぶぞうはしっかり喋れるようにさえなっていた。その成長ぶりに驚くとともに、そうした時の大きな力のなかで、彼らがしっかり僕を覚えていたのが何よりうれしかった。
 それから大きな声で騒いでいたから、同じ集合住宅のかんちゃんとそのお母さんと、柴犬も出てきて皆で遊んだ。サッカーをしたり、バドミントンをしたり、おもちゃを持ってきたりしてたくさん遊んだ。
 くーちゃん姉弟は非常に活発な子たちで、有り余る活力をあふれんばかりに露出させて遊んでいた。その体力はすさまじいもので、体力のあるK君やぼくも参ってしまうほどだった。なんでもくーちゃんは学校のスポーツテストで男女含めて学年一位だという。いぶぞうはサッカーを習っているという(動画を見たが、わちゃわちゃしていて可愛らしかった)。家庭も良好で、習い事をたくさんさせてもらって、たくさん新しいおもちゃ(たまごっちや仮面ライダーの何か)を持っていて、たぶん、彼らはぼくが知らない間に、とっても健全でいい子たちに育つだろうと思う。ぼくも心からそうであってほしいと思う。

画像3

 あまり他人の子の写真を載せるのは忍びないため、顔がわからない程度のものだが、楽しそうな感じが分かると思う。


 かんちゃんは歳の割に天邪鬼なところがあって、無邪気に遊んでいるときに、不意に我に返ったように一言警句を放つ。ぼくがボールを持って座って、バイクで通るかんちゃんといぶぞうにボールを当てる遊び(意味不明な遊びであると容喙するのは野暮である)をしているときに、かんちゃんは当てらないようにけらけら純真な笑顔で逃げている途中で、突然止まったと思うと真剣な顔をして、

 「それさあ、ボール持って走ってから当てれば良くない?」

と言った。このとき眉毛が変に斜めになって上がることをみてからは、以降かんちゃんがこういう警句を吐く瞬間が分かるようになった。かんちゃんは皆がやろうとしていることをすぐにはやりたがらないし、お母さんが何か渡しても受け取らない。何かにつけて小供らしくない文句は言う。それでも、ぼくがくーちゃんやいぶぞうと遊んでいると、すごく小さくなって、

 「ぼくもいれて」

と言ってくる。言ってこない時は、警句を吐いた後で、一人で座って瞑想をしている。くーちゃんからホッピングを借りたときも、上手くできなくて、ぼくやお母さんの助けを借りながら30分近く熱中して練習していた。バドミントンをやったときも、ラケットにうまくシャトルを当てられなくて、泣きそうな顔になっていた(そもそも4、5歳なんだからできなくて当たり前だ)。


 ぼくはどちらかというと、かんちゃんに近しい感じを覚えてしまった。昔の自分は天邪鬼じゃなかったが、なんだか一人にしているかんちゃんや、警句を吐いて得意そうにしている顔をみて、憐みの感を抱いてしまった。だからなるべくかんちゃんが一人にならないように構ってあげた。
 しかしながら、ぼくとちびっ子との距離感と、K君とちびっ子の距離感には、なんだか肯綮に中るものがあった。K君の方には、ちびっ子は寄っていくし、足にしがみついたり、だきついたりして、身体的な距離が近い。他方ぼくにはあまり寄ってこないし、しがみつきもしないで、50cmくらい空いているような気がするのだ。もちろんぼくの方が会う機会が少なかったし、地理的な距離も遠いから、彼らと疎隔が大きかったこともあるが、この距離感には、実際の距離以上に何か大きな意味を感じざるをえなかった。容色の奥にある、人としてのこころの色をはっきり感じ取っている気がした。彼らはK君の純粋で美しいことを明らかな眸子で見抜いているのだ。そうしてぼくの奸譎なところを、はっきりとこころの内で悟っているのだ。

 母親たちはというと、お互い楽しそうにのべつに喋っていた。いろんな話をしていた。最近かんちゃんの弟を出産したが、つわりが寝込むほどしんどくってたまらなかったといっていた。彼女はBUMPが好きで、昨年やったツアーに行きたかったがつわりのせいで行けなかったことを、ぼくのリュックについたキーホルダーを見てぼやいていた。つわりには個人差があるから、奥さんには特別に労わってやらないといけないと言われた。小供たちは学校へは普通に行っているらしい。いぶぞうとかんちゃんは来年からミニバイクから自転車に乗る練習をしないとなんて話していた。小供のキャスターボード(二輪のスケートボード)にちょっと乗ってみて、もう今から努力しても乗れるようにならないとか、くーちゃんの好きな人が結構な頻度で変わるとか、今日の献立とか、それから、それへと、とりとめのない話を聞いたり、喋ったりした。有難いことに手土産もいただいた。途中から来たいぶぞう一家のお父さんには温かいカフェラテをいただいた。

