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ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

 上野の国立西洋美術館でロンドン・ナショナル・ギャラリー展という特別展が開催されていた。ロンドンのナショナル・ギャラリー初の館外作品展で、ゴッホの『ひまわり』を含む61もの初来日作品が展示されるという、極めて規模の大きなものである。私のとある知人が行ったらしく、大変良いものであるという様子であったので、私の方でも気になって、先達て友人のYを連れて行ってきた。

 私は絵を描くこともあって、後学やら、刺激のために赴くのである。Yはただ軽跳な人で、何処でもついてきてくれる上、芸術に興味があるようだから、丁度いいと思って誘ったから来たのである。いずれにせよ、大学生は入館料が安く、美術館に行くのにいい時期である。
 しかし只今は渦中ということで、チケットは入場制限のある日時指定券のみの販売だった。買うのも多少手間取った。

 さて迷路じみた東京の地下鉄を抜けて上野へ着くと、生憎の秋雨であったが、館内には大勢の人が居たから驚いた。入場制限もへったくれもない。待機列に並んで、階段を下りて本展の入り口まで来たが、やはり想像以上に混雑していた。
 入り口前にはこんなものもあった。なかなか気が利いている。記念に撮ってきた。マスクは写真を撮る時のみ外した。

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とっても偉そうに座っている。それにしても、このひまわりは些か安直である。

 これから本展の感想を述べる前に、先に断っておかなくちゃならないことがある。これを言っておかないと、私の意見が、偉大な知識や経験からくるような、大袈裟な風に捉えられてしまって、実際の趣意と違ってくる可能性が生じてしまう。それはつまり、私は絵画なぞ頓とわからない。ということである。大学で芸術系の講義を聞いたこともあるが碌に覚えちゃいない。教壇に立つ教授やらの殆どは、皆自らの感性を高級なものと過信して、一般と異なることのみに執着する天邪鬼の奸物ばかりだと思って聞いていた。講義では美術史や特筆すべき作品について何とかかんとか言っていたようだが、私にはただ、それが個人的な偏向、或いは権威のある人や古い人の言葉をありがたがっているだけとしか思われなかったのである。
 すなわち、私の意見は、巧妙で、肯綮に中る剴切なものではなく、ただ真率で、ちょっとした軽躁から生じる非凡なものに過ぎない。だから、そういう風に、安直に読んでもらえれば大いに結構である。

 本展は時代ごとの七つの区分に分けられて作品が展示されていた。すなわち、

Ⅰ. イタリア・ルネサンス絵画の収集
Ⅱ. オランダ絵画の黄金時代
Ⅲ. ヴァン・ダイクとイギリス肖像画
Ⅳ. グランド・ツアー
Ⅴ. スペイン絵画の発見
Ⅵ. 風景画とピクチャレスク
Ⅶ. イギリスにおけるフランス近代美術受容

である。多分重要な意味があるが、あまり仔細を知らないうえに、なまじ説明したところで、古いことなので模糊としてわからないだろうからこれに関して特別な説明は省略する。


 入場すると、仄暗い照明の中で、絵画の前に大勢の人が集っているのが分かった。それが適当に集っているのでなくて、自然と行列が出来て、順々に作品を見る人の流れが出来ていた。早速この最後尾に着いたわけだが、如何せん人が多くて絵画にたどり着くまでにだいぶ時間を要した。列の後ろで老夫婦が、
 「こりゃゴッホ展だとかフェルメール展並みだあな」
 「だってみんな初来日ですもの」
と喋舌っていた。私はその二つの展示会にいかなかったから、別に何とも思わなかったが、兎に角混んでいるらしい。

 61点の作品について一々説明して感想を述べるのはこの日記があまりに長大になりすぎるのでやめておく。気に入ったのを少々掻い摘んで記すことにする。


1.『聖エミディウスを伴う受胎告知』クリヴェッリ (Ⅰ)

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 まず、第一のルネサンス区でクリヴェッリによる『受胎告知』が迎えてくれた。生憎キリスト教徒でないのだから、何が聖エミディウスで何が受胎告知なんだか一向に要領を得なかったが、兎に角大きな画布に描かれていて迫力がすごいのに驚いた。真正面に立つと、思わず跼蹐してしまう感じがした。2mくらいの高さはあるだろう。これだけ巨大なものをどう描いたのだろうか。それから、これはクリヴェッリに限った事ではないが建築物の描画の非常に精巧なことに感激した。厳格な一点透視図法で描かれていて、整然として美しい。祈祷台や棚の木目や、柱や壁の模様、孔雀の尾羽、風に揺れる絨毯など、ほとんど人が手で書いたとは思われないほど緻密で鮮明であった。顔をなるべく近づけて見てみたが、どこにも間然するところがないと思われるほど精巧であった。緻密で迫力のある荘厳な絵画である。成程開幕に相応しい。


2. 『ロブスターのある静物』 ヘ―ダ (Ⅱ)

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 ここまで質感や色調の優れた静物画を初めて実際に見た。この画像ではおそらく十分に伝わらまい。これはロンドン展の公式サイトから引っ張て来たもので、これを見ると、もはや食卓の写真と遜色のない感じに見えるだろうが、そうではない。実物だと、無論写真然とした緻密さもあるのだが、明らかに写真ではない画の感じがするのだ。それは置かれた絵の具の立体性や、照明の具合や、そういった重なりが画というメディアの存在感をありありと輝かせている。ロブスターは実際光って見えた。


3. 『34歳の自画像』 レンブラント (Ⅱ)

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 肖像画が多く展示されていたので、ひとつ取り上げてみたいと思う。これは『夜警』とかで有名なレンブラント・ファン・レインの自画像である。彼はもうとっくの昔に死んだが、この絵の中で生きている。この自信に満ちた目は依然生きていて、我々に活きたまなざしを送っている。画家は、「丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自ずから心眼に映る。かく人生を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私欲の羈絆を掃蕩するの点において、千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である」と漱石は言うが、こうして不同不二の乾坤の中で永久に生きていられるのだから、なおさら幸福である。


4. 『幼い洗礼者聖ヨハネと子羊』 ムリーリョ (Ⅴ)

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 これもキリスト教に関連した画である。しかしヨハネというと大抵壮年の男を想像するからこの画は意外だった。本展では画の横にちょっとした解説が置かれている作品が少しあって、宗教画にはかなり意図が含められているということを知ったので、この幼いヨハネが指を上向きに立てていたり、服がはだけていたり、左足が一段高い位置に置かれていたりするのにも意味があるんじゃないかしらんと思ってしまった。実際いくらでも何かと関連付けられそうだ。識字できない人々が多い頃に、人々に宗教を信仰させるために、こういった分かりやすく、親しみやすく、あたかも現実であるような精密な画が使われてきたのだろう。

 また、この画の優しい感じとかわいらしい魅力が気に入って、長いこと眺めていたら、後でYにそっちの気があるんじゃないかと指摘されてしまった。


5. 『コルオートン・ホールのレノルズ記念碑』 コンスタブル (Ⅵ)

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 これは同郷の画家レノルズを弔うための記念碑を描いたのだそうだ。私はその記念碑より、周りに描かれている木々が気になった。木、植物というものは、自然が生み出す最も不自然の許された複雑な形である。いったんそれを描こうとすると、自然を描いたのに不自然になってしまう。彼らは不自然に見えても、物理学的な、生化学的な、多くの根拠に基づいて生えている。そうしてそれがあまりに那由他に生えているのだから、写し取るのが難しい。ここでは屈曲する木や落葉した木が上手く色調によって補完され、記念碑を際立てている。

 この画を見ていたら、隣に美大生が来た。本展には私よりずっと若いのから、老いた人までが幅広く来場していたが、もちろん学生もいて、とりわけ、美大生というのはすぐに分かった。なぜ美大生という職業の者は、ああも美大生だとはっきり感じられるのだろうか。髪型や、顔や、服装や、持ち物やら、いちいち切り取って眺めると全く普通なのだが、総体として立っているものを見ると、これは美大生だなと思えて仕方がない。歳のせいではない。同じくらいの歳の人もいて、その中でどうしても美大生とそうでない二種類の人間がはっきりと現存しているのである。どこかが律速になっているに違いない。絵の教育を受けると、ああいう気風をまとうようになるのだろうか。


6. 『ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス』 ターナー (Ⅵ)

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 『坊っちゃん』にて、赤シャツと野だいこが比喩にもちいたターナーである。こういうと外聞が悪いかも知らないが、確かに非常にいいものであった。殊に昇る太陽のまばゆい、淡い、濃い光の表現は卓越したものだ。こういう絵を枯淡と評するのかもしれない。ちなみに、どういった場面の画かというと、ホメロスの『オデュッセイア』の第9歌で語られる逸話、オデュッセウスが巨人ポリュフェモスをやっつけたところを描いているそうだ。意味不明だが、実際にこれを見たときに、この光の具合に、大いに感動したのだ。


7. 『睡蓮の池』 クロード・モネ (Ⅶ)