 こうした、二年前と変わらないお母さんがたと、二年前とは異なるちびっ子たちを一緒に見ると、ぼくは胸から何かこみあげてくるものがあった。それは偉大なる時の力だ。ぼくはそのあまりに強大な力を前にして、自分の母親の事や、小さかった自分のことが、彼らを通してはっきりと思い出される。苦労や、感動や、名状できない些細な感情までも再生することができる。同時にそこから可逆的に、時の力のいかに偉大であるかを、いかに残酷であるかを、いかに淡白であるかを、胸に切り付けられるかのように思い知るのだ。そうして時の切創からこみあがったこの感情が、かくしてその根源、すなわち鼓動、その意味をぼくに再考させるのである。
 ......この小供たちは大いに祝福されて出生して、愛を受けて成長し、やがて親になって、背を丸くして死んでいく。そうして、必ずその前にぼくは死ぬ。わずかな間でもぼくが彼らの時の中に入って、一つの思い出として記憶されるのであれば、非常にうれしいことである。
 

 こうして四時間もの間小供たちと遊んだ後で、中学の旧友の女子二人を加えて西船橋で酒を飲んだ。いろんな話をした。ぼくとK君はあまりに疲弊していたので、個人的にあまり手ごたえのあるトークは出来なかったし、始終女子の一人が話を回してくれていたのだが、引きこもりのぼくとしては、大いに活力を回復できた楽しい時間であった。千葉の駅近くの居酒屋などは、非常に活気があって(茨城県とは違って)、全く面白い。とある店員さんの女の子が、ぼくの注文したハイボールを大きくこぼしながら持ってきて、それに気づいたぼくが彼女を見てにやにや笑うと、向こうも笑いながら(ぼくの一番好きな笑い方だ)、ジョッキを渡してくれたりする。これだけでぼくは健全な人間的な弾力を回復することができるのだ。
 ぼくの12月29日はこのようにK君と再会して(意外にも『納豆』振りだ)、ちびっ子と遊んで、昔の同級生と飲んだという顛末である。

 ぼくはこうして時折は活力を回復して、熟睡できる夜を迎えることもある。ぼくは20年生き延びてきた結果としての、自分というものを、わからないなりに、得てきたのかもしれない。


 さて、思い返すと今年のいいことはたくさんあった。引っ越しをしたし、免許も取った。好きな漫画家の色紙を貰ったし、好きなアーティストのツアーBDも買った。ロンドン展にも行ったし、こっそり熱海にもドライブしに行った。2年前から面白いことを書き綴ったメモ帳を書き切った。特に単位も落とさなかった。おそらく。

 今年のベスト・ソングは何だろう。アカシアか(あんなに気に入った月虹は、思い返せば去年のリリースだ)、辻井さんのラ・カンパネラか、ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番か、カラヤンの指揮する運命だろう。

 やり残したことは、noteの見出しを描き切ることくらいで、特にない。noteの見出しは、油彩平筆で全部書こうとしているのだが、なかなか上手くいかなくって、半分も描けていない。

 そして来年の抱負は、漫画を描くということくらいだ。近頃授業の課題でシャチの論文(もちろん英語のものだ)を10近く読み漁ってみて、何かのプロジェクトに熱心に取り組むということが、怠惰な僕には必要なことだと改めて感じられた。それと、アナログとデジタルについてまだ頭を悩ませていることについて、そろそろある程度の着地点を得たい。だからしっかり真面目に力を入れた漫画を練習しようと思っている。とにかく、ぼくはあまりに怠けている。もっと手を動かさなくてはならない。いま考えているのは、......。あることにはあるが、まだ言わない。有言実行のコツは、8割以上実行してから発言をすることだ。とにかく、丑年だから、牛のように頑張ろうと思っている。牛のようにということについては、来年の一発目の日記に書くことにする。
 あと、そうだ。新しい枕でも買おうかしらん。


 乱雑でまとまりがなく、行ったり来たりするような総括になってしまったが、薄いなりに濃い一年だったのだろう。


 では、良いお年を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?