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 印象派が好きだ。ある一瞬の、その非常に複雑で、極めて美しい場面を、余すことなく描き尽くすことに成功していると思う。
 絵画として、時間を切り出す表現として、印象派は時間的な厚み・変化の多い感がする。無論時間を止めた一瞬を描いているのだが、点描や省略や抽象によって、その一瞬が非常に多様な見え方を有していると感じる。

 印象派の巨匠モネの作品は睡蓮の連作からのこの一点が、第Ⅶ区「イギリスにおけるフランス近代美術受容」に置かれていた。明らかな緑、そして随所に控えた青や紫が、繁茂する睡蓮を光と影との世界に落とし込んでいる。太鼓橋も印象深い。『ひまわり』に次ぐ人気で、人がたくさん集まっていた。大体のところ、みんな私と同様に、モネとかゴッホしかしらないんだろう。

 

8. 『劇場にて/初めてのお出かけ』 ルノワール (Ⅶ)

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 愛くるしく微笑ましい絵画があった。初々しさが見て取れる少女の画である。ルノワールのつけた題ではないそうだが、「初めてのお出かけ」というのも可愛らしい。
 不明瞭に描かれた観客からは動き・ざわつきが、そしてそれに強調された、劇場の景色に溶け込めない少女からは、不安や余裕のなさ、真剣さがひしひしと感じられる。黄と紺の対照もこの情景を鮮やかに演出している。見ていて穏やかな心持になる作品である。

 そう云えば、第一区から薄暗い照明の下で鑑賞を続けてきたが、この第七区の展示場は殊に明るかったことを記憶している。私には判然としないが、絵画を展示する舞台のこともよく考えられて設計されているのだろう。ここで少し脱線するが、旧友のとある男と先日話す機会があって、その彼から聞いた話であるが、彼も美術館へ行ったという。何でも我々と違って現代アートの展示会へ、当時昵懇だった女性と行ったという。そこでは色々な現代アートが展示されていたのだが、その中に一つよくわからないものがあったという。四角いもので、手を触れるなという注意書きがあって、ごおごお音が鳴っていたから、彼女と何だろうと話をしながら眺めていたらしい。二人とも芸術に暗い人だから、わからずじまいで次の間に行くと、何とそこにも同じものが展示されていた。そうしてその次の間にも置かれていたのだから、彼らは一層不思議がって、彼女と3つ目のそれをまじまじと眺めていたところで、ようやくわかったことには、二人して鑑賞していた四角いそれは、空調だったという。部屋の端っこにある空調をわざわざ二人で鑑賞していたのだという。ちなみにその彼女とはそれからしばらくして別れてしまったらしい。


9. 『バレエの踊り子』 ドガ (Ⅶ)

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 これはYの一番気にいった画だという。私はこの画を見て、一番手前のバレリーナの背中にまで緑の色が差し入れられているのを見て面白く思ったことを記憶している。Yと解説が言うには、ドガという画家が、バレエがあまりにも好きで、オペラ座の会員になって、一般の人は立ち入れない稽古場等に入ってこのような画を描いたらしい。この時代のバレリーナというと、これまた曰く付きで、少々込み入った話があるのだが、ドガの画中で、踊り子が一般化されていたり、不思議な雰囲気がするのは、こういった背景があることに起因しているようだ。
 絵画というのは、その画布に塗られた絵の具を見るよりはるかに、その画布の裏に描かれた物語を覗き見ることに興味が向けられているような気がする。無論、そういった楽しみ方も悪くない。どうやって絵の具が塗られたかを知ると、その絵の具の意味や魅力が増してくるものだ。

 そういった意味も含めて私は絵画が好きな方だ。醜い自我で包まれた一部の現代アートのような、意味を聞いたところで全く判然としないものも世には多く存在する。それらに比較すると、絵画という芸術は、空調を眺めるよりよっぽど面白いものだろう。


10.『花瓶の花』 ゴーガン (Ⅶ) 

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 ゴッホの夢みた共同体に参加し、そして一事件の後にそこから立ち去ったゴーガンの描く花である。金の背景や咲き乱れる花々の煌びやかな様子と同程度に、落下した花や重い色の画面下部に、暗く、儚げで、奇妙な雰囲気がする。この画は他の作品と同等に配置されて、他の作品と同様に人から眺められているのだが、ある異様な輝きを放っていた。

11. 『ひまわり』 ゴッホ

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 ロンドン展もいよいよフィナーレである。この作品はわざわざ広場に一点だけ置かれていた。人集りのなか、私は初めて、誰もが知るこの傑作をまじまじと見た。こうして何度も見たことのある絵は自然天然観察が疎かになっている。だから細かく観察すると、非常に新しい画に見えた。近くや横から見ると、インパストがはっきり見えるし、花瓶は歪んでいるし、何よりこのひまわりの花は、明らかに普通ではない。ゴーガンの花と同様にどこか妖氛な感じがする。共同体に対する希望をもって、太陽に向かう、信仰と愛の花としてひまわりを描いたのだろうが、この鮮やかな黄色い色彩の中に、一種の妖気、――傑作と言われる所以を感じざるを得なかった。


 以上11点を選んで紹介した。このほかにも、全61の作品は全て私に大いに感動を与えてくれた。かくしてロンドン展は私の記憶に深く刻まれたのである。


 出口を抜けて時計を見ると、入場から三時間以上経っていたのだから驚いた。出口を抜けた先には売店があって、記念に諸々のグッズを買ったのであるが、中でも公式図録が非常に出来の良い一冊となっていた。文量も相当で、本展全作品が余すことなく解説されている。それでいて安い。3000円だった。表紙にはゴッホ/フェルメール、クリヴェッリ/ターナーの二種類があった。私はターナーの方を、Yはゴッホの方を買った。
 解説では、宗教的背景を含めて構図や背景装置の説明が細かくなされていたので、私のような門外漢でもおおむねの絵画の意図は理解できた。
 しかし、この解説が、どれも言い切りの形で述べられているのはいけない。例えばクリヴェッリの『受胎告知』において図録曰く、「床に置いてあるリンゴと瓜は、我々の世界と絵画空間の境界に置かれ、我々をクリヴェッリの絵画世界へ誘う」という。こんな果実の効果などを断定して言い切ってしまうのは狼藉である。これはただのリンゴと瓜である。第一この絵画と対面して、真っ先に下の方にあるリンゴと瓜を見る者などいるはずがない。こういうことをクリヴェッリ本人が述べたのなら格別、ただ他人が勝手に考えたこじつけを、あたかも本人がそうしたのだと言わんばかりに断定して、解説として載せるのは乱暴だ。ただのリンゴと瓜である。どう捉えるかは人の勝手であるのだから、「かもしれない」だとか「だろう」くらいにしておいた方が、芸術の先生に劣らぬ天邪鬼の私でも「それは野卑だ」とか「なんだ偉そうに」とか反抗せずに容易に飲み込むことが出来るのだが、ここでは多くが言い切りで語られていて、ちょっと辟易した。

 しかしながら、この当て擦りを自戒して本書を擁護すると、ロンドンナショナルギャラリーの人間が書いているようだから、定めて嘘はないだろう。様々な学説や思想もあろうが、極めて専門的な知見から公平で妥当な意見が述べられているはずである。さらに、私のこの辟易は、解説文が原文でなくて英語を日本語に訳したものであるということも勘案しなければならないだろう。

 ちなみに、これは余談であるが、上野を出た後Yを連れて居酒屋へ行って、カンガルーやダチョウの肉を食いながら酒を飲んで、大いに酔っ払った。あとで聞いた話によると、このご時世だから、Yは居酒屋といった人の多い場所へ行くのを親から規制されていて、本人でも矢張り遠慮していたらしい。そしてもう一つ聞いたところによるとYの母が私の日記を少し読んでいるというようだから、万が一にその母がこれを読んでいた場合のために、Yが叱られないようにこの場で弁解をしておく。かの温良篤厚のY君は社交のために、すなわち私との友好を大事に思って、こうしてともに酒を飲んだのである。我等の行った居酒屋は割合に人の多くない場所であったし、感染対策も取っていたうえ、何より私が連れ出して誘ってしまったのだから、彼についてはどうか寛化していただきたい。私については、こうした事情を知らないで、また窺知できずに、全く無遠慮に連れ出してしまったことを深く謝すると同時に、月日の経った今こうして二人とその家族が無事でいることに胸を撫で下ろすのであるという辞を以て、この日記を結ばせて頂きたい。


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 それにしても、この日記は反応が少ない割に意外な人が読んでいるから、時折その告白を以て私は驚かされる。また忸怩たる思いを起こさせられることもある。滅多なことが書けないとは言わない。むしろ私はこの事実を嬉しく思ってさえいる。私はこの日記を、……この書き方は自分しか意味がわからないのではないだろうか、とか、横書きでは見づらくないのだろうか、とか、こう冗長だと読みにくくなかろうか、とか一々心配しながら書いているのだから。

 とかくに、この私の行屎走尿を連ねた傍若無人な日記を、面白いと思って読んでくれている人が僅かにでもいるのはこの上なく有難いことである。ぜひ今後も読んでもらいたい。

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